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境界の子守唄編 42話 境界で泣く子守唄

リシアたちは旧橋を調べ、かつて人間側と魔族側が橋の上で物を交わしていた記憶に触れた。

境谷の子守唄は、最初から敵を呼ぶ歌ではなかった。

こちら側では「怖い夜が、あなたを見つけませんように」と歌われ、向こう側では「橋を渡らず、朝を待て」と歌われていた。

それは、子どもを境界へ誘う歌ではなく、危ない夜から守るための歌だった。

しかし、両側が同じ歌を知っていたことを忘れたふりをしてきた隙間に、黒譜術が入り込んでいた。

浅瀬で人間側と魔族側が向き合う中、黒い糸は再び動き出す。

旧橋の下で歪められた子守唄が、子どもたちの名を呼び始めていた。


 村へ戻る道は、来た時よりもずっと短く感じられた。


 足元の石を踏む音。


 背後から迫る川の響き。


 旧橋の下で歪んだ子守唄。


 それらが全部、リシアの背を押してくる。


 けれど、その速さに心を預けてしまえば、きっとまた間違える。


 急がなければならない。


 でも、焦って歌えば届かない。


 境谷の人々は、まだリシアの歌を完全には信じていない。


 魔族側の人々も同じだ。


 今この谷で信じられているのは、歌術師の声ではない。


 子どもの名を呼ぶ家族の声。


 川を渡るなと叫ぶ大人の声。


 それだけだった。


 リシアは走りながら、胸元の歌詞帳を押さえる。


 熱がある。


 ページの奥で、まだ歌にならない言葉が何度も形を変えていた。


 《同じ歌を、敵の声にしないで》


 《呼ぶのではなく、呼び戻す声を》


 その二つだけでは足りない。


 子守唄を取り戻すには、もう一つ、誰かの選択が必要だった。


 前を走るダリオが、村の入口へ飛び込む。


「サナ!」


 返事はすぐにはない。


 広場には人が溢れていた。


 子どもたちを家へ閉じ込めていたはずなのに、何人かが外へ出ている。大人たちが必死に抱き留めているが、足元には黒い糸が絡み、川の方へ引こうとしていた。


 サナもいた。


 ユナに抱きしめられ、裸足のまま地面に足を踏ん張っている。


 布人形は片腕に抱えたまま。


 その目は、ぼんやりと川の方を見ていた。


「サナ!」


 ダリオが駆け寄り、娘の前に膝をつく。


 サナの唇が小さく動く。


「お母さんが……呼んでる」


「違う」


 ダリオの声が震える。


「いや、違うと言い切れない。けど、今行くな。お前はここにいろ」


 サナの足元の糸が、ぎしりと音を立てるように太くなった。


 川の方から、いくつもの声が重なって届く。


「サナ」


「リオル」


「ニル」


「マーヤ」


 名前を呼ぶ声。


 けれど、それは家族の声ではない。


 黒譜術が真似た声だ。


 大切な人の響きを借りて、足を奪おうとしている。


 リシアの耳に、子どもたちの心歌が乱れて届いた。


『行きたくない』


『でも呼んでる』


『お母さんなら行かなきゃ』


『こわい』


『足が勝手に動く』


 リシアは奥歯を噛む。


 今すぐ歌いたい。


 けれど、ここでリシアだけが歌えば、また同じになる。


 歌術師が上から助ける形になる。


 それでは、この谷が抱えてきた傷の奥には届かない。


 ブレンが叫んだ。


「全員、子どもの名を呼べ! 昨夜と同じだ!」


 その声で、広場の大人たちが動き出す。


「ニル、ここにいるぞ!」


「マーヤ、母さんの手を握って!」


「ルッツ、目を閉じていい。声だけ聞け!」


 必死の声が広場に重なる。


 黒い糸はいくつか細くなる。


 だが、昨夜ほど簡単には退かなかった。


 黒譜術もまた、こちらの対抗を覚えている。


 家族の声に、別の声を重ねてくる。


「おいで」


「こっちが本当だよ」


「橋の下で待っているよ」


 子どもたちの体が再び揺れた。


