黒譜の少女編 44話 黒い譜面を買う町
境谷を離れたリシアとシルは、小さな宿場町フェルカで足を休めた。
市場では子どもたちに歌を求められ、リシアは木の実を追いかけるリスの短い歌を歌う。
歌は人を傷つけることもある。
けれど、誰かの一日を少し明るくすることもある。
リシアは、幼い頃にアイシャが言ってくれた言葉を思い出した。
その穏やかな市場で、リシアは旅商人たちの噂を耳にする。
北の街道で、黒い譜面を売る者がいる。
そしてそこには、青い髪の少女の影があるという。
フェルカを出てから三日目の昼、空は薄い灰色に曇っていた。
雨が降り出すほどではない。
けれど、陽射しは雲の向こうに隠れ、街道沿いの草もどこか色を沈ませている。
リシアは外套の襟を少し寄せ、肩の上のシルを見た。
シルは機嫌がよかった。
フェルカの市場で手に入れた木の実入りの薄焼きはすでに食べ終えている。サナからもらった胡桃も、旅の途中で半分ほど減った。
それでも布袋にはまだいくつか残っている。
シルはそれを宝物のように抱え、時々中を確かめては満足そうに尻尾を揺らしていた。
「シル」
ちい。
「歩きながら数えると落とすよ」
ちい。
「落としたら拾うのは私だからね」
シルは布袋を抱え直した。
反省した顔ではない。
落とさないよう、さらに強く守る顔だった。
リシアは苦笑する。
重い出来事の後でも、シルはシルだ。
その食いしん坊ぶりに呆れることも多いが、救われることもある。
境谷を離れてから、リシアの胸には何度も子守唄の余韻が戻ってきた。
サナの声。
リオルの震えた声。
ダリオとミゼアが、互いの子どもの名を呼んだ声。
境界の断章は歌詞帳に刻まれた。
けれど、それで境界が消えたわけではない。
あの谷には今も川が流れている。
橋は閉じたままだ。
人間と魔族の間にある恐れも、そう簡単には消えない。
それでも、敵の歌と呼ばないことを選んだ。
リシアはその小さな選択を、何度も思い返していた。
街道の先に、町が見えてくる。
石壁に囲まれた中規模の町だった。
門の上には、古い木製の看板が掲げられている。
紙燈町ルゼット。
紙で作った灯りと、願い歌の市で知られる町だと、途中の宿で聞いた。
旅人の願いを書いた紙燈を夜空へ浮かべ、歌い手がそれぞれの願いに短い歌を添える。
昔は、旅芸人や歌術師も多く訪れたらしい。
歌が歓迎される町。
そう聞いた時、リシアは少し安心していた。
けれど、門をくぐった瞬間、その期待は静かに揺らぐ。
町は賑わっていた。
商人は声を張り、荷車は行き交い、紙燈を売る店も並んでいる。
しかし、歌がない。
歌の町だというのに、誰も歌っていない。
店先に吊るされた紙燈は美しく、赤、青、黄色の薄紙が風に揺れている。けれど、そこに添えられているはずの短い歌札は、ほとんど外されていた。
紙燈だけが残り、歌の部分が空白になっている。
リシアは足を止めた。
シルも鼻をひくひく動かす。
甘い菓子の匂い。
紙の匂い。
人の汗と馬の匂い。
その中に、ほんのわずか、焦げた譜面の匂いが混じっていた。
シルが低く鳴く。
ちい。
「うん。あるね」
リシアは胸元の歌詞帳に触れる。
歌詞帳はまだ震えていない。
けれど、町のどこかに黒譜術の気配がある。
攻撃的なものではない。
境谷の旧橋にあったような、足を奪う強さでもない。
もっと薄く、広く、町の空気の中へ溶けている。
「旅の方、紙燈はいかがですか」
声をかけてきたのは、紙燈屋の若い女性だった。
淡い緑色の布を髪に巻き、指先には糊の跡がついている。
店先には丸い紙燈、小さな鳥の形をした紙燈、星を模した紙燈が並んでいた。
どれも丁寧な作りだ。
リシアは一つを手に取る。
「綺麗ですね」
「ありがとうございます。願い事を書いて、夜に灯すんです。昔は歌札もつけたんですけど、今はあまり」
女性は言いかけて、少しだけ目を逸らした。
リシアは紙燈を戻す。
「歌札は、今は使わないんですか」
「使う人もいますよ。でも、少なくなりました」
「どうして?」
女性は困ったように笑う。
「歌は、思い出してしまいますから」
その言葉は、ひどく静かだった。
リシアは返す言葉を探す。
女性は急に商売用の明るい顔へ戻り、小さな箱を取り出した。
