↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
47/140

黒譜の少女編 46話 灯りを上げる前に

紙燈町ルゼットでは、かつて願い歌と紙燈が町の象徴だった。

しかし今は、歌札が外され、静音符と呼ばれる黒い譜面の札が人々に買われていた。

その札は、眠れない夜に苦しい歌や記憶を遠ざけるものとして受け入れられている。

リシアは紙燈職人の少女カヤと出会い、弟ノルを火事で失った夜の紙燈歌が、今も彼女を苦しめていることを知った。

黒譜は危険だが、それにすがる人々の夜も本物だった。

そんな中、ノエルは紙燈祭の夜を前に告げる。

歌いたい者は歌い、聞きたくない者は静音符を持てばいい。

リシアは、その自由を止められるのかと問われることになった。


 紙燈祭の朝、ルゼットの町には白い紙の匂いが満ちていた。


 広場の周囲には細い竹竿が立てられ、色とりどりの紙燈が吊るされている。


 丸いもの。


 星の形をしたもの。


 鳥の翼を模したもの。


 まだ火は入っていない。


 それでも薄紙は朝の風を受け、灯っているように柔らかく揺れていた。


 けれど、そこに歌はなかった。


 祭りの準備をする人々は忙しく動いている。


 糊を塗る音、紙を張る音、木枠を組む音、荷車の車輪が石畳を転がる音。


 町は確かに生きている。


 しかし、歌う者はいない。


 リシアは広場の端で、その沈黙を聞いていた。


 肩の上では、シルが黒糖胡桃の残りを小さな布袋に移し替えている。


 昨夜、カヤに半分分けたことを、まだ少し引きずっているらしい。


 袋を開けては数え、閉じてはまた開ける。


 そのたびに尻尾が少しだけ沈む。


「シル」


 ちい。


「減ってないよ。さっきから三回数えてるけど、減ってない」


 ちい。


「疑ってるの?」


 シルは真剣な顔で首を横に振った。


 疑ってはいない。


 ただ確認している。


 そんな顔だった。


「じゃあ、もう袋を閉じようね。胡桃より、今日は紙燈祭の方が大事」


 ちい。


 シルは少し考えた。


 かなり考えた。


 そして、不承不承という様子で袋の口を結んだ。


 リシアは苦笑する。


 小さな相棒の真剣さに救われながら、視線を広場へ戻した。


 昨夜、ノエルは言った。


 歌いたい者は歌えばいい。


 聞きたくない者は静音符を持てばいい。


 言葉だけを聞けば、それは自由に見える。


 けれど、リシアには気がかりがあった。


 黒譜の札は、ただ歌を遠ざけるだけではない。


 苦しい記憶だけでなく、泣く力や助けを求める声まで鈍らせる。


 それでも、その札で眠れた人がいる。


 眠れた夜を、間違いだったと切り捨てることはできない。


 リシアは胸元の歌詞帳に触れた。


 歌うべきか。


 歌わないべきか。


 その問いは、この町に来てからずっと形を変えながら胸の中にある。


 答えはまだない。


 だからこそ、今日は聞くしかなかった。


 歌う前に。


 あるいは、歌わないと決める前に。


「リシア」


 声に振り向くと、カヤが立っていた。


 昨日と同じように、腰には紙燈作りの道具袋を下げている。


 ただ、胸元の小袋は昨日よりしっかり結ばれていた。


 中に静音符が入っている。


 そのことは、聞かなくても分かった。


「おはよう、カヤ」


「……おはよう」


 カヤは少し気まずそうに返事をした。


 昨日、泣いたことを気にしているのかもしれない。


 それでも逃げずに来た。


 リシアはそのことが、少し嬉しかった。


 カヤはリシアの肩のシルを見る。


「そのリス、まだ黒糖胡桃持ってるの?」


 ちいっ。


 シルは袋を抱え、警戒した。


 カヤは呆れたように笑う。


「取らないよ。昨日もらったし」


 シルは少しだけ考え、布袋の口を前足で押さえたまま頷いた。


 信用は半分だけらしい。


「今日は忙しいんじゃないの?」


 リシアが尋ねると、カヤは広場の紙燈を見上げた。


「忙しい。けど、逃げてきた」


「逃げて?」


「お母さんが、歌札を付けるかどうかでずっと悩んでるから」


 カヤの声が少し硬くなる。


