黒譜の少女編 47話 声を奪う静けさ
紙燈祭の夜を前に、ルゼットの人々は歌札を付けるか、静音符を持つかで迷っていた。
カヤは弟ノルの紙燈に、整った歌ではなく「怖かった」「会いたい」「眠りたい」という自分の言葉を書いた。
歌えないままでも、自分の声を戻す一歩だった。
しかし、紙燈祭が始まろうとした時、町中の静音符が一斉に黒く脈打ち始める。
黒い札を持っていた人々の声が奪われ、ルゼットの夜から音が消え始めた。
その異変はノエルにとっても予想外のものだった。
最初に消えたのは、助けを呼ぶ声だった。
広場の端で膝をついた男が、喉を押さえて口を開く。
何かを叫ぼうとしている。
けれど、出てくるはずの音がない。
息だけが漏れ、唇が震え、目だけが恐怖を訴えていた。
周囲の人々が駆け寄る。
「大丈夫か!」
そう叫んだ者の声も、途中で薄くなった。
まるで見えない布を口元へ押し当てられたように、言葉の最後が夜へ吸い込まれる。
黒い札が震えている。
一枚だけではない。
広場にいる人々の懐から、袖口から、胸元の小袋から、次々と黒い線が伸びた。
耳元へ。
喉へ。
胸の奥へ。
声が、糸で縛られていく。
紙燈の灯りは揺れていた。
赤や青の薄紙の内側で、小さな火が怯えるように震える。
美しい祭りの灯りが、今は町の声を吸う黒い譜面を照らしていた。
リシアは息を呑む。
静音符は、歌を遠ざける札ではなかった。
少なくとも、今この瞬間は違う。
歌だけではない。
声そのものを奪っている。
泣く声も、助けを求める声も、名前を呼ぶ声も。
広場のあちこちから、音にならない悲鳴が上がった。
聞こえないはずなのに、リシアの胸へは痛いほど届く。
『声が出ない』
『助けて』
『聞こえない』
『私の声はどこ』
『泣きたいのに』
心歌だけが、音を持たないまま激しく流れ込んでくる。
多すぎる。
痛すぎる。
リシアは一瞬、膝が揺れた。
シルが肩の上で鋭く鳴く。
ちいっ。
その声だけは、まだ聞こえた。
小さく、確かに。
リシアは息を整える。
倒れている場合ではない。
だが、すぐ歌えばいいわけでもない。
この町は歌を恐れている。
歌にすがる者も、歌から逃げる者もいる。
その真ん中で、いきなり大きな歌を響かせれば、静音符の罠と同じように感じる人もいるかもしれない。
リシアは周囲を見た。
カヤ。
メリス。
紙漉きの老爺。
アリエ婆。
誰が札を持っている。
誰が声を失っている。
どこから黒譜が流れている。
その時、舞台の影で黒い外套の男が笑った。
音は小さい。
けれど、そこだけは妙にはっきり聞こえた。
「よく灯ったものだ」
男の足元から、濃い黒い譜面が広がっている。
露店で売られていた静音符は、その譜面へ細い線で繋がっていた。
町の人々が自分で買った札。
眠るために、泣かないために、聞きたくない歌を遠ざけるために選んだ札。
その選択の先が、男の黒譜へ結ばれていた。
リシアは男を見据える。
「あなたが仕掛けたんですね」
男は笑う。
「仕掛けたなどと人聞きの悪い。彼らは自分で買った。自分で持った。自分で声を閉じたいと願った」
その言葉に、広場の人々の心歌が乱れる。
『違う』
『そんなつもりじゃない』
『眠りたかっただけ』
『声まで渡した覚えはない』
リシアは拳を握った。
黒譜術だけが悪いと言うのは簡単だ。
けれど、この男は人々の痛みを利用した。
聞きたくない夜を。
眠れない苦しさを。
歌が怖いという正当な感情を。
その上に罠を置いた。
ノエルが舞台の上で男を睨んでいた。
彼女の顔から、いつもの静かな余裕が消えている。
「エルバ」
ノエルは低く名を呼んだ。
黒い外套の男、エルバは彼女を見る。
「どうした、ノエル。君も望んでいただろう。聞きたくない歌から人を解放することを」
「私は、声を奪えとは言っていない」