「その代わりに、最近はこれを買う方が多いんです」
箱の中には、黒い紙片が並んでいた。
五線のような細い線。
その上に、譜面にも文字にも見える黒い記号が刻まれている。
見た瞬間、シルの毛がわずかに逆立った。
黒譜。
ただし、札の形に整えられている。
リシアは表情を変えないよう努めた。
「これは?」
「静音符です」
「せいおんふ」
「はい。夜に枕元へ置くと、余計な歌が聞こえにくくなるんです。願い歌の残り声とか、昔の祭り歌とか。眠れない人には助かるんですよ」
女性は悪びれた様子もなく言う。
むしろ、便利な品を紹介している顔だった。
リシアは紙片を見つめる。
黒譜術が、商品として売られている。
しかも、人々はそれを恐れていない。
買っている。
求めている。
「これを、どこで?」
「旅の行商からです。北の市で仕入れている人がいて。最近はよく売れるんですよ」
「危険だとは聞いていませんか」
女性の笑顔が少し固くなった。
「危険?」
「黒譜術に近い気配があります」
その瞬間、女性の目から商売用の柔らかさが消えた。
警戒。
そして、少しの苛立ち。
「歌術師さんですか」
リシアは頷く。
「はい」
「なら、そう言うでしょうね」
声が低くなる。
「歌う人は、歌が聞こえない苦しさを言います。でも、歌が聞こえすぎる苦しさは言ってくれません」
リシアは口を閉じた。
女性の奥から、心歌が届く。
『もう聞きたくない』
『あの夜の歌だけは』
『母が笑っていた声まで、焼ける匂いと一緒に戻ってくる』
リシアは息を整える。
また、聞こえた。
けれど、言葉にしない。
女性は箱の蓋を閉じる。
「買わないなら、見ないでください」
「すみません」
リシアは頭を下げ、店から離れた。
シルが肩の上で心配そうに鳴く。
ちい。
「大丈夫」
そう答えたものの、胸の奥は重かった。
黒譜術は悪い。
そう言うだけなら簡単だ。
けれど、この町では、それを必要としている人がいる。
聞こえすぎる歌から逃れるために。
思い出したくない声を遠ざけるために。
自分の夜を守るために。
リシアは市場の中央へ向かって歩く。
そこには古い舞台があった。
円形の広場の真ん中に、木造の小さな舞台。
本来なら歌い手が立つ場所なのだろう。
だが今は、舞台の上に誰もいない。
代わりに、黒い札を売る露店が三つ並んでいる。
静音符。
忘れ札。
眠り譜。
名前だけが少しずつ違う。
どれも似た黒い紙片を売っていた。
買っていく人は少なくない。
老女。
子どもを連れた父親。
若い職人。
紙燈職人らしき少女。
人々は周囲を気にしながらも、確かに自分の意思で銅貨を出している。
リシアの耳に、町の心歌が細かく重なってくる。
『眠りたい』
『夢を見たくない』
『歌わないで』
『でも、忘れたくない』
『あの人の歌だったのに』
『聞こえたら泣いてしまう』
声が多い。
そして、矛盾している。
聞きたくない。
でも、忘れたくない。
逃げたい。
でも、消したくない。
その揺れの中に、黒譜の札が入り込んでいる。
リシアは舞台のそばで立ち止まった。
すると、足元で何かが落ちた。
黒い札だ。
薄い紙片が風に押され、リシアの靴先へ滑ってくる。
拾おうとした瞬間、小さな手が伸びた。
「返して」
見上げると、そこに十二、三歳ほどの少女が立っていた。
濃い栗色の髪を短く切り、腰に紙燈作りの道具袋を下げている。頬には糊の跡がつき、指先には小さな切り傷があった。
少女はリシアを睨んでいる。
その目は強い。
けれど、黒い札を握ろうとする手は震えていた。
「あなたの?」
リシアが尋ねると、少女は頷いた。
「そう。だから返して」
リシアは札を拾い上げる前に、手を止めた。
「触ってもいい?」
「何で聞くの」
「勝手に触られたくないものかもしれないから」
少女は少し驚いた顔をした。
それから、気まずそうに視線を逸らす。
「いいよ。汚さないで」
「ありがとう」
リシアは札を拾い、少女へ渡した。
指先に触れた瞬間、黒譜の気配が薄く流れ込んでくる。
強制力は弱い。
だが、確かに歌を遠ざける力がある。
心の奥へ響く旋律を、綿で包んで鈍くするような力。
少女は札を胸元の小袋へしまった。
シルがその袋をじっと見ている。
