↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
42/138

境界の子守唄編 41話 同じ歌を知らなかったふり

夜の境谷に、歪められた子守唄が響いた。

その歌は子どもたちを川へ誘おうとし、サナたちの足元には黒い糸が絡みつく。

リシアは守護詩で止めようとしたが、村人たちは歌そのものを恐れ、その声は届かなかった。

そこでリシアは歌うことをやめ、親や家族に子どもたちの名前を呼んでもらう。

震える声で名前を呼ばれた子どもたちは、自分の足を取り戻した。

リシアの歌だけでは届かないものがある。

その夜、境谷の人々は、子どもを守るために自分たちの声を使った。


 朝になっても、境谷の村には眠りの気配が残っていなかった。


 夜通し灯されていた松明は、灰色の煙を細く上げている。


 広場の端では、見張りを終えた男たちが壁にもたれ、目を閉じていた。眠っているというより、体を倒さないようにしているだけに見える。


 家々の扉は開いていた。


 けれど、朝の支度をする音はいつもより鈍い。


 鍋の蓋が置かれる音。


 水桶が地面に触れる音。


 薪を割ろうとして、途中で手を止める音。


 村全体が、昨夜の子守唄をまだ耳の奥に残しているようだった。


 リシアはブレンの家の軒先で、冷めかけた薬草茶を両手で包んでいた。


 湯気はほとんど立っていない。


 それでも指先に伝わる温度がありがたい。


 昨夜、歌おうとして拒まれた時の胸の痛みは、まだ少し残っていた。


 共鳴詩が弾かれた時のような鋭さではない。


 もっと鈍く、深いところに残る痛み。


 自分の歌が、ここでは恐れられる。


 頭では分かっていた。


 でも、実際に「歌うな」と叫ばれた声は、思った以上に胸へ残る。


 リシアは徽章の上からそっと胸を押さえた。


 その時、足元で小さな音がした。


 かり。


 かりかり。


 シルだった。


 銀色の相棒は、サナにもらった布袋を前足で押さえながら、胡桃を一粒ずつ確認している。


 食べてはいない。


 確認しているだけだ。


 少なくとも、本人はそのつもりらしい。


「シル」


 リシアが呼ぶと、シルはびくりと肩を跳ねさせた。


「何してるの?」


 ちい。


「見張り?」


 ちい。


「胡桃を?」


 ちい。


「敵はどこ?」


 シルは真剣な顔で辺りを見回した。


 そして、通りかかった子どもの方を見る。


 その子は昨夜、シルが落とした胡桃を受け取った少年だった。


 少年はシルと目が合うと、少し気まずそうに笑った。


「返した方がいい?」


 シルの尻尾がぴんと立つ。


 返す。


 その単語に全身で反応している。


 リシアは慌てて首を横に振った。


「返さなくて大丈夫だよ。シルがあげたものだから」


 ちいっ。


 シルが抗議した。


 あげたというより、やむを得ず失った。


 そんな顔だった。


 少年はくすりと笑い、ポケットから半分に割った胡桃の殻を出す。


「中身は食べた。おいしかった」


 シルの表情が、さらに複雑になる。


 自分の胡桃がおいしかったことは誇らしい。


 でも食べられたことは悲しい。


 その二つの感情が、小さな顔の中で忙しく行き来している。


 リシアは思わず笑ってしまった。


 少年も少し笑う。


 その笑い声を聞いて、近くにいたユナがほっとしたように目を細めた。


 昨夜、子どもたちは何度も名前を呼ばれた。


 声は枯れ、涙も出た。


 それでも朝になり、胡桃のことで少し笑える。


 その小さな変化が、今の村には必要なのだと思えた。


 だが、穏やかな時間は長く続かない。


 広場の方から、荒い声が聞こえてきた。


「本当に行くつもりなのか」


 ギルムの声だった。


 リシアがそちらへ向かうと、広場にはブレン、ラグス、ダリオ、ギルム、メル婆が集まっていた。


 メル婆は古い杖をつき、誰かに支えられることを嫌がるように背筋を伸ばしている。


 ダリオは腕を組んだまま、昨夜よりもずっと疲れた顔をしていた。