「うちの紙燈屋、昔は歌札も作ってた。ノルが好きだった。字は下手だったけど、自分で歌詞を書きたがって」


 リシアは黙って聞く。


 カヤは道具袋から、細い紙片を一枚取り出した。


 古い歌札だった。


 端が焦げている。


 文字は途中でかすれていたが、子どもの手で書かれたような不揃いな線が残っている。


「これ、ノルの」


 カヤは歌札をリシアに差し出しかけ、すぐに引っ込めた。


「ごめん。触らないで」


「うん。触らない」


 リシアは頷く。


 カヤは少し驚いたようにリシアを見た。


 きっと、見せたなら触れられると思っていたのだろう。


「見せてくれてありがとう」


「別に。見せただけ」


 カヤは歌札を胸元に戻した。


 その指が、静音符の入った小袋と歌札の間で迷う。


 リシアの耳に、細い心歌が届いた。


『付けたい』


『でも歌が戻る』


『付けなかったら、ノルがいなかったみたい』


『聞きたくない』


『忘れたくない』


 リシアはその声を胸の中に受け止めた。


 言葉にしない。


 カヤが自分で言えるまで待つ。


 カヤはしばらく黙っていたが、やがて小さく言った。


「リシアは、今日歌うの?」


「まだ決めてない」


「決めてないの?」


「うん」


「歌術師なのに?」


「歌術師だから、迷ってる」


 カヤは不満そうな顔をした。


「変なの」


「昨日も言われたね」


「今日も言う」


「うん」


 シルがちい、と鳴く。


 同意の声だった。


 リシアは相棒を見た。


「シルまで?」


 ちい。


「そうですか」


 カヤが少し笑った。


 その笑顔は昨日より自然だった。


 けれどすぐに、広場の奥から呼ぶ声がして、カヤの表情が固くなる。


「カヤ!」


 中年の女性が、紙燈を抱えてこちらへ歩いてきた。


 カヤと同じ栗色の髪。


 目元は疲れているが、立ち姿には職人らしい芯がある。


 彼女はリシアを見て、少しだけ警戒した。


「あなたが旅の歌術師さん?」


「はい。リシア・フェルミナです」


「カヤの母のメリスです」


 メリスは短く名乗った。


 その手に抱えられた紙燈は、他のものより少し小さかった。


 薄い白紙で作られ、ところどころに金色の紙片が貼られている。


 綺麗だ。


 けれど、歌札を結ぶ紐だけが空のままだった。


 リシアの視線に気づき、メリスは紙燈を胸に寄せる。


「ノルの紙燈です」


 カヤが小さく息を呑む。


 メリスは娘を見ないまま続けた。


「毎年、作るだけ作って、灯せずにしまっていました。今年は灯そうと思ったんです。でも、歌札を付けるかどうかで」


「お母さん」


 カヤの声が震える。


「無理に付けなくていいって言ったじゃん」


「無理をしているのは、あなたでしょう」


 メリスの声も震えていた。


 母娘の間に、言えなかった時間が横たわる。


 同じ家にいながら、同じ火事を抱えながら、二人は別々に夜を越えてきたのだろう。


 リシアは一歩下がった。


 ここでリシアが前に出すぎてはいけない。


 言葉を置くとしても、二人の会話を奪わないように。


 カヤは胸元の小袋を握った。


「私は、歌札を付けたくない」


「そう」


「でも、ノルの紙燈を何もないまま上げるのも嫌」


「私も」


 メリスは紙燈を見下ろした。


「私も、嫌なの」


 その言葉に、カヤの目が揺れる。


 母の中にも同じ迷いがあった。


 初めて聞いたような顔だった。


 リシアの耳に、メリスの心歌が届く。


『母なのに守れなかった』


『歌って落ち着かせようとした』


『怖いと叫ばせてあげればよかった』


『カヤまで失うのが怖い』


 カヤの心歌と、重なる部分があった。


 怖かったと言えなかった娘。


 怖いと叫ばせてあげられなかった母。


 歌が二人の間にある。


 でも、歌だけが原因ではない。


 悲しみを互いに見せられなかった時間が、二人の間を薄く隔てている。


 リシアは静かに言った。


「歌札は、必ず歌うためのものですか」


 メリスとカヤが同時にリシアを見る。


「どういう意味?」


 カヤが尋ねる。


「歌えなかった言葉を書いてもいいんじゃないかと思って」


 メリスが眉を寄せる。


「歌えなかった言葉……」