 その時、谷の向こう側でも叫び声が上がる。


 魔族側の集落だ。


 川を挟んで遠く、いくつもの灯りが乱れて動いている。


 ミゼアが息を呑む。


「リオル……!」


 彼女は迷わず走り出そうとした。


 しかし、黒い糸は川のこちらにも伸びてくる。浅瀬の石に触れた瞬間、ミゼアの足元を絡め取ろうとした。


 ラグスが槍の柄でそれを叩く。


 黒い糸が弾けた。


「行くなら、道を見ろ!」


「分かっている!」


 ミゼアは怒鳴り返したが、その声には焦りが混じっていた。


 リシアは川の両側を見た。


 人間側の子ども。


 魔族側の子ども。


 どちらも呼ばれている。


 同じ歌で。


 同じように。


 けれど、大人たちの声はまだ別々だ。


 自分たちの子の名だけを呼んでいる。


 それは当然だった。


 目の前の大切な子を守ることで精一杯なのだから。


 でも、黒譜術はそこを利用している。


 こちらの子だけ。


 向こうの子だけ。


 その境目を深くし、相手の声を敵に変える。


 リシアは歌詞帳を開いた。


 ページには黒い染みのような影が広がりかけている。


 境界の歌詞が、まだ定まらないまま震えていた。


 シルが肩の上で、珍しく胡桃の袋を離した。


 小さな前足で、ページの端を押さえる。


 その金色の目は、まっすぐリシアを見ていた。


 歌え。


 そう言っているようにも見えた。


 違う。


 一人で歌うな。


 そう言っているようにも見えた。


 リシアは息を吸う。


 そして、歌詞帳を閉じた。


 周囲の人々が驚いたように彼女を見る。


 ダリオも、ブレンも、ラグスも。


 リシアは声を張った。


「私の歌だけでは足りません!」


 広場にその声が響く。


「この歌は、私が一人で歌っても戻りません。子どもを呼び戻すのは、その子を知っている人の声です」


 ギルムが歯を食いしばる。


「なら、今も呼んでいる!」


「自分の子の名だけでは足りないんです」


 その言葉に、空気が止まった。


 ダリオがリシアを見る。


 ミゼアも川の手前で振り返る。


 リシアは続けた。


「向こうの子を愛せとは言いません。許せとも言いません。でも、黒譜術は、相手の子どもを敵の声に変えています」


 リシアは川の向こうを指す。


「リオルが呼んでいるのではありません。サナが呼ばれているのでもありません。歌が奪われているんです」


「だから何をしろと言う!」


 ギルムの声は荒かった。


 怒りというより、恐怖だった。


 リシアは一瞬だけ言葉を飲み込み、それから言った。


「リオルの名前を、こちら側からも呼んでください」


 ざわめきが広場を揺らす。


「魔族の子の名を?」


「敵の名を呼べと言うのか」


「ふざけるな」


 拒絶は当然だった。


 リシアは目を伏せない。


「名前を呼ぶことは、許すことではありません。こちらへ来いと呼ぶことでもありません」


 レムナ村の名の断章が、胸の奥で静かに灯る。


「そこにいると認めることです。敵の影ではなく、子どもがそこにいると、声で示すことです」


 サナが顔を上げた。


 ぼんやりしていた目に、少しだけ光が戻る。


「リオル……?」


 サナの足元の糸が、わずかに揺れた。


 ダリオが娘を見る。


「サナ?」


「リオル、行かないって言った」


 サナはまだ眠そうな声で言う。


「昨日、言ってた。行かないって」


 リシアはダリオを見た。


 決めるのはリシアではない。


 ここで誰かの名を呼ぶかどうかは、この村の人が選ぶことだ。


 ダリオの顔には、激しい葛藤が浮かんでいた。


 魔族への怒り。


 妻を失った痛み。


 サナを守りたい恐怖。


 そして、川の向こうで歌わされていた子どもの姿。


 彼の心歌が低く届く。


『呼べるか』


『妻を奪った側の名を』


『でも、あの子も泣いていた』