 目元には眠れなかった影がある。


 それでも、サナを家に残して来たのだろう。


 娘を守るために、怒りだけではなく、話し合いの場へ出ることを選んだ。


 その選択は軽くない。


 ブレンがリシアを見る。


「夕刻の前に、旧橋を確かめておく」


「橋へ行くんですか」


「下流の浅瀬へ向かう前に、こちら側から見ておく必要がある。あの橋の何を恐れてきたのか、わしら自身が知らなければ話にならん」


 ギルムが苛立ったように息を吐く。


「知らなくていいこともある」


 メル婆が静かに言った。


「知らないふりをしてきたから、今こうなっておるのかもしれん」


「婆さんは昔を美しく見すぎだ」


「美しかったなどと言っておらん」


 メル婆の声は細い。


 けれど、そこには年を重ねた者の硬さがあった。


「怖かったから忘れた。それだけじゃ」


 その言葉に、広場の空気が少し沈む。


 リシアはメル婆の心歌を、遠くで聞いた。


『あの子の歌を、まだ覚えている』


『忘れたふりをして、何年も生きた』


『それでも夜になると、母の声より先に、あの子の声が戻ってくる』


 あの子。


 誰のことかは、まだ分からない。


 聞こえても、すぐに尋ねない。


 リシアは自分にそう言い聞かせる。


 昨夜の失敗を繰り返してはいけない。


 シルが肩に乗り、布袋をしっかり抱え直した。


 小さな体のくせに、まるで重要な荷物を守る護衛のようだった。


「シル、その胡桃は橋の調査に必要?」


 ちい。


「本当に?」


 ちい。


「非常用って顔してる」


 ちい。


 リシアが半分呆れていると、ラグスがぼそりと言った。


「昨日から思っていたが、そのリスは緊張感を食べているのか」


「食べるのは胡桃です」


「そうか」


 ラグスは真面目に頷いた。


 冗談のつもりだったのか、本気だったのか分かりづらい。


 そのやり取りで、ブレンがほんの少し口元を緩める。


 ギルムだけは笑わなかった。


 それでも、怒鳴ることはしない。


 リシアたちは旧橋へ向かった。


 村の広場を抜け、川沿いの道を下る。


 朝の川は、昨夜の不気味さを隠すように白く光っていた。


 鳥の鳴き声も聞こえる。


 どこかで水草が揺れ、石の隙間に小魚が走る。


 こうして見れば、ただの谷川だ。


 けれど、少し下流に見えてくる旧橋だけは違っていた。


 古い石造りの橋。


 中央は鎖で塞がれ、両側には朽ちかけた木札がいくつも打ちつけられている。


 橋の欄干には苔が生え、石の隙間から細い草が伸びていた。


 橋脚の下、水に近いところに、黒い譜面のようなものが貼りついている。


 近づくほど、歌詞帳が胸元で震えた。


 シルも胡桃袋を抱える前足に力を込めている。


「ここで子どもが消えた」


 ブレンがぽつりと言った。


 リシアは横を見る。


 村長の顔は、いつもの硬さを保っている。


 だが目だけは、橋の中央から離れない。


「何年前ですか」


「二十七年前だ。まだわしが村長になる前の話だ」


 ギルムが苦い顔をする。


「その話は何度も聞いた。魔族が子どもを連れていったんだろう」


「そう言われている」


 ブレンは否定しなかった。


 ただ、言い方が少し違った。


 そうだった、ではない。


 そう言われている。


 リシアはその違いに気づく。


 メル婆が橋の欄干へ近づき、震える手で石に触れた。


「消えたのは、人間の子だけではない」


 ギルムが眉を寄せる。


「何だと」


「その日に、向こう側でも子どもが一人消えた」


 川音が大きくなったように感じた。


 ダリオが目を細める。


「なぜ知っている」


 メル婆はしばらく答えなかった。


 橋の石を撫でる指が、少し震えている。


「昔、この橋は閉ざされておらなんだ」


 彼女は遠いものを見るように話し始めた。


「今ほど争いばかりではなかった頃、境の者たちはこの橋の上で物を交換しておった。麦、干し肉、薬草、布、塩。互いに信用していたわけではない。それでも、暮らしのために顔を合わせていた」


