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旅路小休止編 43話 胡桃半分、歌半分

境谷では、人間側と魔族側の双方に同じ子守唄が残されていた。

その歌は、敵を呼ぶための歌ではなく、怖い夜から子どもを守るための歌だった。

けれど、互いに同じ歌を知っていたことを忘れたふりをしてきた隙間に、黒譜術が入り込んでいた。

リシアは一人で歌うのではなく、境谷の人々と魔族側の人々の声を支える形で歌った。

サナとリオル、そして両側の大人たちは、互いの子どもの名前を呼び、子守唄を敵の声にしないことを選ぶ。

境界は消えなかった。

けれど、そこに声があることを知らなかったふりはしない。

リシアの歌詞帳には、新たに境界の断章が刻まれた。


 境谷を出る朝、シルは深刻な顔をしていた。


 銀色の小さな体を丸め、リシアの肩の上で布袋を抱えている。


 中身は胡桃だ。


 いや、正確には胡桃だったものだ。


 昨日の夕暮れ、サナとリオルのために一粒。


 緊張した場を和らげるために一粒。


 リシアへ励ましとして一粒。


 さらに、いつの間にかリオルからもらった干し果物と交換するために一粒。


 その結果、布袋の中身はかなり寂しくなっていた。


 シルは袋の口を開き、じっと中を覗き込む。


 そして、リシアを見る。


 ちい。


 鳴き声には、世界の終わりのような重さがあった。


「……そんな顔をしないの。昨日はシル、すごく偉かったよ」


 ちい。


「本当だよ。胡桃を分けるなんて、大成長だよ」


 ちい。


「でも、なくなった分を私に請求するのは違うかな」


 シルは目を逸らした。


 その反応で、だいたい考えていることが分かる。


 リシアは苦笑し、街道へ続く門の前で立ち止まった。


 村の入口には、ブレン、ラグス、ユナ、サナが来ていた。


 ダリオも少し離れたところに立っている。


 まだ表情は硬い。


 けれど、リシアへ向ける目は最初よりずっと落ち着いていた。


 歌術師を完全に信じたわけではない。


 魔族側を許したわけでもない。


 それでも、彼はサナの手を握りながら、リシアの方へわずかに頭を下げた。


「世話になった」


 短い言葉だった。


 それ以上は、まだ言えないのだろう。


 リシアも深く頭を下げる。


「こちらこそ、話を聞かせていただいてありがとうございました」


「礼を言うような話じゃない」


「それでも、聞かせていただかなければ分かりませんでした」


 ダリオは何か言いかけ、結局、黙った。


 代わりに、サナが一歩前へ出る。


 腕には布人形を抱えていた。


「リシアさん」


「うん」


「昨日の歌、こわくなかった」


 リシアは少しだけ目を見開く。


 サナは人形の頭を撫でながら、言葉を探している。


「歌はこわい時もあるけど、昨日のは、呼ばれる歌じゃなかった」


「そうだね」


「帰れって言ってた」


 小さな声だった。


 けれど、その言葉はリシアの胸に静かに届く。


 歌を怖がった子が、歌を全部怖いものとして閉じなかった。


 それは、境谷に残った小さな灯だった。


 サナはちらりとシルを見る。