『サナが覚えている』


 ダリオはサナを抱いたまま、喉を震わせた。


「リオル」


 声は小さい。


 けれど、確かに広場に落ちた。


 サナの足元の黒い糸が、ぴんと震える。


 ダリオはもう一度、今度は少し強く言った。


「リオル、行くな」


 川の向こうで、何かが弾ける音がした。


 ミゼアが息を呑む。


 同じ頃、魔族側の集落からも声が返ってきた。


「サナ!」


 それはミゼアの声だった。


「サナ、橋を渡るな!」


 ダリオの目が大きく見開かれる。


 サナも顔を上げた。


 その名を、敵側から呼ばれた。


 呼び寄せるためではなく、止めるために。


 広場の空気が変わる。


 ほんの少し。


 本当に、息一つ分だけ。


 ブレンが杖を握り直し、低く声を張った。


「リオル、橋を渡るな!」


 ラグスも続く。


「リオル、そこにいろ!」


 ユナが涙声で叫ぶ。


「リオルくん、サナも行かない!」


 魔族側からも、ぎこちない声が響いた。


「サナ、川へ来るな!」


「サナ、夜を越えろ!」


 名前が川を渡る。


 敵を呼ぶ声ではない。


 敵の存在を消さない声。


 子どもを境界へ引きずり出す歌に対して、両側の大人たちが境界のこちらへ留める声を重ねていく。


 黒い糸が激しく暴れた。


 旧橋の下で、黒譜がきしむように震える。


 子守唄が歪む。


「おいで」


「渡れ」


「こちらへ」


 それでも、人々の声が重なる。


「サナ!」


「リオル!」


「橋を渡るな!」


「朝を待て!」


 リシアはようやく歌詞帳を開いた。


 ページの上で、言葉が一つにつながっていく。


 今なら歌える。


 リシア一人の歌ではなく、両側の声を支える歌として。


 彼女は息を吸った。


 歌声は大きくしない。


 けれど、川の音に消えないよう、まっすぐに通す。


「ねむれ、ねむれ」


 その一節に、広場の大人たちが身構える。


 リシアは続ける。


「怖い夜が、あなたを見つけませんように」


 それは人間側に残っていた歌詞。


 メル婆が、震える声で重ねた。


「橋を渡らず、朝を待て」


 魔族側の歌詞を、今度はメル婆が口にした。


 ミゼアが川向こうで目を見開く。


 そして、低く続ける。


「呼ぶ声がしても、足はあなたのもの」


 それはリシアが置いた言葉だった。


 リオルが覚え、ミゼアが持ち帰った言葉。


 リシアはその声を受け取り、旋律へ乗せる。


「名前を奪う声ではなく」


 ダリオがサナを抱きしめながら、かすれた声で言う。


「帰れと呼ぶ声を」


 リシアの胸が熱くなる。


 それだ。


 足りなかったもの。


 呼ぶ声ではなく、帰れと呼ぶ声。


 こちらへ来いではなく、そこにいて朝を迎えろという声。


 リシアは歌った。


「同じ歌を、敵の声にしないで」


 歌詞帳が光を帯びる。


「同じ夜を、ひとりの闇にしないで」


 川面に広がっていた黒い波紋が、白い光に押し戻されていく。


「あなたの名は、罠のためにあるのではない」


 子どもたちの足元から、黒い糸が一本ずつ剥がれていく。


「誰かが帰れと呼ぶために」


 サナが目を開けた。


 リオルが川の向こうで泣きながら膝をつく。


「あなたの名は、そこにある」


 リシアの歌は、命令ではなかった。


 足を止めろと押さえつける歌でもない。


 子どもたちの足が、自分のものだと思い出せるように。


 大人たちの声が、敵意ではなく守る声として届くように。


 そのための歌だった。


 黒譜が旧橋の下で裂ける。


 けれど、完全には消えない。


 黒い譜面の奥から、古い泣き声が漏れた。


 子どもの声。


 ひとりではない。


 二つ。


 人間の子と、魔族の子。


 メル婆が橋の方へ一歩踏み出した。


「……いたのか」


 彼女の声は震えている。