中に食べ物がないか確認しているのではない。
黒譜の気配に反応している。
ただ、近くの露店から黒糖胡桃の匂いもしているので、反応の半分くらいは食べ物かもしれない。
「シル、今は胡桃じゃないよ」
ちい。
シルは否定した。
とても怪しい。
少女が不思議そうにシルを見る。
「そのリス、黒糖胡桃が好きなの?」
「たぶん好き。でも食べすぎるから、あまり買わないようにしてる」
ちいっ。
シルが強く抗議する。
少女はふっと笑った。
ほんの一瞬だったが、年相応の顔になった。
「うちの弟も好きだった」
言ってから、少女は笑みを消す。
リシアはその変化を見逃さなかった。
けれど、すぐには聞かない。
「私はリシア。旅をしているの」
「歌術師?」
「うん」
少女の顔が少し固くなる。
「じゃあ、私の札を取り上げるの?」
「取り上げないよ」
「嘘。歌術師は、黒い譜面を嫌うって聞いた」
「嫌うというより、危ないと思っている」
「同じじゃない」
少女は唇を尖らせる。
「私はこれがあると楽なの。夜に歌が聞こえないから」
リシアは少女を見る。
「名前を聞いてもいい?」
「カヤ」
「カヤちゃん」
「ちゃんはいらない」
「じゃあ、カヤ」
カヤは少しだけ満足そうに頷いた。
リシアは隣に腰をかがめ、視線の高さを少し近づける。
「夜に、どんな歌が聞こえるの?」
カヤの表情が止まった。
踏み込みすぎただろうか。
リシアが謝ろうとした時、カヤは小さく言った。
「紙燈歌」
「紙燈歌?」
「この町の歌。願いを書いた紙燈を上げる時に歌うの。昔はみんな歌ってた」
「今は?」
「歌わない」
短い答え。
その奥に、心歌が揺れる。
『あの歌が始まると、弟が泣く』
『泣いているのは弟じゃない』
『私だ』
『でも泣いたら、お母さんがもっと泣く』
リシアは心を締めつけられる。
カヤは黒い札を胸元の上から押さえた。
「これがあると、聞こえない。だから眠れる」
「そっか」
「危ないって言われても、眠れない方が困る」
「そうだね」
リシアがそう答えると、カヤは少し戸惑ったように目を瞬かせた。
反論されると思っていたのかもしれない。
「危ないって言わないの?」
「危ないとは思ってる。でも、眠れない夜がつらいことも本当だから」
カヤは黙った。
その顔には、警戒と困惑が混じっている。
リシアは続ける。
「ただ、札が何を遠ざけているのかは、知っておいた方がいいと思う」
「歌でしょ」
「歌だけじゃないかもしれない」
カヤは胸元の袋を握る。
「嫌なことを思い出さないなら、それでいい」
その言葉は強かった。
でも、心歌は違う。
『忘れたら、弟の声まで消える』
『それはいや』
『でも聞こえたら苦しい』
リシアは何も言えなくなった。
黒譜の札を外せばいい。
そう言うことはできる。
けれど、外した後の夜をカヤは一人で越えなければならない。
リシアが今日ここで正しいことを言っても、その夜を代わりに眠ることはできない。
その時、シルがリシアの肩から降りた。
とことこと黒糖胡桃の露店へ歩いていく。
「シル」
リシアが呼ぶ。
シルは止まる。
振り向く。
そして、露店を指すように前足を上げた。
真剣な顔だった。
「今、その流れじゃないよね」
ちい。
「大事な話をしてたよね」
ちい。
「黒糖胡桃が大事?」
ちいっ。
力強い返事だった。
カヤが堪えきれず笑った。
リシアはため息をつきながら、露店へ向かう。
「一袋だけだよ」
シルの顔が輝く。
「でも半分は私とカヤに分ける」
シルの顔から光が消えた。
世界は厳しい。
そんな表情である。
カヤは久しぶりに笑ったような顔をした。
「そのリス、面白いね」
「食べ物が絡むと、だいたい面白いことになるよ」
黒糖胡桃を一袋買い、リシアは紙に包まれた中身を三つに分けた。
シルの分が少し多い。
少しだけだ。
シルはその少しを正確に認識し、満足そうに頷く。
カヤは胡桃を一粒受け取り、しばらく見つめていた。
「弟も、こういうの好きだった」
「弟さんの名前は?」
「ノル」
カヤは胡桃を口へ入れた。
噛む。
甘い香りがふわりと広がる。
「ノルは、もういない」
リシアは頷いた。
「うん」
「紙燈祭の日に、火が出たの。みんな歌ってた。願いが届くようにって。ノルも歌ってた。でも風が強くて、灯りが落ちて、紙燈に燃え移った」