「シルにも、お礼」


 そう言って、サナは小さな包みを差し出した。


 シルの耳がぴんと立つ。


「サナちゃん、それは?」


「胡桃。お父さんが割ってくれた」


 ダリオが少し気まずそうに顔を背ける。


 リシアは思わず笑みをこぼした。


「よかったね、シル」


 ちいっ。


 シルは包みを受け取ると、まるで王国から勲章を授かった騎士のような顔になった。


 深く頭を下げる。


 ただし、包みは絶対に離さない。


 サナはくすくす笑った。


 ダリオも、ほんの一瞬だけ口元を緩める。


 それだけで十分だった。


 橋はまだ閉じられたままだ。


 人間側と魔族側の間には、変わらず川がある。


 けれど、その川の上を昨夜、名前が渡った。


 それをこの人たちは、きっと忘れない。


 村の外へ出ると、川沿いの道の向こう側に小さな影が見えた。


 リオルだった。


 かなり遠い。


 そばにはミゼアもいる。


 ミゼアは腕を組み、リオルがこちら側へ近づきすぎないよう見張っているようだった。


 リオルはリシアたちに向かって、片手を大きく振った。


 もう片方の手には干し果物がある。


 シルの目が、鋭くそれを捉えた。


「シル」


 ちい。


「遠いからね。交換しに走らないよ」


 ちい。


「本当に?」


 シルはしばらく沈黙した。


 リシアは肩の上の相棒をそっと押さえる。


「迷うところじゃないよ」


 そのやり取りが向こうにも見えたのか、リオルが笑っている。


 ミゼアは呆れたように息を吐き、それでも、最後に一度だけリシアへ頷いた。


 リシアも頷き返す。


 それは和解の挨拶ではない。


 けれど、敵意だけでもない。


 境界に置かれた、小さな一礼だった。


 境谷を離れる道は、緩やかに丘を上っていた。


 朝露を含んだ草が足元できらめき、遠くの山肌には薄い雲がかかっている。


 リシアはしばらく無言で歩いた。


 歌詞帳は、胸元で静かに眠っている。


 境界の断章は確かに刻まれた。


 けれど、あの歌はすべてを解決したわけではない。


 境谷の人々は、今日からまた互いに警戒しながら暮らしていくだろう。


 サナとリオルが友達になれるかどうかも分からない。


 もしかしたら、大人たちの恐れに阻まれて、しばらくは会えないかもしれない。


 それでも、子守唄はもう敵の歌とは呼ばれない。


 少なくとも、昨日そこにいた人々は。


 リシアはそのことを、大切に抱えて歩いた。


 昼近く、二人は小さな宿場町へ入った。


 名前はフェルカ。


 境谷へ向かう荷運びや旅人が、途中で足を休めるための町らしい。


 市場は小さく、道も狭い。


 けれど、軒先に干された果物や焼き菓子の香りが漂い、人々の声は境谷よりずっと明るかった。


 シルはその空気を吸った瞬間、完全に元気を取り戻した。


 肩の上で立ち上がり、尻尾を大きく振る。


 視線の先には、焼き菓子屋がある。


 丸い蜂蜜菓子。


 木の実入りの薄焼き。


 干し果物を挟んだ小さなパン。


 シルの目が、順番に輝きを増していく。


「シル」


 ちい。


「見るだけ」


 ちい?