「似たようなものだ」
「違う」
ノエルの声が鋭くなる。
リシアはその横顔を見た。
怒っている。
少なくとも、この状況を望んでいたわけではない。
ノエルは黒譜の札を配ることを認めていた。
歌を聞かない自由を掲げていた。
けれど、声を奪うことまでは望んでいない。
その線引きが、彼女の中にはある。
エルバは肩をすくめた。
「人は中途半端な静けさでは満足しない。少し眠れれば、もっと眠りたくなる。少し聞こえなくなれば、すべて聞こえなくしたくなる。こちらは望みに形を与えただけだ」
「違う!」
カヤの声が響いた。
いや、響いたと言うにはかすれていた。
彼女の胸元の小袋からも黒い線が伸びている。
それでも、まだ完全には声を奪われていない。
ノルの焦げた歌札を紙燈に結んだことで、静音符だけに頼らなかったからだろうか。
カヤは喉を押さえながら、エルバを睨む。
「私は、ノルの声まで消したいなんて思ってない」
声が途中で途切れる。
黒い線がカヤの喉へ絡みついた。
メリスが悲鳴を上げようとする。
だが、彼女の声も出ない。
母娘の間に、また音のない恐怖が落ちる。
リシアは動いた。
歌ではなく、まず手で。
カヤの胸元の小袋へ触れる前に、彼女を見る。
「触っていい?」
カヤは苦しそうに頷いた。
リシアは小袋から静音符を取り出す。
札は熱を持っていた。
黒い線がリシアの指へも伸びようとする。
シルがすかさず飛びつき、前足で線を払った。
ちいっ。
怒った鳴き声が、黒い線を一瞬怯ませる。
「ありがとう、シル」
リシアは静音符を地面へ置く。
破るか。
いや、今破れば、札に絡め取られている声ごと裂ける可能性がある。
黒譜の線は、ただ札に宿っているだけではない。
人々の中へ入り込んでいる。
無理に切れば、声を取り戻すどころか、しばらく声が出なくなるかもしれない。
リシアは歌詞帳を開く。
ページは激しく震えていた。
けれど、浮かんでくる言葉はまだばらばらだ。
『聞きたくない夜にも、消したくない声がある』
その一節だけが、はっきり見える。
今は、これだけでは足りない。
リシアは周囲を見る。
声を失った人々は、口を開いている。
だが、音は出ない。
歌えない。
泣けない。
助けを呼べない。
この町で必要なのは、リシアが代わりに歌うことではない。
奪われた声が戻るまでの間、どうやって自分の声を示すか。
リシアは紙燈に目を向けた。
紙。
歌札。
願いを書く机。
声にならないなら、書ける。
「カヤ」
リシアはカヤの目を見た。
「書ける?」
カヤは涙を浮かべながら頷いた。
「声が出ない人たちに、紙を配って。今言いたいことを書いてもらって」
カヤの目が大きくなる。
メリスも声は出ないが、すぐに頷いた。
紙燈職人たちが動き出す。
声が出ない代わりに、手が動く。
机の上に白い紙が広げられ、筆が配られる。
紙漉きの老爺も、喉を押さえながら紙束を抱えてきた。
リシアは彼へ頭を下げる。
老爺は声を出せない。
それでも、目だけで強く頷いた。
人々は震える手で紙に言葉を書き始めた。
助けて。
怖い。
声を返して。
眠りたかっただけ。
妻の歌を忘れたくない。
ノル、ごめん。
歌いたくない。
でも消えたくない。
文字は乱れている。
涙で滲んでいる。
けれど、それは声だった。
音にならない声。
静音符が奪いきれない声。
エルバの笑みがわずかに歪む。
「小細工を」
彼が指を鳴らすと、広場の黒い譜面がさらに広がった。
地面を這う黒線が、書かれた紙へ伸びる。
紙に触れた文字が、薄れ始めた。
声だけでなく、書いた言葉まで消そうとしている。
リシアは息を吸った。
今度は、歌う。
ただし、人々の代わりに答えを歌うのではない。
書かれた声が消えないように守るための歌。
静かに、短く。
彼女は紙束の前に立ち、低く歌い始めた。
「消えないで」
