王都の記録編 50話 死後三日の名前
リシアは、ノエルが残した言葉を受けて王都へ戻った。
王宮譜庫では、セレナとエルネアが旧歌術隊の封鎖記録を調べていた。
そこには、ルゼットで使われた静音符に近い静律補助符の記録が残されていた。
本来は眠れない兵を休ませるためのものだったが、途中から恐怖や悲嘆を抑え、再び戦場へ向かわせるために使われていた。
さらに、残響歌の中でアイシャがその運用に異議を唱えていた声をリシアは聞く。
そして封鎖記録の閲覧者名簿には、戦死したはずの日から三日後の日付で、アイシャ・リーヴェルトの名が残されていた。
アイシャ・リーヴェルト。
その名前は、古い紙の上に確かに残っていた。
滲みも、削られた跡もない。
誰かが後から乱暴に書き足したようにも見えない。
王宮譜庫の冷たい灯火の下で、その名だけがひどく鮮やかに見えた。
日付は、リシアが知っている戦死日の三日後。
リシアは紙を見つめたまま、しばらく動けなかった。
喉の奥が乾いている。
声を出そうとしても、うまく形にならない。
シルが机の上へ降り、リシアの手首に前足を置いた。
小さな重み。
それでようやく、リシアは息を吸えた。
「これは、間違いではないんですか」
声は静かだった。
自分でも驚くほど、静かに出た。
けれど、その内側では心臓が強く鳴っている。
セレナはすぐには答えなかった。
エルネアも視線を落としている。
王宮譜庫の奥では、古い紙がかすかに軋む音だけがした。
「誤記の可能性はあります」
エルネアが慎重に言った。
「ただし、この閲覧者名簿は封鎖記録に付属していた正式な管理紙です。日付、印、書式の整合は取れています」
「つまり」
リシアは唇を結んだ。
「誰かが、アイシャの名前を正式にここへ残した」
「そう見えます」
エルネアの声は重かった。
リシアはセレナを見る。
師は机の向こうで、腕を組んだまま黙っている。
いつものような厳しさはある。
けれど、そこに揺れがあった。
リシアには分かる。
セレナもまた、この記録を初めて見たのだ。
少なくとも、この形では。
「セレナさん」
リシアは名を呼んだ。
「アイシャの遺体が見つからなかったことは、知っています」
セレナの目がわずかに細くなる。
「でも、戦死日は記録されています。王国の正式な記録にも、慰霊碑にも」
「戦死日は、確認された死亡時刻ではない」
セレナがようやく口を開いた。
その言葉が、譜庫の空気へ落ちる。
「最後に生存が確認された日だ」
リシアの胸が、冷たく沈んだ。
分かっていたはずだった。
遺体が見つからなかった。
だから、正確な死は確認されていない。
けれど、記録に日付があり、慰霊碑に名が刻まれ、周囲が死んだものとして語れば、人の心はそれを死として受け入れようとする。
リシアもそうしてきた。
そうしなければ、立っていられなかったから。
「では、三日後に生きていた可能性が」
「分からない」
セレナの返答は早かった。
早すぎるほどだった。
リシアはその速さに、胸の奥で小さな違和感を覚えた。
セレナは目を伏せない。
「期待を持たせるために言っているのではない。名簿に名前があるだけでは、生存の証明にはならない。偽装、代筆、名義利用、いくらでも可能性はある」
「でも、生きていなかったとも言えない」
リシアの声が震えた。
セレナは何も言わなかった。
沈黙が答えになった。
シルが小さく鳴く。
ちい。
その声がなければ、リシアは記録の上に落ちてしまいそうだった。
エルネアが机の端に置かれた小さな鍵束を取った。
銀色の鍵が三本。
そのうち一本だけ、黒く変色している。
「第七封鎖記録の本体は、まだ開いていません」
「開けられないんですか」
「通常の譜庫鍵だけでは足りません。王国印、王宮歌術師印、旧歌術隊印。この三つに加えて、当時の共鳴記録に関わる人物の魔力認証が必要です」
リシアは胸元の徽章に手を置いた。
旧王国騎士団直属歌術隊の徽章。
誇りであり、傷でもあるもの。
「私の徽章が反応するかもしれない、ということですか」
「可能性があります」
エルネアはためらいながら言った。
「この記録は、進軍詩と静律補助符だけではなく、星詠み断章関連調査と繋がっています。リシアさんの共鳴詩が、記録の封鎖条件に使われているかもしれません」
「私の知らないところで?」
その問いに、エルネアは答えられなかった。
