黒譜の少女編 45話 聞きたくない歌
リシアとシルは、紙燈町ルゼットへ辿り着いた。
かつて願い歌と紙燈で知られた町だったが、今は歌札が外され、代わりに黒い譜面の札が売られていた。
静音符と呼ばれるその札は、夜に聞こえるつらい歌や記憶を遠ざけるものとして、人々に受け入れられていた。
リシアは紙燈職人の少女カヤと出会い、彼女が弟ノルを火事で失い、紙燈歌を聞くたびにその夜を思い出してしまうことを知る。
黒譜を簡単には否定できない。
そう感じたリシアの前に、ノエル・ヴァイスが現れる。
ノエルは人々の前で問いかけた。
歌を聞かない自由を、リシアは認められるのかと。
紙燈町ルゼットの広場から、音が引いていった。
荷車の車輪が石畳を軋ませる音も、露店の呼び込みも、子どもたちの笑い声も、急に遠くなったように感じる。
舞台の上には、ノエルが立っていた。
薄い青髪が、曇り空から落ちる弱い光を受けて、冷たい水のように揺れている。
その手には、黒い札。
静音符。
黒譜術の気配を宿した小さな紙片。
リシアは広場の中心で、ノエルを見上げていた。
肩の上のシルは、黒糖胡桃を抱えたまま動かない。
普段なら、どれを先に食べるか真剣に悩んでいるはずなのに、今は一粒も口に運ばなかった。
それだけで、この場の空気がどれほど張りつめているか分かる。
ノエルの問いが、まだ広場に残っていた。
あなたはまた、聞きたくない人に歌を聞かせるの。
それは挑発だった。
けれど、ただの挑発ではない。
カヤの胸元には黒い札がある。
紙燈屋の女性も、露店の男も、通りがかった老女も、誰かしらが同じような札を持っていた。
彼らは操られて買っているのではない。
少なくとも、そう見えた。
苦しい夜を越えるために、自分で選んでいる。
リシアは歌詞帳へ手を伸ばさなかった。
歌わない。
まず、その選択をする。
「歌いません」
リシアの声は、広場の空気へ静かに落ちた。
ノエルの目がわずかに細くなる。
周囲の人々も、少しだけ身じろぎした。
歌術師が、歌わないと言った。
その意外さが、いくつかの視線に混じっている。
「今ここで、あなたたちに歌を聞かせるつもりはありません」
リシアは続けた。
「聞きたくない人に、無理に歌うことはできません」
ノエルは舞台の上で首を傾げる。
「できない、ですか。それとも、今はしないだけ?」
「両方です」
「便利な言い方ですね」
「そうかもしれません」
リシアは否定しなかった。
ノエルの言葉に反発したくなる気持ちはある。
けれど、今ここで反発すれば、町の人々には歌術師が黒譜を奪いに来たように見える。
リシアが向き合うべきなのは、ノエルだけではない。
この町で黒い札を握っている人たちだ。
カヤはリシアの少し後ろに立っていた。
胸元の小袋を押さえ、リシアとノエルを交互に見ている。
ノルの名前を出した時の、淡々とした声。
黒い札がなければ眠れないと言った顔。
リシアはそれを忘れられなかった。
ノエルは黒い札を掲げる。
「この札は、歌を遠ざけるだけです」
広場の人々へ向けて、彼女は言った。
「忘れたくない記憶を無理に消すわけではありません。泣きたい人に泣くなと命じるわけでもありません。ただ、今夜だけ聞きたくない歌を少し遠ざける。眠るために。明日を迎えるために」
言葉は静かだった。
怒鳴らない。
押しつけない。
だからこそ、町の人々は耳を傾ける。
黒譜術の危うさを知っているリシアでさえ、一瞬、その言葉だけなら間違っていないと思ってしまう。
痛みを抱える人には、休む権利がある。
歌を聞かない自由もある。
それを否定することはできない。
ノエルはリシアを見る。
「あなたは、歌が届かない時に傷つくでしょう。歌を拒まれると、自分が間違えたのかと考えるでしょう。でも、拒む側にも理由があります」
「知っています」
「本当に?」
ノエルの声が、少しだけ鋭くなった。
「知っているなら、なぜ歌を探しているのですか」
リシアの胸が、静かに痛む。
星詠みの歌。
失われた断章。