「あの日、橋の下に」


 黒い譜面の中から、古い残響が流れ出す。


 雨の夜。


 争いから逃げた子どもたち。


 人間の子と魔族の子が、橋の下に隠れていた。


 互いに怖がりながら、同じ子守唄を小さく歌っていた。


 見つからないように。


 朝まで待てるように。


 けれど、大人たちは互いを疑い、橋の両側で叫び合った。


 誰も橋の下を探さなかった。


 相手が連れ去ったと思い込んだ。


 そのまま増水した川が、二つの小さな声を飲み込んだ。


 リシアは歌いながら、涙が滲むのを感じた。


 黒譜術は確かにあった。


 だが、それだけが原因ではなかった。


 互いを疑い、探すべき場所を見なかった大人たちの選択。


 その後悔と沈黙が、黒譜に根を与えた。


 メル婆が膝をつく。


「ごめん」


 小さな声だった。


「名前も知らんまま、忘れたふりをした」


 ミゼアの側でも、年老いた魔族の男が顔を覆っている。


「あの夜、橋の下を探せばよかったのか」


 誰も答えられない。


 答えられるはずがなかった。


 リシアは歌を止めない。


 今必要なのは、誰かを責めることではない。


 泣いていた子守唄を、ようやく聞くこと。


 彼女の声に、メル婆が震えながら歌詞を重ねる。


「ねむれ、ねむれ」


 ミゼアが続ける。


「橋を渡らず、朝を待て」


 ダリオが、喉を震わせながら声を出す。


「サナ、ここにいろ」


 少し間を置いて、低く続けた。


「リオルも、そこにいろ」


 魔族側から、ミゼアの声が返る。


「リオル、ここにいなさい」


 それから、ぎこちなく。


「サナも、そこにいなさい」


 その瞬間、旧橋の下の黒譜が大きく裂けた。


 黒い線がばらばらにほどけ、川面へ落ちる。


 水に触れた譜面は墨のように広がり、やがて薄くなって消えていく。


 完全な浄化ではない。


 でも、子どもたちの足を縛る力は失われていた。


 川辺に沈黙が戻る。


 誰も歓声を上げなかった。


 抱き合う者はいる。


 泣く者もいる。


 けれど、それは勝利の声ではない。


 ようやく、聞かないふりをしてきた泣き声に触れた後の沈黙だった。


 リシアは歌を終えた。


 膝から力が抜けかける。


 シルが肩から胸元へ降り、歌詞帳を押さえるように座った。


「大丈夫」


 リシアは小さく言う。


 シルは疑わしそうに鳴いた。


 ちい。


「少し疲れただけ」


 ちい。


「本当だよ」


 シルは布袋から胡桃を一粒取り出した。


 そして、リシアの手のひらに置く。


 リシアは目を瞬かせる。


「くれるの?」


 ちい。


 シルはものすごく真剣な顔で頷いた。


 リシアは思わず笑いそうになり、それから少し泣きそうになる。


「ありがとう」


 その胡桃は、とても小さくて、今にもシルが後悔しそうな顔で見つめていた。


 だからリシアは半分に割り、片方をシルへ返した。


「半分こ」


 シルの顔がぱっと明るくなる。


 その様子を見たサナが、小さく笑った。


 川の向こうで、リオルも涙を拭きながら笑っていた。


 しばらくして、ブレンがミゼアへ向き直る。


「橋は、すぐには開けない」


「こちらも同じ考えだ」


 ミゼアは答えた。


「だが、子守唄を敵の歌とは呼ばない」


 ブレンは長く息を吐いた。


「こちらも、そうする」


 それは和解ではない。


 交易の再開でもない。


 互いの罪を許す言葉でもない。


 ただ、歌を敵のものとして消さないという約束。


 今の境谷には、それが精一杯だった。


 けれど、精一杯だからこそ、軽くなかった。


 サナがダリオの手を握りながら、川の向こうへ声を出す。


「リオル」


 ダリオの手に力が入る。


 それでも止めない。


 リオルが顔を上げる。


「なに」


「昨日、こわかった」


 リオルは俯いた。


「ごめん」