セレナが低く言う。
「その可能性が高い」
リシアは目を閉じた。
まただ。
自分の知らないところで、自分の歌が記録されている。
自分の知らないところで、鍵にされている。
進軍詩。
凱旋讃歌。
静律補助符。
そして今度は、星詠み断章。
怒りが湧く。
けれど、その怒りの奥に、別の声もあった。
『リシアなら知って、それでも歌う形を探す』
残響の中で聞こえたアイシャの声。
その声が胸に残っている。
アイシャは、自分を守るために隠せと言ったのではない。
知るべきだと言っていた。
リシアなら、と。
「開けます」
リシアは言った。
セレナが目を細める。
「無理はするな」
「無理かどうかは、触れてみないと分かりません」
「危険がある」
「危険がない記録なんて、もう残っていない気がします」
セレナは言葉を失った。
リシアは自分の声が少し硬くなっていることに気づいた。
責めたいわけではない。
でも、責める気持ちがないと言えば嘘になる。
セレナはリシアを守ろうとした。
けれど、その守り方はリシアから知る機会を奪った。
その事実は、優しさの名で消えない。
エルネアが慎重に封鎖棚へ向かった。
譜庫の最奥。
古い鉄扉の奥に、さらに小さな木製の棚がある。
棚の前には複雑な譜面模様が刻まれた錠が取りつけられていた。
鍵穴は三つ。
その中心に、徽章を押し当てるような丸いくぼみがある。
エルネアが王宮歌術師印を示す鍵を差し込む。
セレナが旧歌術隊印を差し込む。
王国印の鍵は、エルネアが持っていた。
それを三つ目の鍵穴へ差す。
錠が低く鳴った。
しかし、まだ開かない。
中心のくぼみが淡く光る。
リシアは胸元の徽章を外した。
指先が少し震えている。
シルがリシアの肩で身を乗り出し、徽章をじっと見ていた。
「シル、食べ物じゃないよ」
ちい。
違う。
そんな顔でシルは鳴く。
さすがに徽章を食べようとはしていなかったらしい。
ただ、その瞳にはいつもと違う警戒がある。
リシアは小さく頷いた。
「危なかったら止めてね」
ちいっ。
任せろ、と言いたげな声だった。
リシアは徽章を錠の中心へ押し当てた。
冷たい感触。
次の瞬間、徽章が淡い青白い光を帯びた。
錠の譜面模様がゆっくり回転する。
古い歌が、かすかに響いた。
歌詞のない旋律。
それはリシアの声に似ていた。
でも、少し違う。
幼い頃の自分の声。
歌術隊に入ったばかりの頃の、まだ迷いの多い声。
リシアの胸に、昔の記憶が触れる。
訓練場。
新品の制服。
徽章を胸につける時、手がうまく動かなかった自分。
横からアイシャが笑って覗き込んできた。
「リシア、曲がってる」
「え、どこ?」
「こっち。いや、行きすぎ。逆」
「アイシャが言うと余計分からない」
「失礼な。私はまっすぐつけられるよ」
そう言って胸を張ったアイシャの剣帯は、思い切り左右逆だった。
リシアが指摘すると、アイシャはしばらく固まる。
その後、二人で慌てて直そうとして、余計に絡まった。
訓練場の端で、セレナが無言で見ていた。
怒られる、と思う。
けれどセレナは、長い沈黙の後でただ一言だけ言った。
「入団式までに直せ」
アイシャは小さく敬礼し、リシアは必死に笑いをこらえた。
あの日、アイシャはリシアの徽章を最後にまっすぐ直してくれた。
「ほら。これで歌術隊のリシア」
「変じゃない?」
「変じゃない。すごく似合ってる」
「本当に?」
「本当。リシアの歌、きっとみんなの力になるよ」
その記憶は、明るかった。
明るいから、今は痛かった。
リシアは息を吸う。
徽章の光が強まる。
錠の奥から、別の心歌が滲み出た。
『使わないで』
『その子の歌を、本人の知らない鍵にしないで』
『リシアは道具じゃない』
アイシャの声だった。
リシアの指が震える。
錠が開く音がした。
重い棚の扉が、ゆっくりと手前へ動く。
冷たい空気が流れ出した。
紙の匂い。
古い血のような鉄の匂い。
そして、閉じ込められた歌の匂い。
エルネアが息を呑む。
「開きました」
中には、一冊の薄い記録簿と、封筒が三通あった。
記録簿の表紙には、手書きでこう記されている。
第七封鎖記録。
星詠み断章関連調査。
共鳴核候補および護衛観測者記録。
リシアは最後の行を見つめた。
共鳴核候補。
護衛観測者。
嫌な言葉だった。
人の名前を役割へ置き換える言葉。