「そんな話、聞いたことがない」


 ギルムが低く言う。


「聞きたがる者がおらなんだからな」


 メル婆の声には、自嘲が混じっていた。


「わしはまだ小さかった。橋のこちらで母を待っていると、向こう側に角のある女の子がおった。名前は聞かなかった。聞けば、親に叱られると思っていた」


 リシアは息を静かに整える。


 メル婆の心歌が、少しだけ鮮明になる。


『名前を聞けばよかった』


『呼べる名があれば、忘れたふりなどできなかった』


 リシアは何も言わない。


 今は、メル婆自身の声を待つ。


「その子は、よく歌っておった。わしの母が歌うものと同じ子守唄を」


「魔族の子が?」


 ギルムの声が尖る。


 メル婆は頷いた。


「向こうでは、少し歌詞が違った。けれど同じ歌じゃった。こちらの母は『怖い夜が見つけませんように』と歌う。向こうの子は『橋を渡らず朝を待て』と歌っていた」


 リシアの胸元で、歌詞帳が熱を帯びる。


 サナが聞いた歌。


 リオルが歌った歌。


 どちらも、欠けた形で残っていた。


 それぞれの側が、自分たちの記憶だけを抱え、相手の歌詞を失っていたのかもしれない。


 ブレンが低く尋ねる。


「なぜ、それを黙っていた」


「怖かったからじゃ」


 メル婆はきっぱり答えた。


「橋で子どもが消えた後、村は言った。あれは魔族の歌だと。向こうが子どもを呼んだのだと。わしは同じ歌を知っていると言えなかった。言えば、わしも疑われると思った」


「それで、知らなかったふりをしたのか」


 ギルムの言葉には責めがある。


 メル婆はその責めを受け止めた。


「そうじゃ。長いこと、知らなかったふりをした」


 その一言で、橋の周囲の空気が深く沈む。


 誰もすぐには責められなかった。


 なぜなら、知らなかったふりをしてきたのはメル婆だけではない。


 村全体が、橋の向こうにも同じ歌があった可能性を閉じ込めてきた。


 そうすれば痛みの形が簡単になる。


 敵が奪った。


 敵が歌った。


 敵の声が子どもを呼んだ。


 そう思えば、悲しみの置き場所ができる。


 けれど、その置き場所の影に、別の声が押し込められる。


 リシアは旧橋を見つめた。


 黒い譜面は、苔の下で細かく震えている。


 まるで、人々が知らなかったふりをした隙間に根を張っているようだった。


「触れてもいいですか」


 リシアはブレンに尋ねた。


 すぐには答えが返らない。


 ダリオが厳しい顔をする。


「また残響を聞くのか」


「少しだけです。深くは入りません」


「それで何が分かる」


「分からないかもしれません。でも、橋が何を覚えているのか、確かめたいです」


 ダリオは黙った。


 昨夜のことがある。


 リシアが聞こえた心歌を勝手に言葉にしてしまったことを、彼はまだ忘れていない。


 それでも彼は、やがて小さく言った。


「勝手に決めつけるな」


「はい」


「サナを巻き込むな」


「はい」


「歌うなと言われたら、止まれ」


「止まります」


 ダリオはそれ以上言わなかった。


 ブレンが頷く。


「短く頼む」


 リシアは橋の欄干へ近づいた。


 石に指を置く。


 冷たい。


 古い水の匂いが、指先から立ち上ってくる。


 残響歌を開く。


 深く潜らない。


 水面に耳を寄せるだけ。


 まず聞こえたのは、川の音だった。


 今と同じ川。


 けれど、少し賑やかだ。


 荷車のきしむ音。


 誰かの笑い声。


 大人たちが低い声で値段を交わす声。


 子どもの足音。


 橋の上を、小さな影が二つ走っていく。


 一人は人間の女の子。


 一人は角のある魔族の女の子。


 顔はぼやけている。


 けれど、二人が橋の真ん中で何かを交換しているのは分かった。


 干し果物と、丸い木の実。


 リシアの肩でシルがびくりと動く。


 今の残響にまで反応したらしい。


「シル、今のは食べられないよ」


 ちい……。


 小さな声が、ひどく残念そうに鳴る。


 リシアは思わず少しだけ笑いかけた。


 その瞬間、残響の中の二人も笑った。


 子ども同士の笑い声。


 敵意のない、短い、秘密めいた笑い。


 そして、歌。


「ねむれ、ねむれ」


 人間の母の声。


「橋を渡らず、朝を待て」


 魔族の母の声。


 二つの声が重なっている。


 完全に同じではない。


 でも、同じ歌だった。


 同じ夜を恐れ、同じように子どもを守ろうとした歌。


 次の瞬間、残響の空気が変わる。


 夜。


 雨。


 走る足音。


 誰かが叫んでいる。


 橋の下へ隠れろ。