広場に、か細い歌声が落ちる。
歌を恐れる人のいる町で、リシアはできる限り小さく歌った。
押しつけない。
覆わない。
ただ、書かれた文字のそばに灯りを置くように。
「声にならない声も、ここにある」
黒い線が紙へ触れようとして、わずかに止まる。
エルバが舌打ちした。
「歌術師か」
リシアの歌に、強い魔力は乗せていない。
それでも、共鳴詩の芯はある。
人々が自分で書いた言葉に寄り添う歌。
だからこそ、黒譜が簡単に覆えない。
ノエルが舞台から降りた。
彼女はエルバの前に立つ。
「止めなさい」
「君が命じるのか」
「これは、私の言葉を利用した」
「利用されたくないなら、初めから正しいことを言わなければいい」
エルバは笑う。
「歌を聞かない自由。素晴らしい言葉だ。実に売りやすかった」
ノエルの顔が白くなる。
怒りか。
後悔か。
その両方かもしれない。
リシアにはノエルの心歌が一瞬だけ聞こえた。
『また使われた』
『私の言葉が』
『私が止めたかったものに』
リシアは歌いながら、その声を聞いた。
ノエルにも、何かがある。
歌を憎む理由だけではない。
自分の言葉を使われた痛み。
自分が正しいと思ったものが、別の誰かの道具になる痛み。
それは、リシアが進軍詩に抱える痛みと似ていた。
だからといって、同じだと簡単には言えない。
ノエルはリシアの方を見た。
「リシアさん」
リシアは歌を止めずに視線を返す。
「札の核を浮かせます。あなたは、人々の声を離さないで」
共闘。
その言葉は使わない。
けれど、今は同じ方向を向いている。
リシアは頷いた。
ノエルは両手を広げ、黒譜術を展開した。
黒い譜面が彼女の足元から広がる。
エルバの譜面と似ているが、音が違う。
ノエルの黒譜は、鋭く、冷たく、しかし無差別に奪うものではなかった。
歌の流れを切る力。
届きすぎる音を遮る力。
彼女が本来求めていたであろう、止めるための黒譜。
ノエルの譜面が、エルバの譜面へ重なる。
静音符の核が広場の中央に浮かび上がった。
黒い小さな輪。
無数の札から伸びる線が、その輪へ集まっている。
そこに町の人々の声が絡め取られていた。
リシアは歌を強める。
「眠りたい夜を、責めない」
声を失った人々が、紙に書く。
眠りたい。
休みたい。
もう聞きたくない。
その言葉が、リシアの歌に支えられて光を帯びる。
「でも、消えたいわけではない」
次の紙が上げられる。
忘れたくない。
泣きたい。
怖いと言いたい。
カヤが震える字で書いた紙を掲げた。
ノルの声を消したくない。
メリスも隣で紙を掲げる。
カヤの声を聞きたい。
紙漉きの老爺が掲げた紙には、短い一文があった。
妻の歌を、今日は少し遠くで聞きたい。
リシアの胸が熱くなる。
そうだ。
全部聞くか、全部消すかではない。
近すぎる歌を、少し遠くへ置くこと。
消さずに、距離を取ること。
それがこの町に必要な形なのかもしれない。
歌詞帳が光る。
リシアの歌に、新しい言葉が混じる。
「近すぎる歌は、少し遠くで灯ればいい」
ノエルが一瞬、リシアを見る。
その目に、微かな驚きがあった。
リシアは続ける。
「遠ざけた声も、なくさなくていい」
黒い輪が震える。
エルバの表情が険しくなった。
「ふざけるな。そんな中途半端な静けさで、人が救われるものか」
「完全に消すことだけが救いではありません」
リシアは歌の合間に言った。
「完全に聞かせることだけが救いではないように」
ノエルの肩が、ほんの少し揺れた。
エルバが黒譜を強める。
広場の札がまた脈打ち、人々の喉を締め上げる。
声はまだ戻らない。
苦しそうに膝をつく者が増える。
リシアの歌だけでは押し切れない。
ノエルの黒譜だけでも、核を切り離せない。
その時、舞台の上でアリエ婆が杖を突いた。
こつん。
小さな音がした。