エルネアが震える手で記録簿を開く。
最初のページには、候補者名が並んでいた。
ほとんどは黒塗りされている。
その中で、一つだけ残っている名があった。
リシア・フェルミナ。
その横に、小さく追記がある。
心歌感受性、極めて高。
共鳴詩形成、確認。
進軍詩反響変換能力、観測対象。
リシアは文字を読んだ。
読んだのに、すぐには意味が入ってこなかった。
観測対象。
自分は、歌術隊の一員だった。
そう思っていた。
セレナの部下で、アイシャの隣にいて、戦場で歌った歌術師だった。
でもこの記録では、リシアは人ではなく、調査対象として書かれている。
シルが低く鳴いた。
ちい……。
怒っている。
小さな相棒の毛が、少し逆立っていた。
リシアはそっと指を伸ばし、シルの背を撫でる。
「大丈夫」
そう言ったが、自分でもあまり信じられなかった。
セレナは記録を見つめたまま、顔色を失っている。
「私は、これは見ていない」
「分かっています」
リシアは答えた。
即座に言った自分に、少し驚いた。
本当に分かっているのかは分からない。
けれど、セレナの心歌は聞こえていた。
『知らなかった』
『こんな名前で呼ばせた覚えはない』
『守れていなかった』
それは嘘ではないと、リシアには思えた。
エルネアが次のページをめくる。
護衛観測者名。
アイシャ・リーヴェルト。
役割。
対象の心理安定維持。
戦場運用時の変化観察。
異常共鳴時の制止。
リシアの喉が詰まる。
アイシャが、観測者。
自分の隣にいた幼なじみ。
いつも笑って、少し乱暴で、リシアの歌を誰より好きだと言ってくれた人。
その彼女まで、記録の中では役割に変えられている。
「違う」
リシアは小さく言った。
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
「アイシャは、そんな役割で私の隣にいたんじゃない」
記録がそう書いていても。
誰かがそう扱おうとしていても。
アイシャがリシアに向けてくれた笑顔まで、観測のためだったとは思いたくなかった。
思えなかった。
その時、封筒の一つが淡く光った。
封蝋には、旧歌術隊印が押されている。
ただし、その上から別の印が重ねられていた。
軍務局の黒い印。
セレナが目を細める。
「それは」
エルネアが封筒を裏返す。
宛名があった。
セレナ・アーヴェルト隊長殿。
差出人名はない。
しかし、封筒の隅に小さな文字が書かれていた。
リシアには見覚えがあった。
丸みのある、少し勢いの強い字。
アイシャの字だった。
リシアは息を止める。
「開けても」
エルネアがセレナを見る。
セレナは硬い表情で頷いた。
「私宛なら、私が開ける」
セレナは封蝋を丁寧に外した。
中には、一枚の手紙が入っている。
古い紙。
しかし保存状態はよかった。
セレナは最初の数行を読み、手を止めた。
その表情が、静かに崩れる。
リシアは見たことがなかった。
セレナが、こんな顔をするところを。
師はいつも強かった。
厳しく、まっすぐで、少し遠い人だった。
そのセレナが、今は紙一枚の前で言葉を失っている。
「セレナさん」
セレナは目を閉じた。
そして、手紙を机に置く。
「読め」
声はかすれていた。
リシアはそっと手紙を受け取った。
そこには、アイシャの字でこう書かれていた。
セレナ隊長へ。
この記録を、リシアに隠さないでください。
あの子は傷つくと思います。
泣くと思います。
たぶん、自分の歌を嫌いになりかけると思います。
それでも、知らないまま歌わせる方が、ずっと残酷です。
リシアは弱くない。
怖がりだけど、弱くない。
あの子は、人の心を勝手に動かすために歌ってるんじゃありません。
誰かが自分で選ぶために、そばで震えてる歌を拾ってるんです。
だから、あの子の歌を勝手に研究名で呼ばないでください。
共鳴核なんて呼ばないでください。
リシアはリシアです。
私が保証します。
リシアの視界が滲んだ。
字が揺れる。
それでも読み進める。
もし私に何かあったら、この手紙をリシアに渡してください。
そして伝えてください。
リシアの歌は、戦うためだけじゃない。
帰るためでも、泣くためでも、笑うためでも、黙っている人の隣に置くためでもある。
それを一番分かっているのは、きっとリシア本人です。
だから、リシアに選ばせてください。
歌うかどうかを。