歌詞帳に刻まれてきた言葉。
それらは確かに、リシアをここまで連れてきた。
でも、ノエルの言葉はその旅そのものへ刃を向けている。
「すべての歌を閉じるためではありません」
リシアは言った。
「でも、すべての歌を聞かせるためでもありません」
ノエルは黙る。
リシアは一歩だけ前へ出た。
「私は、歌を聞きたい人と、聞きたくない人の間にあるものを知りたいんです」
「知ってどうするんですか」
「まだ分かりません」
広場の端で、誰かが小さく息を漏らした。
頼りない答えだった。
でも、分かっているふりをするよりはいい。
境谷で学んだばかりだ。
答えを急げば、誰かの声を踏み越える。
ノエルは薄く笑った。
「分からないのに進むんですね」
「はい」
「それが歌術師の残酷さです」
その言葉に、カヤが少し顔を上げた。
リシアはカヤの反応を横目に感じる。
今、カヤはどちらの言葉を聞いているのだろう。
黒譜を否定されない安心か。
歌を完全に捨てたくない迷いか。
胸元の札を押さえる手は、強く握られている。
その時、舞台の下から一人の男が声を上げた。
「歌術師さん」
年配の男だった。
背中は曲がっているが、腕は太く、紙を漉く職人なのだろう。袖口には白い繊維がこびりついている。
「わしは、その札を買っている」
男は懐から黒い札を取り出した。
「夜になると、亡くなった妻の歌が聞こえる。紙を漉く時に、いつも歌っていた歌だ。昔は好きだった。だが今は、聞こえると眠れない」
リシアは男の顔を見る。
疲れていた。
深い皺の奥に、長い夜が残っている。
「その札を置くと、聞こえなくなる。少し眠れる。これは悪いものか」
答えを求める声だった。
責める声でもある。
リシアはすぐには答えなかった。
ノエルなら、悪くないと言うだろう。
あなたの夜を守るものだと。
実際、その言葉は半分正しい。
けれど、黒譜術である以上、ただ優しいだけではないはずだ。
リシアは男へ向き直る。
「その札を使い始めてから、奥様の歌以外に聞こえにくくなったものはありますか」
男は眉を寄せた。
「何だ、それは」
「たとえば、楽しかった時の声。奥様が笑っていた時の声。嫌な記憶ではないものまで、遠くなっていませんか」
男の顔が、わずかに変わった。
図星だったのだろう。
周囲の人々も、自分の札を見下ろす。
ノエルの目が冷える。
リシアは続けた。
「眠るために距離を置くことは、悪いことではありません。でも、その札が遠ざけているものが本当に苦しみだけなのかは、確かめる必要があります」
男は黒い札を握りしめる。
「確かめて、どうする。苦しいものだけを消せるのか」
「今は、できません」
「なら、同じだ」
男の声に怒りはなかった。
ただ、深い疲れがあった。
「眠れない夜を知らない者は、確かめろと言う」
リシアはその言葉を受け止めた。
胸に痛い。
でも、痛いからといって逃げてはいけない。
「知りません」
リシアは言った。
「あなたの夜を、私は代わりに知ることはできません」
広場に沈黙が落ちる。
「だから、札を取り上げるとは言いません。でも、何が起きているのかは調べさせてください。危ないものなら、危ないと言わなければいけません」
ノエルが静かに笑った。
「結局、そうなる」
「はい」
「あなたは優しい顔で、最後には正しさを持ち出す」
「正しさだけでは足りないことも知っています」
「それでも持ち出す」
「持ち出します」
リシアはノエルを見つめた。
「危ないと分かっていて黙ることも、できません」
その言葉に、ノエルの表情が少しだけ変わる。
一瞬、本当に一瞬だけ。
怒りではない。
痛みに近い何かが見えた。
けれどすぐに、ノエルはいつもの冷たい顔に戻る。
「なら、試してみますか」
ノエルは舞台の上から、黒い札を一枚リシアへ投げた。
ひらりと落ちてくる紙片。
リシアはそれを受け取らず、地面に落ちるのを待った。
勝手に触れれば、黒譜の流れを深く受けてしまう。
地面に落ちた札を、シルがじっと睨む。