 見つかるな。


 歌うな。


 いや、静かに歌え。


 声が混ざる。


 子どもの泣き声が二つ。


 人間の子。


 魔族の子。


 どちらも怖がっている。


 リシアは指を引こうとした。


 だが、その前に黒い譜面が視界を覆う。


 子守唄の上に、黒い線が重ねられる。


 守るための「渡るな」が、歪む。


 待てという声が、おいでに変わる。


 見つかるなという願いが、こちらへ来いという誘いに変わる。


 リシアの喉が詰まった。


 歌が壊される瞬間。


 それは、まるで誰かの祈りを刃物で裂くようだった。


 その裂け目から、心歌が漏れる。


『置いていかないで』


『こっちにいるよ』


『名前を呼んで』


『橋の下は暗い』


『お母さん』


 リシアは指を離した。


 息が荒くなる。


 視界が戻ると、目の前に古い橋の石があった。


 シルが肩の上で、リシアの頬を前足で叩いている。


 かなり必死だった。


「大丈夫」


 リシアは小さく答えた。


「戻ってるよ」


 ちい。


 シルは疑わしそうに鳴く。


 リシアは少し苦笑した。


「ごめん。少し深く聞きすぎた」


 ラグスが近づく。


「何が見えた」


 リシアはすぐに答えなかった。


 今聞いたものを、そのまま言葉にすれば、また誰かの痛みを勝手に形にしてしまう。


 だから、見えた事実だけを選ぶ。


「昔、この橋では人間側と魔族側が物を交換していました。子どもたちも会っていたようです」


 ギルムが顔を歪める。


「そんな昔話で、今の危険が消えるのか」


「消えません」


 リシアははっきり言った。


「サナちゃんのお母さんが亡くなったことも、ミゼアさんの妹が亡くなったことも、消えません」


 ダリオの目が揺れる。


「でも、子守唄が最初から敵を呼ぶ歌だったわけではないことは、確かめられました」


 メル婆が橋の石に額を寄せるようにして目を閉じた。


「やはり、あの子も歌っておったのか」


 リシアは頷く。


「はい」


「名前は」


 メル婆の声は震えていた。


「あの子の名前は、聞こえたか」


 リシアは首を横に振った。


「聞こえませんでした」


 メル婆は目を閉じたまま、長く息を吐く。


「そうか」


 その短い言葉の中に、何十年分もの後悔があった。


 名前を聞かなかったこと。


 呼べなかったこと。


 知らなかったふりをしたこと。


 そのすべてが、今も彼女の中で沈んでいる。


 リシアはレムナ村の名の断章を思い出した。


 名前は、消えない約束ではなく、消えそうな夜に灯す火。


 この橋には、その火になれなかった名前がある。


 夕刻が近づく頃、下流の浅瀬に人間側と魔族側の代表が集まった。


 人間側は、ブレン、ラグス、ダリオ、ギルム、メル婆、そしてリシア。


 魔族側は、ミゼアと数名の大人たちだった。


 リオルは連れてこない約束だった。


 だが、少し離れた岩陰に、小さな角が見え隠れしている。


 完全に隠れているつもりらしい。


 シルがそれに気づき、じっと見つめる。


 リシアも気づいたが、見なかったことにした。


 子どもは時々、大人が決めた境界を知らないふりで越えてくる。


 ただし、危ないことには変わりない。


 ミゼアも気づいているのか、こめかみに青筋を浮かべていた。


 おそらく後で叱るつもりだ。


 浅瀬では、互いに距離を取ったまま向き合った。


 武器は持っている。


 抜いてはいない。


 それだけでも、昨日よりは一歩進んでいるのかもしれない。


 ブレンが先に口を開く。


「旧橋の残響を聞いた」


 ミゼアの目がリシアへ向く。


「歌術師が?」


「少しだけです」


 リシアが答えると、ミゼアは警戒を隠さなかった。


「人間側に都合のいい記憶だけを聞いたのではないか」


 ギルムが怒りかける。


 リシアは先に口を開いた。


「そう思われても仕方ありません。だから、あなたたちの側の話も聞きたいんです」


 ミゼアは黙った。


 隣にいた魔族の男が低く唸る。


「話す義理はない」


「こちらも、話したくてここにいるわけではない」


 ダリオが言い返す。


 空気が一気に硬くなる。


 リシアは間に割って入ろうとして、少しだけ踏みとどまった。


 何でも自分が整えようとしない。


 この場で話すのは、リシアだけではない。


 ブレンが重い声で続ける。


「だが、昨夜はこちらの子どもたちが呼ばれた。そちらも同じことが起きたのではないか」


 ミゼアの表情がわずかに歪む。


 それが答えだった。


「リオルだけではない」


 彼女は低く言った。