声を失っていない数少ない者だった。
彼女は静音符を持っていなかったからだ。
アリエ婆は震える足で舞台の中央に立ち、町の人々を見渡した。
「声が出ぬなら、灯せ」
老いた声が広場に響く。
「書いた言葉を、紙燈へ結べ。歌えぬなら、灯りに読ませろ」
その言葉で、町の人々が動いた。
声のないまま。
泣きながら。
震える手で。
自分が書いた紙を、紙燈へ結んでいく。
助けて。
怖い。
忘れたくない。
眠りたい。
会いたい。
それらは願い歌ではない。
美しく整えられた歌詞でもない。
けれど、灯りを受けた紙は、夜の中で確かに光った。
町中の紙燈が、一つずつ声を持ち始める。
音ではない。
文字の声。
灯りの声。
黒い輪へ絡め取られていた声が、少しずつ揺らぐ。
エルバが怒鳴った。
「やめろ!」
彼の声だけが広場に響く。
そのことに、町の人々が気づいた。
声を奪った者だけが、声を持っている。
その不自然さが、人々の中へ怒りを戻す。
心歌が一斉に高まった。
『返せ』
『私の声だ』
『眠りたいだけだった』
『消えるためじゃない』
リシアはその声を受け取った。
ノエルが黒譜をさらに広げ、エルバの譜面を抑え込む。
「今です」
ノエルが言う。
リシアは歌詞帳を開いた。
まだ断章ではない。
けれど、歌は形になりつつあった。
「聞きたくない夜にも」
リシアは歌う。
「消したくない声がある」
紙燈が揺れる。
「眠りたい心を、責めないで」
カヤが紙燈を抱きしめる。
「泣きたい声を、閉じ込めないで」
メリスが娘の肩を抱く。
「近すぎる歌は、少し遠くで灯ればいい」
紙漉きの老爺が目を閉じる。
「遠ざけた声も、なくさなくていい」
黒い輪にひびが入った。
だが、割れない。
エルバが歯を食いしばり、譜面を押し返す。
「弱い。そんな歌では、人の夜は救えない。人は忘れたがっている。痛みなど、声など、すべて消してしまえばいい」
その言葉に、ノエルが静かに言った。
「違う」
エルバが彼女を見る。
ノエルの顔は青ざめていた。
けれど、目は逸らさない。
「私は、聞きたくない人の耳を守りたかった。声を奪いたかったわけじゃない」
「同じだ」
「同じではない」
ノエルは自分の黒譜を、さらに深くエルバの核へ差し込んだ。
その瞬間、彼女の体が大きく揺れる。
黒譜同士がぶつかり、痛みが返っているのだ。
リシアは一歩踏み出す。
「ノエル!」
「歌ってください」
ノエルは振り返らない。
「今だけは、あなたの歌が必要です」
その言葉は、広場に静かに響いた。
リシアは息を呑む。
ノエルが、リシアの歌を必要だと言った。
それは信頼ではない。
和解でもない。
ただ、この瞬間だけの判断。
それでも十分だった。
リシアは歌う。
今度は迷わなかった。
町の人々が書いた声。
アリエ婆の言葉。
カヤとメリスの涙。
ノエルの黒譜。
それらを支えるために。
「声は、歌うためだけにあるのではない」
黒い輪が大きく震える。
「助けてと書く手にも」
紙燈の灯りが広がる。
「怖いと泣く目にも」
人々の喉を縛っていた黒い線がほどけていく。
「会いたいと黙る夜にも」
エルバの譜面が裂け始める。
「声は、消えずに残っている」
黒い輪が砕けた。
音はなかった。
しかし、次の瞬間、広場に無数の息が戻った。
咳き込む声。
泣き声。
誰かの名前を呼ぶ声。
戻った音が一斉にあふれ、紙燈の灯りを震わせる。
カヤが喉を押さえながら、最初に呼んだ。
「お母さん」
メリスが娘を抱きしめる。
「カヤ」
紙漉きの老爺は、震える声で呟いた。
「……聞こえる」
彼が何を聞いたのかは分からない。
妻の歌か。
自分の息か。
それとも、町に戻った声か。
リシアは歌を終え、膝をつきかけた。
シルが慌てて肩から降り、リシアの前に立つ。
守るように。
それから、自分の布袋を確認する。
無事だった。