「買うかどうかは、宿代を確認してから」


 ちい……。


 シルは絶望した。


 宿代という言葉を理解しているのかは怪しいが、今すぐ買えないことだけは正確に分かるらしい。


 その時、焼き菓子屋の前にいた子どもたちが、リシアの肩のシルに気づいた。


「銀色のリスだ!」


「かわいい!」


「見て、青いリボンしてる!」


 あっという間に、子どもたちが集まってくる。


 シルは最初こそ得意げに胸を張ったが、近づく手の数が増えると、すぐリシアの髪の後ろへ隠れた。


 人前で堂々とするのは好きだが、撫で回されるのは別らしい。


 リシアは苦笑して、子どもたちに言う。


「驚かせないであげてね。ちょっと食いしん坊だけど、怖がりなところもあるから」


 ちいっ。


 シルが抗議する。


「怖がりじゃない?」


 ちい。


「じゃあ、撫でてもらう?」


 シルは黙ってリシアの髪の後ろへさらに隠れた。


 子どもたちが笑う。


 焼き菓子屋の女性も楽しそうに見ていた。


「旅の方かい?」


「はい。リシアといいます」


「その格好、もしかして歌術師さん?」


 リシアは少し身構えた。


 境谷での反応が、まだ体に残っていたのかもしれない。


 けれど、焼き菓子屋の女性はぱっと顔を明るくした。


「ちょうどよかった。今日は収穫市の前祝いなんだよ。よかったら一曲、旅の歌でも歌ってくれないかい?」


 リシアは瞬きをした。


 警戒でも拒絶でもない。


 純粋な歓迎だった。


 周りの子どもたちも目を輝かせる。


「歌って!」


「リスの歌がいい!」


「木の実の歌!」


 シルがリシアの髪の後ろから、そっと顔を出す。


 木の実の歌。


 その言葉に反応したらしい。


「木の実の歌は、シルが調子に乗るからなあ」


 ちい。


「乗らない?」


 ちい。


「本当かな」


 子どもたちがまた笑う。


 リシアは胸に手を当てた。


 歌っていいのだろうか。


 その迷いが、ほんの少し浮かぶ。


 境谷では歌が恐れられた。


 王都では歌が役目へ人を縛った。


 レムナでは名を、セレスタでは涙を、エルネでは声を、慎重に扱わなければならなかった。


 それでも、この場所では、子どもたちが笑顔で歌を待っている。


 歌は、いつも傷だけを連れてくるわけではない。


 リシアは、ふと昔を思い出した。


 まだ騎士団に入る前。


 故郷の小さな祭りの日。


 リシアは人前で歌うのが苦手で、広場の端に隠れていた。


 子どもたちが輪になって踊り、大人たちが手を叩いている。


 その中心へ引っ張り出そうとしたのは、もちろんアイシャだった。


「リシア、歌ってよ」


「無理だよ。みんな見てる」


「見てるから歌うんでしょ」


「それが無理なの」


「大丈夫。下手だったら私が一番大きな声で笑ってあげる」


「それ、全然大丈夫じゃないよ」


 リシアが本気で困ると、アイシャはからからと笑った。


 そして、ふいに真面目な顔になる。


「でもね、リシアの歌って、戦うためだけのものじゃないと思う」


 当時のリシアは、歌術師になるかどうかもまだ迷っていた。


 歌には力がある。


 だから、きっと役に立たなければならない。


 人を励まし、守り、前へ進ませるものでなければいけない。


 そんなふうに思い込んでいた。


 アイシャは、焼き菓子を半分かじりながら言った。


「ご飯がおいしくなる歌とか、眠る前に安心する歌とか、雨の日にちょっと楽しくなる歌とか。そういうのも、リシアの歌でしょ」


「そんな歌でいいのかな」


「いいに決まってるじゃん。私、そっちの方が好きかも」


「そっち?」


「リシアが笑って歌ってる方」


 アイシャはそう言って、残りの焼き菓子を差し出した。


「半分あげるから、半分だけ歌って」


「半分だけって何?」


「一番だけ」


 思い出の中のアイシャは、いつも少し強引で、明るくて、リシアが立ち止まる場所へ手を伸ばしてくる。


 リシアは、胸の奥が少し温かく、少し痛くなるのを感じた。


 現在に戻る。


 目の前には、歌を待つ子どもたちがいる。


 肩の上では、シルが木の実入りの薄焼きを見つめている。


 リシアは小さく笑った。


「じゃあ、短い歌をひとつだけ」


 子どもたちが歓声を上げる。


「木の実の歌?」


「木の実も少し出てくる歌」


 シルの尻尾が揺れた。


 リシアは市場の真ん中で、軽く息を吸う。


 魔力はほとんど乗せない。


 心を動かすためではなく、場を少し明るくするための歌。


 ただの旅の歌。


 それでいい。


「ころころ木の実が坂を行く」


「追いかけリスさん、あわてて走る」


 子どもたちが笑い出す。


 シルは目を見開いた。


 自分のことだと気づいたらしい。


「右へころころ、左へころり」


「最後はお腹に、ぽんとおさまる」


 シルが胸を張る。


 完全に得意げだ。


 子どもたちは手を叩いて笑った。