さすがに食べ物とは思っていないようだ。
「これは?」
リシアが問う。
「静音符の核に近いものです。町で売っている札より少し強い。あなたなら、何が遠ざけられるか分かるでしょう」
「私に使えと?」
「怖いですか」
「怖いです」
リシアはすぐに答えた。
ノエルの目が揺れる。
リシアは続ける。
「でも、怖いから見ない、とは言いません」
彼女は膝をつき、黒い札へ手を近づけた。
触れる直前に、シルがリシアの袖を引っ張る。
ちい。
やめた方がいい。
そう言っているのが分かる。
「少しだけ」
リシアは小さく言った。
「深くは入らない」
ちい。
「本当に。危なかったら止めて」
シルは不満そうに鳴いたが、袖を離した。
ただし、いつでも引き戻せるように体を低くしている。
リシアは黒い札に指先を触れた。
音が消えた。
広場のざわめきが遠のく。
紙燈が揺れる音も、馬の鼻息も、シルの小さな呼吸も、一瞬で薄い布の向こうへ押し込められたようになる。
静か。
あまりにも静かだった。
その静けさの奥で、リシア自身の記憶が揺れる。
慰霊の丘。
進軍詩。
アイシャの笑顔。
王都の兵士たちの足音。
怖くても進めと歌った自分の声。
黒い札は、その記憶の歌を包み込もうとした。
聞こえなくしてあげる。
そう囁くように。
聞かなくていい。
思い出さなくていい。
あなたは悪くない。
リシアの胸が、一瞬だけ軽くなる。
進軍詩の重みが薄れる。
アイシャの名を思い出す痛みが遠ざかる。
ああ。
これは危ない。
優しいから危ない。
リシアは指を離そうとした。
その時、もっと奥から小さな心歌が聞こえた。
『楽になりたい』
『でも、忘れないで』
『怖かったって、誰かに言いたかった』
それはリシア自身の声ではない。
黒い札に残った、これを買った誰かの声。
いくつもの夜。
いくつもの枕元。
泣かずに眠るために札を置いた人々の、薄くなっていく心歌だった。
黒譜は苦しみだけを消していない。
苦しみと一緒に、訴える力も鈍らせている。
泣く力。
怒る力。
助けを求める力。
それらまで、眠りやすい静けさの中へ沈めている。
リシアの呼吸が乱れた。
指が札から離れない。
黒い記号が、指先に絡む。
歌わなければ。
そう思った瞬間、シルが飛びついてきた。
ちいっ!
小さな体が、リシアの手を思い切り弾く。
札から指が離れた。
広場の音が戻る。
ざわめき。
紙燈の揺れる音。
カヤの息を呑む声。
リシアは膝をついたまま、荒く息を吐いた。
シルがリシアの手の上に乗り、全身の毛を逆立てて札を睨んでいる。
黒糖胡桃はどこかへ転がっていた。
それにも気づかないほど、シルは怒っていた。
「ごめん、シル」
リシアは掠れた声で言った。
「助かった」
ちい。
シルは厳しい声で鳴いた。
かなり怒っている。
後で胡桃も探さなければならない。
ノエルが舞台の上から見下ろしている。
「どうでしたか」
「静かでした」
リシアは答えた。
「とても、楽でした」
広場の人々がざわつく。
ノエルは表情を変えない。
リシアは立ち上がった。
「でも、楽になる代わりに、泣く力も、助けを呼ぶ力も、少しずつ遠ざけている」
カヤが胸元の札を握った。
リシアはカヤを見る。
「苦しい歌だけを消しているわけじゃない。苦しいと言う声まで、眠らせている」
カヤの顔が青ざめる。
「嘘」
リシアは首を横に振る。
「嘘だと言い切れたらよかった」
「だって、私は眠れた」
「うん」
「眠れたんだよ」
「うん」
「それの何が悪いの」
カヤの声が震えた。
リシアは胸が詰まる。
悪い。
そんな一言では、カヤの夜を切り捨ててしまう。
カヤは眠れた。
それは確かに救いだった。
リシアは近づきすぎない距離で立ち止まる。
「眠れたことは悪くない」
「じゃあ」
「でも、ノルくんのことを怖かったって言う声まで遠くなっているなら、それはカヤを守っているだけじゃないと思う」
カヤの目に涙が浮かぶ。
「言ったって、ノルは戻らない」
「戻らない」
「怖かったって言ったら、お母さんが泣く」