カヤの声は淡々としている。
淡々としているからこそ、無理をしているのが分かった。
「みんな、逃げろって言った。でも歌が聞こえてた。大人たちは、落ち着いてって歌ってた。怖くないって。大丈夫って」
リシアの指先が冷える。
励ます歌。
落ち着かせる歌。
それが必ず悪かったとは言えない。
けれど、恐怖を鈍らせたのかもしれない。
逃げるべき足を、一瞬遅らせたのかもしれない。
「ノルは、紙燈を取りに戻った。願いを書いたやつ。お母さんが作った歌札をつけてたから」
カヤの視線が広場の舞台へ向く。
「それから、戻ってこなかった」
リシアは言葉を挟まない。
カヤは黒い札を胸元の上から押さえた。
「夜になると、その歌が聞こえる。怖くない、怖くないって。嘘なのに」
心歌が、涙のように揺れる。
『怖かった』
『ノルも怖かったはず』
『怖くないって歌わないで』
『怖いって言わせて』
リシアは胸が痛んだ。
この町の傷は、歌そのものへの憎しみだけではない。
怖さを怖いままにできなかったこと。
落ち着かせるための歌が、誰かの本当の恐怖を覆ってしまったこと。
そこへ黒譜の札が入り込んだ。
歌を消してくれるものとして。
泣かずに眠れるものとして。
「カヤ」
リシアは静かに言った。
「その札を外してとは言わない」
カヤがリシアを見る。
「でも、いつか外したくなった時、ひとりで外さなくていいと思う」
「外したくなんてならない」
「うん。今はそれでいい」
カヤは眉を寄せた。
「変な歌術師」
「よく言われる」
「本当?」
「たぶん」
シルが黒糖胡桃をかじりながら、ちい、と鳴いた。
肯定らしい。
リシアは少しだけ目を細める。
その時、広場の向こうで人だかりができた。
露店の一つに、黒い外套の男が立っている。
男は箱を開き、静音符を売っていた。
その横に、薄い青髪の少女がいた。
薄い青髪。
白い肌。
感情をあまり映さない瞳。
ノエル・ヴァイス。
リシアの胸の奥が、静かに冷えた。
ノエルは、すでにこちらに気づいている。
逃げも隠れもしない。
むしろ、待っていたようにリシアを見ていた。
カヤがリシアの視線を追う。
「知ってる人?」
「少し」
リシアは答えた。
ノエルは露店の横から一歩離れ、広場の舞台へ上がった。
歌い手のいない舞台。
願い歌が消えた町の中心。
そこで彼女は、黒い札を一枚掲げる。
「聞きたくない歌がある人へ」
ノエルの声は大きくなかった。
それでも、不思議と広場によく通った。
「忘れたい夜がある人へ。歌に励まされて、苦しくなったことがある人へ」
町の人々が足を止める。
リシアは動けなかった。
ノエルは続ける。
「歌を聞かない自由を、誰も責める権利はない」
その言葉に、カヤの手が胸元の札を握る。
リシアの心にも、深く刺さった。
歌を聞かない自由。
それは間違いではない。
間違いだと言い切れない。
だからこそ、ノエルの言葉は危うかった。
正しい痛みを持っているから。
その痛みの上に黒譜を置くから。
ノエルの目がリシアを捉える。
「リシアさん」
広場の視線が、一斉にリシアへ向いた。
ノエルは静かに言った。
「あなたはまた、聞きたくない人に歌を聞かせるの?」
市場の笑い声は消えていた。
紙燈が風に揺れる。
黒い札を握る人々の手が、少しずつ強くなる。
リシアの肩の上で、シルが黒糖胡桃を抱えたまま動きを止めている。
歌詞帳は震えていない。
それでも、リシアの胸には確かに一つの問いが落ちた。
歌は、聞きたくない人の前で何ができるのか。
歌わないことだけが、答えなのか。
それとも。
リシアはノエルを見つめた。
まだ歌わない。
けれど、逃げることもできなかった。
今回から黒譜の少女編が始まりました。
ルゼットの町では、黒譜がただの呪いや攻撃ではなく、苦しい歌を聞かずに眠るための札として受け入れられています。
カヤのように、歌によって傷を思い出してしまう人にとって、それは簡単に否定できないものです。
そしてノエルは、その痛みを分かったうえでリシアの前に立ちました。
歌を聞かない自由。
リシアにとって、とても重い問いになっていきます。
今回も読んでくださり、ありがとうございました。