「でも、リオルもこわかったんだよね」


 リオルは小さく頷く。


 サナは少し迷い、胸元の布人形を抱え直した。


「次は、歌わされないでね」


「うん」


 リオルは握っていた干し果物を、浅瀬の石の上に置いた。


 サナも何かを探す。


 けれど、何も持っていなかった。


 するとシルが、ものすごく悩んだ顔で布袋を開いた。


 リシアは止めなかった。


 シルは胡桃を一粒取り出す。


 足元へ置く。


 それから、すぐリシアを見る。


 褒めてほしい顔だった。


「偉いね」


 ちいっ。


 シルは胸を張る。


 ただし、石の上の胡桃から目は離さない。


 サナがそれを見て、また笑った。


 リオルも笑う。


 川の上を、子どもたちの笑い声が小さく渡った。


 夕暮れが谷を染めていく。


 旧橋はまだ閉じたままだ。


 両側の大人たちは、まだ互いを信じてはいない。


 けれど、今日は誰も矢を放たなかった。


 誰も、相手の子どもの名を敵の名として消さなかった。


 リシアは歌詞帳を開く。


 ページには、新しい断章が刻まれていた。


 境界の断章。


 そこには、先ほど歌った言葉が、静かに光っている。


 《ねむれ、ねむれ》


 《怖い夜が、あなたを見つけませんように》


 《橋を渡らず、朝を待て》


 《呼ぶ声がしても、足はあなたのもの》


 《同じ歌を、敵の声にしないで》


 《同じ夜を、ひとりの闇にしないで》


 《名前は、罠のためにあるのではない》


 《誰かが帰れと呼ぶために、そこにある》


 リシアはその文字をそっと撫でた。


 境界は消えなかった。


 消してはいけない境界もある。


 痛みを無視して一つにしてしまえば、それはまた別の暴力になる。


 けれど、境界の向こうに声があることを、知らなかったふりはしない。


 それが、この谷で今日選ばれたことだった。


 シルが肩の上で、残った胡桃の数を必死に数えている。


 リシアは笑う。


「シル、あとで何か買おうね」


 ちい。


「干し果物も?」


 ちいっ。


「分かった。両方」


 シルは満足そうに尻尾を揺らした。


 その小さな仕草に、張りつめていた胸が少しだけほどける。


 リシアは川の向こうを見る。


 ミゼアがリオルの肩を抱き、こちらへ深く頭を下げることはしなかった。


 ただ、一度だけ頷いた。


 ブレンも同じように頷き返す。


 それで十分だった。


 夜が来る。


 けれど、今夜の子守唄はもう、子どもたちを川へ呼ばない。


 それぞれの家で、それぞれの声が歌うだろう。


 まだ少し震えながら。


 まだ相手を許せないまま。


 それでも、敵の歌ではなく、子どもを朝まで守る歌として。リシアは歌詞帳を閉じた。


 川の音の奥に、もう泣き声は聞こえない。


 けれど、橋の下から拾い上げた黒い譜面は、誰かが谷へ持ち込んだものだった。子守唄を敵の声に変えるために、わざわざ。


 誰が、何のために。それを売る町があるという噂を、リシアはまだ知らない。境を越えてきた風が、次の町の匂いを運んでくる。



境界の子守唄編は、今回で一区切りとなります。


人間側と魔族側が完全に和解したわけではありません。


失われた人も、消えた時間も戻りません。


それでも、同じ子守唄を「敵の歌」として消さないことを、境谷の人々は選びました。


この編でリシアが手に入れた歌詞は、こちらです。


「ねむれ、ねむれ


怖い夜が、あなたを見つけませんように


橋を渡らず、朝を待て


呼ぶ声がしても、足はあなたのもの


同じ歌を、敵の声にしないで


同じ夜を、ひとりの闇にしないで


名前は、罠のためにあるのではない


誰かが帰れと呼ぶために、そこにある」


今回も読んでくださり、ありがとうございました。


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