知るかどうかを。
閉じるかどうかを。
探すかどうかを。
最後の行で、文字が少し乱れていた。
それでも、はっきり読める。
隊長。
リシアを守るなら、リシアから選ぶ権利を取らないで。
リシアは、手紙を胸に抱きしめた。
声が出ない。
涙が落ちそうになるのを止められなかった。
アイシャは、知っていた。
そして、自分のために言ってくれていた。
リシアに知らせてほしいと。
リシアに選ばせてほしいと。
セレナは何も言わなかった。
ただ、机に手をつき、深く俯いている。
その心歌が、初めてはっきり聞こえた。
『受け取っていない』
『私は、この手紙を受け取っていない』
『届いていれば』
『いや、届いていても、私は渡せただろうか』
リシアは顔を上げる。
「セレナさん。この手紙は」
「私は受け取っていない」
セレナは苦しそうに言った。
「少なくとも、当時の私は」
「では、誰が封鎖記録に」
「止めた者がいる」
エルネアが封筒の黒い印を見つめる。
「軍務局が差し止めた可能性があります。アイシャさんの手紙が、セレナ殿に渡らないように」
リシアは手紙を見下ろす。
アイシャの字。
アイシャの言葉。
それがずっと、ここに閉じ込められていた。
自分が知るべきだった声が、封鎖棚の奥で眠らされていた。
怒りがこみ上げる。
悲しみも。
そして、それ以上に、胸の奥で何かが熱くなる。
アイシャは、リシアの歌を信じていた。
それは過去の思い出だけではなかった。
記録の中でも、手紙の中でも、彼女は同じことを言っていた。
リシアに選ばせて、と。
その時、譜庫の扉が叩かれた。
エルネアが振り向く。
「誰ですか」
「レオンです」
落ち着いた声が返ってくる。
扉が開き、レオン・グランツが入ってきた。
金髪の勇者は、王宮の外套を羽織っている。
以前より少し疲れた顔をしていたが、その目はまっすぐだった。
マルセルとユーディも後ろにいる。
レオンは部屋の空気を見て、すぐにただ事ではないと察したらしい。
「遅くなりました」
リシアは手紙を持ったまま、レオンを見た。
言葉が出ない。
レオンは机の上の記録を見て、表情を引き締める。
「王宮内で、軍務局旧保管庫の照合が終わりました」
セレナが顔を上げる。
「何が見つかった」
レオンは一枚の写しを机に置いた。
そこには、軍務局の処理記録が記されている。
リシアの目は、下の方にある一文で止まった。
護衛騎士アイシャ・リーヴェルト。
第七封鎖記録への異議申し立て後、前線離脱。
以後、所在不明。
公的処理。
戦死扱いへ移行。
譜庫の灯火が揺れた。
リシアの手の中で、アイシャの手紙がかすかに震える。
戦死。
死んだからそう記録されたのではない。
所在不明になったから、戦死扱いにされた。
その可能性が、目の前に置かれた。
セレナが低く呟く。
「戦死扱い……」
レオンはリシアを見た。
その目には、勇者としての強さではなく、一人の人間としての慎重さがあった。
「リシアさん。これは、まだ生存の証明ではありません」
「はい」
リシアは答えた。
涙で声が震えた。
「でも、死の証明でもない」
レオンは静かに頷いた。
「はい」
その一言で、リシアの中に閉じ込めていた何かが、大きく揺れた。
希望と呼ぶには怖すぎる。
疑いと呼ぶには痛すぎる。
けれど、確かにそこにあるもの。
アイシャは、本当に死んだのか。
もし生きていたなら、どこへ行ったのか。
なぜ、リシアの前に戻ってこなかったのか。
歌詞帳が胸元で熱を持つ。
ページを開かなくても、そこに浮かびかけた言葉が分かった。
消された声は、まだ終わっていない。
リシアはアイシャの手紙をそっと抱きしめる。
王宮譜庫の奥で、閉じられていた記録が、さらに深い闇への扉を開き始めていた。
今回は、第七封鎖記録が開かれ、リシア自身が「共鳴核候補」として記録されていたことが明らかになりました。
さらに、アイシャはリシアの歌を研究名で扱うことに反対し、リシアに選ぶ権利を残すよう手紙を書いていました。
けれど、その手紙はセレナに届かず、封鎖記録の中に閉じ込められていました。
最後に、アイシャは正式に死亡確認されたのではなく、「所在不明」から戦死扱いに移された可能性が出てきました。
リシアにとって、アイシャの死そのものが揺らぎ始める回です。
今回も読んでくださり、ありがとうございました。