 焼き菓子屋の女性も声を上げる。


「いいねえ。うちの菓子にぴったりだ」


「今の歌、もう一回!」


「リスさん踊って!」


 シルが固まる。


 踊るつもりはなかったらしい。


 リシアは笑いながら、相棒へ囁く。


「踊ったら、お菓子を一つ買ってあげる」


 シルの目が真剣になった。


 食べ物が絡むと、決断が早い。


 彼はリシアの肩から焼き菓子屋の台へ飛び降り、ちょこんと後ろ足で立った。


 そして、前足を左右に小さく振る。


 踊りというより、何かを要求する動きに近い。


 だが、子どもたちは大喜びだった。


「踊った!」


「かわいい!」


「もう一回!」


 シルはちらりとリシアを見る。


 一回につき菓子一つか。


 そう確認している目だった。


「一つだけです」


 ちい。


「何回踊っても一つ」


 ちい……。


 シルは交渉に失敗した商人のような顔で、台の上に座り込んだ。


 その落ち込み方がまた面白かったのか、子どもたちはさらに笑った。


 リシアもつられて笑う。


 笑いながら、胸の奥でアイシャの言葉がもう一度響いた。


 リシアが笑って歌ってる方。


 そうだ。


 こんな歌もあった。


 誰かの傷へ踏み込む歌だけではない。


 誰かを立たせる歌だけでもない。


 木の実を追いかけるリスの歌。


 子どもたちが手を叩いて笑う歌。


 そんな歌も、確かにリシアの歌だった。


 歌い終えると、焼き菓子屋の女性が木の実入りの薄焼きを一枚、紙に包んでくれた。


「歌のお代だよ」


「ありがとうございます。でも、お代をいただくほどのものでは」


「子どもたちが笑った。それで十分さ」


 その言葉に、リシアは少しだけ目を伏せた。


 境谷で聞いた子どもの泣き声。


 今ここで聞いた子どもの笑い声。


 どちらも同じくらい大切な声なのだと思う。


 シルは薄焼きを受け取ると、真剣な顔でリシアを見た。


「分ける?」


 ちい。


 シルは少し迷う。


 かなり迷う。


 それから、ほんの端を割って差し出した。


「……小さいね」


 ちい。


「気持ちは大きい?」


 ちいっ。


 リシアは笑って、その小さな欠片を受け取った。


「ありがとう」


 シルは満足そうに薄焼きを抱え直す。


 その時、市場の端から旅商人たちの会話が聞こえた。


「黒い譜面を売っている奴がいるらしい」


「またその話か」


「いや、今度は北の街道だ。青い髪の女の子を見たって者もいる」


 リシアの手が止まる。


 青い髪。


 黒い譜面。


 シルも薄焼きをかじる動きを止めた。


 市場の笑い声の中で、その言葉だけが細い針のように残る。


 ノエル。


 確かめたわけではない。


 けれど、胸の奥に浮かんだ名前はそれだった。


 焼き菓子屋の女性が首を傾げる。


「どうかしたかい?」


 リシアはすぐに首を横に振った。


「いえ。少し、聞き覚えのある話だったので」


「物騒な噂だよ。旅の人は気をつけな」


「はい」


 リシアは紙包みを鞄にしまい、歌詞帳の上から軽く押さえた。


 境界の断章は静かだ。


 けれど、旅はすぐに次の声を運んでくる。


 シルが薄焼きを抱えたまま、リシアを見上げた。


 ちい。


「うん」


 リシアは小さく頷く。


「今日は、もう少し休もう。急いで追いかける前に、お菓子をちゃんと食べてからね」


 シルの顔がぱっと明るくなる。


 現金な相棒だ。


 それでも、その明るさに救われる。


 リシアは市場の賑わいを見渡した。


 子どもたちはまだ、さっきの木の実の歌を真似している。


 歌は、人を傷つけることがある。


 歌は、人を縛ることがある。


 歌は、誰かの足を奪うことさえある。


 けれど、歌は笑い声にもなる。


 半分に割った焼き菓子にもなる。


 誰かの一日を、ほんの少し明るくすることもある。


 リシアはそのことを、忘れないようにしようと思った。


 アイシャが昔、笑いながら教えてくれたことを。


 シルが薄焼きを頬張り、幸せそうに目を細める。


 リシアはその姿に笑いながら、フェルカの市場の空の下を歩き出した。


 胸の奥には、境界の子守唄の余韻。


 耳の奥には、子どもたちの笑い声。


 そして遠くには、黒い譜面の噂。


 旅は、穏やかな日差しの中でも、次の影へ向かって少しずつ進んでいる。



今回は、境界の子守唄編の後の小休止として、リシアとシルの旅路を描きました。


重い出来事の後でも、旅には市場の賑わいや子どもたちの笑い声、シルの食いしん坊ぶりがあります。


また、リシアがアイシャとの幼い頃の記憶を少し思い出す回にもなりました。


歌は傷になることもありますが、誰かの一日を少し明るくすることもある。


そんなことを、リシアが改めて感じる話でした。


今回も読んでくださり、ありがとうございました。


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