境界の子守唄編 40話 敵の歌だと言われた夜
川辺に現れた魔族の子どもは、リオルという名だった。
リオルの声は黒譜術に歪められ、サナを呼ぶような子守唄へ変えられていた。
けれど、元の歌は「橋を渡るな」と止めるための歌だった。
リシアは、子どもたちの足を奪う黒い糸を見つける。
サナとリオルは、それぞれ自分の意思で「行かない」と言った。
そのことで黒い糸は一度弱まる。
人間側の村長ブレンと、魔族側のミゼアは、翌日の夕刻に旧橋の下流で話をする約束を交わした。
だが、旧橋の下にはまだ黒い譜面が残っている。
その日の夜、境谷の村から灯りが消えることはなかった。
いつもなら家ごとに窓を閉ざし、炉の火を小さくして、谷の風に怯えながら夜を越すのだという。
けれど今夜は違っていた。
広場には松明が立てられ、川へ続く道には見張りが置かれている。
子どもたちは家の奥へ集められ、大人たちは交代で戸口に立った。
眠るための夜ではない。
何かが来るのを待つための夜だった。
リシアは村長ブレンの家の一室で、サナとユナ、そして数人の子どもたちと向き合っていた。
子どもたちは毛布に包まっている。
誰も眠れていない。
大人たちが「眠れ」と言えば言うほど、かえって目が冴えてしまうらしい。
サナも布人形を抱えたまま、膝を小さく抱いていた。
シルはその近くで、サナにもらった布袋を抱えている。
中には胡桃が入っている。
この緊迫した空気の中でも、シルは時折、布袋の中身を確認していた。
リシアはそれを見て、小声で言う。
「シル、見張ってるのは胡桃じゃなくて、子守唄の方だからね」
ちい。
シルは分かっている、と言いたげに鳴く。
しかし、前足はしっかり布袋を押さえている。
「半分くらいしか信じられない」
リシアがそう呟くと、サナがほんの少しだけ笑った。
小さな笑みだった。
すぐに消えてしまったけれど、部屋の空気が少しだけ柔らかくなる。
ユナもその笑みを見て、ほっとしたようにサナの肩を撫でた。
「眠れそう?」
サナは首を横に振る。
「こわい」
その声は、とても正直だった。
リシアは「大丈夫」とは言わなかった。
大丈夫だと決めてしまうには、この村の夜はまだ何も分かっていない。
「怖いままでいいよ」
リシアは静かに答えた。
「怖いって分かっているなら、誰かに呼ばれても、自分がどう感じているかを忘れにくいから」
サナは人形の頭を撫でた。
「お母さんの声でも?」
「うん。お母さんの声に似ていても、嫌だと思ったら止まっていい」
サナは小さく頷く。
その胸の奥から、細い心歌が聞こえた。
『お母さんを疑いたくない』
『でも、もう川へ行きたくない』
『お父さんに怒ってほしくない』
リシアは、その声を言葉にしなかった。
聞こえても、すぐに差し出してはいけない。
サナの内側にあるものは、サナが選んで出すべきものだ。
リシアは部屋の窓へ視線を向ける。
外では、谷風が家の壁を撫でていた。
遠くで水の音がする。
川だ。
旧橋の下で黒い譜面が揺れている光景が、目を閉じても浮かんでくる。
あの黒譜術は、子守唄を完全に作り替えているわけではない。
元の願いを残したまま、その向きをねじ曲げている。
だから厄介だった。
守るための歌だからこそ、人は油断する。
懐かしい声だからこそ、足が動く。
リシアは胸元の歌詞帳に触れる。
表紙の奥が、微かに熱を持っていた。
歌いたい。
けれど、今はまだ歌えない。
この村では、歌術師の声は信頼されていない。
少しでも間違えれば、リシアの歌もまた「敵の歌」と呼ばれる。
その時、外から荒い足音が聞こえた。
扉が開き、ラグスが顔を出す。
「リシア。ブレンが呼んでいる」
「何かありましたか」
「村人が集まっている。川へ行く前に話をしたいらしい」
ラグスの表情は硬い。
あまり良い話ではなさそうだった。
リシアは立ち上がる。
シルも布袋を抱えたまま肩へ駆け上がった。