シルはほっとした顔をした。
「そこも大事なんだね」
リシアが息を切らしながら言うと、シルは真剣に頷いた。
広場の向こうでは、エルバが後ずさっていた。
砕けた黒譜の核を見下ろし、顔を歪めている。
「まだ終わらない」
彼は低く呟く。
しかし、その前にノエルが立った。
「終わりです」
「裏切るのか」
「あなたに従った覚えはない」
ノエルの声は冷たかった。
エルバは笑い、黒い外套を翻す。
足元に残っていた譜面が煙のように広がり、彼の姿を包む。
リシアが駆け出そうとするが、体が重い。
ノエルも動けなかった。
黒い煙が消えた時、エルバの姿はもうない。
広場には砕けた札と、声を取り戻した人々と、夜に浮かぶ紙燈だけが残されていた。
ノエルはリシアを見た。
礼は言わない。
謝りもしない。
ただ、静かに言う。
「あなたの歌は、やはり危うい」
リシアは息を整えながら答える。
「あなたの黒譜もです」
「知っています」
ノエルは目を伏せた。
その返事は、思ったよりも小さかった。
リシアは言葉を続けようとしたが、ノエルはもう背を向けていた。
「まだ話は終わっていません。私は、あなたの答えを認めたわけではありません」
「私も、あなたの答えを全部認めたわけではありません」
ノエルは少しだけ振り返る。
「なら、次に会う理由がありますね」
そう言って、彼女は人混みの奥へ歩いていった。
追いかけるべきか。
リシアは迷った。
だが、今はルゼットの人々を置いていけない。
まだ声が戻ったばかりだ。
泣いている人がいる。
震えている人がいる。
自分の声を確かめるように、何度も名前を呼ぶ人がいる。
リシアは歌詞帳を閉じた。
紙燈は夜空へ上がり始めていた。
歌う者は少ない。
けれど、誰もその沈黙を責めなかった。
声が戻った町で、今夜は歌わない人もいる。
それもまた、この町が選んだ声なのだろう。
カヤがリシアのそばへ来た。
目は赤い。
でも、胸元の小袋から静音符は外されていた。
捨てたわけではない。
手の中に持っている。
「これ、どうすればいい?」
カヤが尋ねる。
リシアは少し考えた。
「今すぐ決めなくていいと思う」
「危ないんでしょ」
「危ない。でも、カヤがそれで眠れた夜も、本当だから」
カヤは静音符を見下ろす。
「今日は使わない」
「うん」
「でも、また怖くなったら?」
「その時は、一人で決めないで。お母さんでも、アリエさんでも、私に手紙でもいい。誰かと一緒に考えて」
カヤは小さく頷いた。
そして、シルを見る。
「黒糖胡桃、ありがと」
シルは得意げに胸を張った。
ただし、次は渡さないという顔もしていた。
カヤはそれを見て、少し笑う。
その笑い声は、声を取り戻したばかりの町に、柔らかく溶けていった。
夜空へ上がる紙燈の下で、リシアの歌詞帳が静かに温かくなる。
新しい断章には、まだ届かない。
でも、その手前にある歌は確かに形を持ち始めていた。
聞きたくない歌と、消したくない声。
その間で、リシアはまだ答えを持っていない。今夜のルゼットは、声を奪われたまま朝を迎えずに済んだ。それで十分だと、自分に言い聞かせる。
だが、退いたはずの黒い札は、消えたのではなかった。
広場の隅で、まだ一枚だけ、誰の手にも渡らないまま静かに鳴っている。
あの札を最後に握るのは誰なのか。リシアは、明日それを確かめなければならない。
今回は、静音符に仕込まれていた罠が発動し、ルゼットの人々の声が奪われる回でした。
リシアは歌だけで解決するのではなく、人々に自分の声を紙へ書いてもらい、その声を守る形で歌いました。
また、ノエルもエルバのやり方を否定し、リシアと一時的に協力することになりました。
完全な和解ではありませんが、ノエルの中にも譲れない線があることが少し見えた回です。
今回も読んでくださり、ありがとうございました。