「はい。怖かった、とか。今でも寂しい、とか。歌にならないまま残っている言葉を」


 カヤの表情が強張る。


 リシアはすぐに続けた。


「書かなくてもいい。付けなくてもいい。でも、歌札だから綺麗に歌わなきゃいけないわけじゃないと思う」


 メリスは紙燈を見つめる。


 カヤは唇を噛んでいた。


「そんなの、祭りっぽくない」


 カヤが言う。


「願い歌の町なのに、怖かったなんて」


「願いは、明るい言葉だけじゃないと思う」


 リシアは言った。


「怖かったことを、もう誰かが一人で抱えなくていいように。そういう願いもある」


 カヤは答えなかった。


 しかし、胸元の小袋を握る手が少し緩む。


 シルがリシアの肩の上で、黒糖胡桃の袋を開けようとしていた。


「シル」


 ちい。


「今、開けない」


 ちい。


「真面目な話の時に、胡桃の音はけっこう響くの」


 シルは袋を閉じた。


 ただし不服そうだった。


 カヤがふっと笑う。


 メリスも、ほんの少しだけ目元を緩めた。


 その時、広場に鐘が鳴った。


 昼の鐘。


 祭りの準備が本格的に始まる合図だった。


 人々が動き出す。


 紙燈を運ぶ者、願いを書く者、黒い札を買いに向かう者。


 リシアは広場の舞台を見る。


 そこにはもう、ノエルの姿があった。


 今日も薄い青髪を風に揺らし、舞台の端に腰掛けている。


 隣には黒い外套の男がいて、静音符の箱を並べていた。


 ノエルはリシアたちを見ている。


 近づいては来ない。


 ただ、見ている。


 まるで、リシアがどう迷うのかを待っているように。


 午後になると、町はさらに賑わいを増した。


 旅人も増え、紙燈を買う人々が広場を行き交う。


 願いを書く机には長い列ができた。


 しかし、歌札を書く机はほとんど空いている。


 代わりに、静音符を売る露店には人が並んでいた。


 リシアは列の近くに立ち、買いに来る人々の顔を見ていた。


 誰も楽しそうではない。


 けれど、全員が追い詰められているわけでもない。


 淡々と買う者もいる。


 恥ずかしそうに買う者もいる。


 誰かに見られないよう、袖の下で受け取る者もいる。


 そこに、紙漉き職人の老爺がいた。


 昨日、亡くなった妻の歌が聞こえると言った男だ。


 彼は静音符を一枚買うと、リシアに気づいて立ち止まった。


「また説得か」


「いいえ」


「なら、何をしている」


「見ています」


 老爺は鼻を鳴らした。


「歌術師は見るだけでも責めているように見える」


「すみません」


「謝るな。余計に責められている気になる」


 昨日のノエルと似たことを言われ、リシアは少し困った。


 老爺は懐に札をしまい、広場の舞台を見た。


「妻は、祭りが好きだった」


 ぽつりと話し始める。


「紙燈を上げる時、わしの下手な願い歌を笑ってな。毎年、音が外れていると言われた」


「楽しそうですね」


「楽しかった」


 老爺はそこで口を閉じた。


 そして、少しの沈黙の後で続ける。


「だから聞きたくない」


 その声は、怒りではなかった。


「楽しかった声だから、今はつらい。悪い思い出なら、捨てられるのかもしれん。でも、良い思い出だから捨てられん。捨てられんのに聞くと苦しい。だから札を買う」


 リシアはその言葉を胸の奥に受け止めた。


 苦しい記憶だけではない。


 幸せだった記憶も、人を眠れなくする。


 静音符はそこにも入り込む。


 だからこそ、町の人々はそれを必要としている。


「今日は歌札を付けますか」


 リシアが尋ねると、老爺は懐を押さえた。


「分からん」


「分からないままでも、いいと思います」


 老爺は横目でリシアを見る。


「歌術師らしくないな」


「最近、よく言われます」


「それは褒め言葉か?」


「たぶん、半分くらいは」


 老爺は少しだけ笑った。


 その笑みはすぐに消えたが、完全な拒絶ではなかった。


 夕方が近づく頃、ルゼットの空は薄紫に染まり始めた。


 広場の紙燈に火が入れられる。


 薄紙の内側から灯りが生まれ、ひとつ、またひとつと町を照らしていく。


 美しい光景だった。


 けれど、美しいからこそ痛みを連れてくる。