「シル、それ持っていくの?」
ちい。
「非常食?」
ちい。
「……まあ、今夜は許す」
シルは胸を張った。
なぜか戦場へ向かう騎士のような顔をしている。
布袋の中身は胡桃なのだが。
リシアは苦笑し、サナへ目を向ける。
「少し行ってくるね」
「歌うの?」
サナが不安そうに尋ねる。
「まだ歌わない。まず、話を聞いてくる」
サナは頷いた。
けれど、その手は人形を強く握っている。
リシアは部屋を出た。
広場には、予想以上の人が集まっていた。
松明の明かりに照らされた顔は、どれも緊張している。
ブレン、ダリオ、メル婆、弓を持った男たち、子どもを抱いた母親、腰の曲がった老人。
昼間、窓の奥からリシアを見ていた目が、今は広場に出ている。
ブレンが重い声で言った。
「村の者たちが、歌術師の説明を聞きたいと言っている」
説明。
その言葉に、リシアは少しだけ身構える。
たいていの場合、説明を求められる時には、すでに答えが決まっている。
その予感は、すぐに当たった。
弓を持った男が一歩前へ出る。
名はまだ聞いていない。
年は四十前後。右腕に古い傷跡があり、指先がかすかに震えている。
「昼間、あんたは魔族の子どもを庇った」
「庇ったつもりはありません。撃つ前に確かめたかっただけです」
「同じことだ」
男の声が強くなる。
「あの歌は魔族の歌だ。うちの子を呼び、川へ連れていく。あいつらは子どもを使って村を崩そうとしている」
「歌の元の願いは、呼ぶものではありませんでした」
「元が何だろうと、今は敵の歌だ」
その言葉に、周りの村人たちが小さく頷く。
敵の歌。
分かりやすい言葉だった。
恐怖に名前をつける時、人は単純な言葉を選びたくなる。
敵。
呪い。
魔族。
それで区切れば、自分たちの痛みがどこから来たのか考えずに済む。
けれど、その区切りは人を守る壁にもなる。
リシアは、その壁を無理に壊したくなかった。
壊せば、むき出しの痛みが流れ出す。
誰もそれに耐えられないかもしれない。
「あなたのお名前を聞いてもいいですか」
リシアが尋ねると、男は眉をひそめた。
「名前?」
「はい」
「……ギルムだ」
「ギルムさん」
リシアはその名を繰り返した。
「あなたが怖いのは、魔族ですか。それとも、子どもたちが連れていかれることですか」
ギルムの顔が強張る。
「どちらも同じだ」
「同じではありません」
「何が違う」
「魔族を憎むことと、子どもを守りたいことは、同じ場所から出ているかもしれません。でも、同じものにしてしまうと、守るために何をすればいいのか見えなくなります」
広場の空気がざらついた。
言葉は届いていない。
正しいことを言ったつもりでも、今の村人たちには責められたように聞こえている。
ギルムの心歌が、低く刺さるように聞こえた。
『きれいなことを言うな』
『矢を放つのは俺たちだ』
『失うのも俺たちだ』
リシアは口を閉じた。
踏み込み方を間違えた。
まただ。
サナの時よりは慎重にしたつもりだった。
けれど、痛みに触れる速さがまだ早い。
ダリオが腕を組んだまま言う。
「歌術師は、いつもそうだ。言葉が優しい。だから腹が立つ」
リシアはダリオを見る。
「優しいだけのつもりはありません」
「なら、俺たちに何をしろと言う。魔族の話を聞け? 子どもの声に耳を澄ませろ? 妻を殺された者の前で、向こうにも痛みがあると言うのか」
言えるはずがなかった。
向こうにも痛みがある。
それは事実かもしれない。
けれど、今ここでその言葉を置けば、ダリオの痛みを軽く扱うことになる。
リシアは首を横に振る。
「今は言いません」
ダリオの目が細くなる。
「今は?」
「あなたが聞けない時に言っても、届かないからです」
沈黙が落ちる。
リシアは続けた。
「でも、サナちゃんを守るために必要なら、聞かなければならないことがあります。魔族を許すためではありません。あなたの娘を、次の夜にも川へ行かせないためです」