「二人、夜中に川へ向かおうとした。名を呼んで止めた」


 ダリオが顔を上げる。


「名を?」


「そうだ。リシアが川越しに言った言葉を、リオルが覚えていた。足は自分のものだと」


 リシアは少し驚いた。


 リオルが伝えたのだ。


 あの場で受け取った言葉を、自分の側へ持ち帰っていた。


 ミゼアは悔しそうに続ける。


「人間の歌術師の言葉など使いたくなかった。だが、子どもを止められるなら使う」


「それでいいと思います」


 リシアが言うと、ミゼアはさらに眉をひそめた。


「腹が立つ返しだな」


「すみません」


「謝られるともっと腹が立つ」


 リシアは困った。


 肩の上でシルが小さく鳴く。


 ちい。


 まるで、こういう時は胡桃を出せと言っているようだった。


「シル、交渉に胡桃を使うのはやめようね」


 ちい。


 シルは残念そうに布袋を抱え直す。


 その様子を岩陰から見ていたリオルが、思わず小さく笑った。


 ミゼアがすぐに振り向く。


「リオル」


 岩陰の角がびくりと動く。


 完全に見つかった。


 対岸ではないので逃げ場もない。


 リオルはそろそろと姿を現した。


 その手には、小さな干し果物が握られている。


 シルの目が輝く。


「シル」


 リシアが低く呼ぶ。


 シルは何もしていない顔をした。


 まだ何もしていない。


 その言い訳だけは本当だった。


 リオルは気まずそうにミゼアを見る。


「ごめんなさい」


「来るなと言った」


「でも、歌の話だから」


 その声は小さい。


 けれど、はっきりしていた。


「僕も聞きたかった」


 ミゼアは叱ろうとして、言葉を飲み込んだ。


 ダリオが硬い顔でリオルを見る。


 サナを呼んだと思っていた子ども。


 けれど昨夜、その子自身も黒譜術に口を奪われていた。


 リオルはダリオの視線に気づき、肩を縮める。


 その心歌が、細く届いた。


『怖い』


『でも、謝らなきゃ』


『呼びたかったわけじゃない』


 リシアは黙っていた。


 それを言うのは、リオル自身だ。


 リオルは干し果物を握りしめたまま、ダリオへ向き直った。


「あの子を、呼びたかったんじゃない」


 声が震えている。


「歌が勝手に出た。止められなかった。ごめんなさい」


 浅瀬に沈黙が落ちた。


 ダリオは何も言わない。


 ミゼアがリオルの肩に手を置く。


 ギルムが不満そうに顔を背けた。


 ブレンは目を閉じている。


 謝罪は、簡単に受け取れるものではない。


 相手が子どもでも、痛みは消えない。


 ダリオは長い沈黙の後で、低く言った。


「サナを怖がらせた」


 リオルの肩が震える。


「うん」


「それは消えない」


「うん」


「でも」


 ダリオは拳を握った。


「お前も、歌わされたんだな」


 リオルは目を見開いた。


 それは許しではない。


 和解でもない。


 けれど、相手をただの敵として見ない一言だった。


 リシアは胸の奥で、何かが小さくほどけるのを感じた。


 ミゼアが静かに息を吐く。


 だが、その穏やかさを壊すように、ギルムが言った。


「子どもが謝ったから何だ。橋の下の黒いものは残っている。昔、同じ歌を歌っていたから何だ。今は敵同士だ」


 誰もすぐには反論できなかった。


 ギルムの言葉もまた、嘘ではない。


 今は敵同士。


 少なくとも、そう信じなければ守れなかった時間がある。


 ミゼアの隣にいた魔族の男も頷く。


「こちらも人間を信じるつもりはない。昔の橋の話で死者が戻るわけではない」


 また空気が硬くなる。


 リシアはそこで、初めて一歩前に出た。


「戻りません」


 全員がリシアを見る。


「死んだ人は戻りません。奪われた時間も、言えなかった名前も、消えた子どもも戻りません」


 言いながら、リシアは自分の胸も痛むのを感じていた。


 アイシャの石碑。


 進軍詩。


 王都の慰霊の丘。


 戻らないものばかりだ。


「だから、同じ歌を知っていたことを、なかったことにしても痛みは消えないんだと思います」


 メル婆が目を伏せる。


 ミゼアの顔に、わずかな揺れが走った。


 リシアは続ける。


「同じ歌だったから許せる、という話ではありません。同じ歌だったのに争ったから、どちらかが悪い、という話でもありません」


 川音が静かに響く。


「ただ、守るための歌を敵の歌だと決めてしまった隙間に、黒譜術が入り込んでいます。痛みを消さなくても、相手を許せなくても、その歌が本当は何を守ろうとしていたのかは、知らなかったふりをしない方がいいと思います」