 カヤは母と並んで、ノルの紙燈を抱えていた。


 白い紙燈。


 金の紙片。


 紐の先には、まだ何も結ばれていない。


 リシアは少し離れた場所に立つ。


 カヤがリシアを見た。


 助けを求める目ではない。


 答えを求める目でもない。


 ただ、見ていてほしいという目だった。


 リシアは頷いた。


 カヤは小袋を開けた。


 中の静音符を取り出す。


 黒い札は夕暮れの光を吸い、少しだけ鈍く光っていた。


 カヤの手は震えている。


 メリスは何も言わない。


 止めない。


 促さない。


 ただ娘の隣に立っている。


 カヤは静音符を見つめた。


 そして、別の手でノルの焦げた歌札を取り出した。


 二つの札。


 聞きたくない夜。


 忘れたくない声。


 カヤはその間で長く立ち尽くした。


 広場の舞台では、ノエルが静かに立ち上がる。


 町の人々へ向けて、声をかける。


「祭りの夜が来ます」


 人々の視線が集まった。


「歌いたい人は歌ってください。聞きたくない人は、静音符を持ってください。あなたの夜をどう越えるかは、あなたのものです」


 正しい言葉だった。


 少なくとも、半分は。


 リシアは歌詞帳へ触れない。


 まだ歌わない。


 その時、広場の古い舞台の奥から、一人の女性が進み出た。


 長い灰色の髪を結った、年配の歌い手だった。


 町の人々がざわめく。


「アリエ婆だ」


「まだ歌えるのか」


「紙燈歌の最後の歌い手だろ」


 アリエと呼ばれた老女は、杖をついて舞台の中央に立った。


 ノエルのすぐ近く。


 しかし、彼女はノエルを押しのけるわけでも、リシアを見るわけでもなかった。


 ただ、町の人々を見渡した。


「今夜、わしは歌わん」


 低いざわめきが起きる。


 アリエは続ける。


「歌い手なのに、と言われるじゃろう。だが、歌わん」


 彼女の声は枯れている。


 でも、確かな力があった。


「紙燈歌は、誰かの悲しみを黙らせるための歌ではない。怖くないと嘘をつくための歌でもない。願いを書いた者の声に、少しだけ灯りを添えるための歌じゃ」


 リシアは息を呑む。


 アリエの言葉に、広場の空気が揺れる。


「だから今夜は、歌いたい者が歌えばいい。歌えぬ者は黙って灯せばいい。泣く者は泣いたまま灯せばいい。黒い札を持つ者を責めるな。歌札を付ける者も責めるな」


 ノエルの表情がわずかに変わる。


 その言葉は、ノエルの主張と似ている。


 けれど、違う。


 聞きたくない自由だけではない。


 泣く自由も、歌えない自由も、歌う自由も、互いに責めないという町の言葉だった。


 アリエは最後に言った。


「ただし、自分の声を捨てるな。歌でなくていい。願いでなくていい。怖かった、会いたい、眠りたい。それだけでも、声じゃ」


 カヤの肩が震えた。


 リシアはその横顔を見る。


 カヤは静音符を握っている。


 ノルの歌札も握っている。


 メリスが、ようやく口を開いた。


「カヤ」


 その声は震えていた。


「お母さんね、怖かった」


 カヤが目を見開く。


「ノルを助けられなかったことも、あなたが泣かなくなったことも、歌が聞こえなくなった家も、全部怖かった」


 メリスの目から涙が落ちる。


「あなたが泣いたら家が壊れると思っていたなら、ごめん。もう壊れていたのかもしれない。だから、一緒に泣けばよかった」


 カヤの顔が歪む。


 ずっと堪えていたものが、唇の端から崩れそうになっている。


 でも、まだ声にならない。


 シルがリシアの肩で、布袋を開けた。


 黒糖胡桃を一粒取り出す。


 リシアは小さく囁く。


「今?」


 ちい。


 シルは真剣だった。


 彼なりに、何かを差し出そうとしている。


 カヤの前へ降りると、シルは黒糖胡桃を石畳の上に置いた。


 そして、前足で半分に割ろうとした。


 しかし、うまく割れない。


 固い。


 シルは焦った。


 何度も押す。


 割れない。


 カヤは涙を堪えながら、それを見ていた。


 やがて、堪えきれず小さく笑った。


「貸して」


 カヤは胡桃を拾い、道具袋から小さな木槌を出した。


 こん、と軽く叩く。