「うん」
「私が泣いたら、家がもっと暗くなる」
「そうかもしれない」
「じゃあ、どうすればいいの!」
叫びだった。
広場の人々が息を呑む。
カヤの心歌が、今度は隠れずにリシアへ届いた。
『怖かった』
『熱かった』
『ノルを止められなかった』
『歌わなければよかった』
『でも、ノルの歌を忘れたくない』
リシアは、胸が痛むほどその声を聞いた。
でも、歌わない。
今は歌う場面ではない。
カヤが求めているのは、綺麗な歌詞ではない。
逃げ場のない問いに、一緒に立つ誰かだ。
「分からない」
リシアは言った。
カヤの涙が頬を伝う。
「でも、一人で決めなくていいと思う」
「誰も聞いてくれない」
「私が聞く」
「歌術師でしょ」
「うん」
「歌で何とかするんでしょ」
「今はしない」
カヤは泣きながらリシアを睨んだ。
「変なの」
「うん」
「本当に変」
「よく言われる」
その時、足元でシルが黒糖胡桃を一粒拾って戻ってきた。
さっき弾き飛ばされたものだ。
シルはそれを大事そうに抱えていたが、泣いているカヤを見上げ、しばらく固まった。
そして、ひどく悩んだ顔になる。
リシアはそれを見て、思わず小さく言った。
「無理しなくていいよ」
ちい。
シルは苦悩した。
食べ物を差し出すべきか。
でも黒糖胡桃は大事。
しかしカヤは泣いている。
世界のすべてがその小さな顔に集まっているような真剣さだった。
やがてシルは、黒糖胡桃を半分に割った。
片方を自分で抱え、もう片方をカヤの前に置く。
カヤは涙で濡れた顔のまま、ぽかんとそれを見た。
「くれるの?」
ちい。
シルはそっぽを向いた。
照れているのか、惜しんでいるのか、たぶん両方だ。
カヤは泣きながら、少しだけ笑った。
「ありがとう」
その小さな笑いに、広場の空気がわずかにほどける。
リシアはノエルを見た。
ノエルは笑っていなかった。
ただ、シルとカヤを見つめる目に、ほんの一瞬だけ迷いが浮かんだ。
それはすぐに消えた。
「優しい場面を作るのが上手ですね」
ノエルは言った。
「でも、優しさでは夜は眠れません」
「そうですね」
リシアは答える。
「でも、黒譜だけでも朝にはならないと思います」
ノエルの表情が冷たくなる。
「明日の夜、紙燈祭があります」
彼女は広場の人々へ向けて言った。
「歌いたい人は歌えばいい。聞きたくない人は静音符を持てばいい。どちらを選ぶかは、その人自身の自由です」
それは一見、正しい提案だった。
けれど、リシアには分かる。
紙燈祭の夜、願い歌が戻れば、静音符はもっと強く売れる。
町の痛みは表へ出る。
その痛みへ、黒譜が深く入り込む。
ノエルはリシアを見た。
「あなたは、その自由を止めますか」
リシアは答えられなかった。
止めることはできない。
でも、放っておくこともできない。
カヤは胸元の札を握りしめたまま、リシアを見ている。
町の人々も、それぞれの札を見つめている。
夜を眠るための札。
でも、泣く力まで遠ざける札。
明日、紙燈祭が来る。
歌を戻したい人。
歌を聞きたくない人。
黒譜を売る者。
黒譜にすがる者。
そのすべてが、同じ夜に集まる。
リシアはシルを抱き上げた。
小さな相棒は、半分になった黒糖胡桃を守りながらも、リシアの胸元に体を寄せる。
リシアは深く息を吸った。
まだ答えはない。
だからこそ、聞くしかない。
この町が本当に閉じたい歌と、閉じたくない声を。
舞台の上で、ノエルの青い髪が風に揺れる。
紙燈の町に、夕暮れの影が落ち始めていた。
今回は、黒譜の札がただの悪意ではなく、眠れない夜を支えるものとして使われていることを掘り下げました。
リシアは危険を感じながらも、それを使う人たちの苦しさを否定できません。
カヤにとって静音符は、弟ノルを失った夜の歌を遠ざけるためのものです。
けれど、その札は苦しみだけでなく、泣く力や助けを求める声まで眠らせている可能性が出てきました。
次は紙燈祭の夜へ向かいます。
今回も読んでくださり、ありがとうございました。