 それは説得というより、願いに近かった。


 誰かを動かすための言葉ではない。


 リシア自身も、まだ迷いながら置いた言葉だった。


 ギルムは顔をしかめる。


 ダリオは川を見つめている。


 ミゼアはリオルの肩から手を離さない。


 ブレンがようやく言った。


「旧橋の黒譜を調べるには、両側の歌詞が必要か」


「おそらく」


 リシアは頷いた。


「こちら側に残る歌詞と、向こう側に残る歌詞。どちらも欠けているように感じます」


 メル婆が震える声で歌いかける。


「ねむれ、ねむれ。怖い夜が、あなたを見つけませんように」


 ミゼアが目を閉じる。


 しばらくして、低く続けた。


「ねむれ、ねむれ。橋を渡らず、朝を待て」


 歌ではない。


 ただ言葉として口にしただけだった。


 それでも、二つの歌詞が並んだ瞬間、旧橋の方で水音が変わった。


 黒い譜面が反応している。


 シルが毛を逆立てる。


 リシアの歌詞帳が熱を持つ。


 浅瀬の水面に、細い黒線が走った。


 その線は橋の方へ戻るのではなく、こちらへ伸びてくる。


 リオルが小さく叫んだ。


「また来る!」


 黒い糸が水の中から伸び、リオルと、遠く村の方へ向かって走る。


 サナたちがいる方向。


 ダリオが顔色を変える。


「サナ!」


 同時に、旧橋の下から子守唄が響いた。


 今度は、いくつもの声が重なっている。


 人間の母の声。


 魔族の母の声。


 子どもの泣き声。


 そして、その上にかぶさる黒い笑いのような音。


「おいで」


「渡れ」


「見つけてあげる」


 リシアは歌詞帳を開いた。


 ページには、二つの一節が並びかけている。


『同じ歌を、敵の声にしないで』


『呼ぶのではなく、呼び戻す声を』


 しかし、まだ足りない。


 両側の歌詞を知っただけでは、歌にならない。


 誰が、何を選ぶのか。


 その声がまだない。


 ブレンが叫ぶ。


「村へ戻る!」


 ミゼアもリオルを抱き寄せる。


「こちらも子どもを守る!」


 両側が同時に背を向けかけた。


 その瞬間、リオルがシルの胡桃を指さした。


「置いていって!」


 シルが固まる。


 緊急事態である。


 だが、内容は胡桃だ。


 リオルは必死だった。


「サナに、僕が行かないって伝えて。昨日のやつ。置いていけば分かるかもしれない」


 シルは布袋を抱きしめた。


 リシアはシルを見る。


「シル」


 ちい。


「お願いできる?」


 シルはものすごく悩んだ。


 世界の命運を決めるような顔だった。


 そして、ゆっくり布袋から胡桃を一粒取り出す。


 リオルの干し果物と並べて、浅瀬の石に置いた。


 それは子ども同士の約束のようにも見えた。


 まだ言葉にならない、けれど敵意ではない印。


 リシアはその小さな二つを見つめる。


 黒い糸が迫っている。


 夜を待たず、子守唄は動き出した。


 明日の猶予などない。


 リシアは歌詞帳を抱きしめ、走り出す。


 今度こそ、歌わなければならない場面が来る。


 でもそれは、リシア一人の歌では足りない。


 境のこちらと向こう。


 知らなかったふりをしてきた二つの声が、同じ場所で向き合わなければならない。


 川の音が背後で大きくなる。


 旧橋の下で、歪められた子守唄が、子どもたちの名を呼び始めていた。



ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


今回は、境谷に残されていた古い橋と、同じ子守唄を知らなかったふりをしてきた人々の記憶を描きました。


同じ歌を知っていたからといって、簡単に許せるわけではありません。


それでも、なかったことにしてきたものが、黒譜術に利用されていたことが少しずつ見えてきました。


今回も読んでくださり、ありがとうございました。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。