 黒糖胡桃は綺麗に二つに割れた。


 カヤは片方をシルに返し、もう片方を母へ差し出した。


「半分」


 メリスが泣きながら受け取る。


 カヤは自分の分を少しだけかじった。


「ノルも、半分こ下手だった」


 それだけ言って、カヤは泣いた。


 声を押し殺さず。


 子どものように。


 メリスが娘を抱きしめる。


 広場は静かだった。


 誰も歌わない。


 けれど、カヤの泣き声を消そうとする者もいない。


 カヤは泣きながら、静音符を見下ろした。


 手はまだ震えている。


 長い沈黙の後、彼女は静音符を紙燈に結ばない。


 捨てもしなかった。


 胸元の小袋に戻した。


 そして、焦げたノルの歌札の裏へ、震える字で短く書く。


 怖かった。


 会いたい。


 眠りたい。


 それを、ノルの紙燈へ結ぶ。


 歌ではない。


 整った願いでもない。


 けれど、確かにカヤの声だった。


 リシアの胸元で歌詞帳が温かくなる。


 ノエルは舞台の上から、その様子を見ていた。


 表情は読めない。


 ただ、黒い札を握る手に、わずかに力が入っている。


 リシアはノエルを見る。


 ノエルもリシアを見た。


 勝ち負けではない。


 カヤは静音符を捨てなかった。


 でも、黒譜だけに夜を預けることもしなかった。


 その選択が、ノエルの中の何かに触れたのかもしれない。


 町の人々が少しずつ動き出す。


 歌札を書く者が現れた。


 何も書かずに紙燈を灯す者もいる。


 静音符を握ったまま目を閉じる者もいる。


 紙漉きの老爺は、しばらく迷った末に、自分の紙燈へ歌札を結ばなかった。


 代わりに、札のない紐へそっと手を添えた。


「今日は、声だけ覚えておく」


 そう呟いたのが、リシアには聞こえた。


 日が沈む。


 紙燈が一つずつ、夜へ浮かべられていく。


 歌はまだ始まらない。


 でも、沈黙は昨日までのものとは違っていた。


 聞きたくないから閉じた沈黙ではない。


 聞こえたものを、すぐ歌にしないための沈黙。


 リシアは歌詞帳を開いた。


 ページにはまだ断章は刻まれていない。


 代わりに、淡い一節が浮かびかけていた。


『聞きたくない夜にも、消したくない声がある』


 リシアはその言葉を見つめる。


 まだ歌にはしない。


 今夜は、町の声をもう少し聞く必要がある。


 その時、広場の端で悲鳴が上がった。


 黒い札を持っていた男が、膝をついている。


 札から黒い線が伸び、彼の耳元へ絡みついていた。


 それは静音ではなかった。


 音を消す力が強まりすぎている。


 男は口を開いているのに、声が出ていない。


 周囲の人々が慌てて駆け寄る。


 同時に、別の場所でも黒い札が震え始めた。


 一枚。


 二枚。


 十枚。


 町中の静音符が、紙燈祭の灯りに反応するように黒く脈打っている。


 ノエルの顔色が変わった。


 それは、彼女にとっても予想外だったのかもしれない。


 黒い外套の男が舞台の影で笑っている。


 リシアはその顔を見た。


 黒譜を売っていた男。


 彼の足元に、より濃い黒い譜面が広がっている。


 ノエルのものではない。


 もっと深く、もっと粗い悪意。


 リシアの背筋に冷たいものが走った。


 静音符は、町の人々に選ばせるための札ではなかった。


 最初から、紙燈祭の夜に声を奪うために仕込まれていた。


 リシアは歌詞帳を握る。


 シルが肩で鋭く鳴いた。


 ちいっ。


 黒い札が一斉に震える。


 紙燈の灯りが、風もないのに大きく揺れた。


 ルゼットの夜から、声が消え始めていた。



今回は、紙燈祭の夜が始まる前の町の迷いを描きました。


カヤは静音符を捨てませんでした。


けれど、それだけに頼るのではなく、ノルの歌札に自分の言葉を書きました。


歌ではないけれど、確かに自分の声を戻す一歩です。


一方で、静音符には別の仕掛けがありました。


次は、ルゼットの夜から声が奪われていく中で、リシアとノエルがどう動くのかが中心になります。


今回も読んでくださり、ありがとうございました。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。