ダリオの喉が動いた。
サナの名が出たことで、怒りの形が少し変わる。
ギルムはまだ納得していない。
だが、周囲の村人たちの中には視線を落とす者もいた。
ブレンが低く息を吐く。
「明日の夕刻、下流の浅瀬で向こう側と話す。これは変えない」
「村長」
ギルムが声を上げる。
「行くのは、私とラグス、ダリオ、それからリシアだ。武器は持つが、抜かない。先に矢を放つことも許さない」
「向こうが先に撃ったら?」
「その時は守る」
ブレンの声は硬い。
「だが、こちらから始めるな」
ギルムは悔しそうに口を閉じた。
その時だった。
谷の奥から、ひどく細い旋律が流れてきた。
誰もが息を止める。
子守唄。
夜の川から、声が上がる。
「ねむれ、ねむれ」
サナの声ではない。
リオルの声でもない。
もっと低い。
大人の女の声に似ている。
けれど、音の底に黒いものが混ざっている。
松明の火が一斉に揺れた。
子どもたちを集めた家の方から、泣き声が上がる。
ユナの声も聞こえた。
「サナ!」
ダリオが走り出す。
リシアも後を追った。
家の中では、子どもたちが毛布の上で身を丸めている。
サナはユナに抱きしめられ、必死に目を閉じていた。
しかし、その足元に黒い糸が伸びている。
一本だけではない。
他の子どもたちの足元にも、細い影が絡み始めていた。
昼間より数が多い。
黒譜術が強まっている。
リシアは瞬時に判断した。
このままでは、全員を言葉だけで止めきれない。
「ラグスさん、戸口を塞いでください。子どもたちを一箇所に集めないで。糸が絡みやすくなっています」
「分かった」
ラグスがすぐ動く。
ダリオはサナを抱え、壁際へ下がらせる。
ユナが他の子を抱き寄せようとしたが、リシアは止めた。
「無理に動かさないで。足元を見て」
黒い糸は、川の方角から床板の隙間を通って伸びている。
歌が強まるたび、糸も太くなる。
子守唄が響く。
「こわい夜が、あなたを見つけませんように」
一瞬、歌詞が元の形に戻った。
優しい願いだった。
だが、すぐに歪む。
「こわい夜へ、おいで」
子どもたちの体が揺れる。
大人たちが悲鳴を上げる。
リシアは唇を噛んだ。
歌うしかない。
ただし、子守唄を消す歌ではない。
押さえつける歌でもない。
子どもたちが自分の足を思い出すための、ごく短い守護詩。
リシアは息を吸った。
「自分の足は、自分のもの」
小さく歌い始める。
声に魔力を乗せすぎない。
命じるのではなく、足元へ灯を置くように。
「呼ぶ声がしても、夜が揺れても」
その瞬間、ギルムが叫んだ。
「歌うな!」
彼は部屋の入口に立っていた。
顔が青ざめている。
「その歌も同じだ。歌で子どもを動かすな!」
リシアの歌が揺らいだ。
拒絶。
強い拒絶だった。
ギルムだけではない。
何人もの大人たちが同じ目でリシアを見ている。
歌が怖い。
魔族の歌も、歌術師の歌も、今は同じに聞こえる。
その拒絶が壁になり、リシアの声は子どもたちへ届く前に薄れていく。
胸に痛みが返ってきた。
共鳴詩が拒まれた時に似た痛み。
喉の奥が熱くなり、息が詰まる。
シルがリシアの肩で鳴いた。
ちいっ。
やめろ、と言っている。
今は無理に押し通すな。
リシアには、そう聞こえた。
歌えば届く。
そんな思い込みが、また危うく顔を出していた。
リシアは歌を止めた。
ギルムの目が見開かれる。
止めたことが、意外だったのかもしれない。
リシアは喉を押さえ、息を整えた。
「歌いません」
声が少しかすれていた。
「でも、子どもたちを止める必要があります。大人の声で、名前を呼んでください」
「名前?」
ユナが震える声で聞く。
「はい。歌ではなく、名前で。あなたたちの声で、ここにいると伝えてください」
リシアはサナを見た。
「サナちゃんには、ダリオさんが」
ダリオは一瞬だけ迷った。
だが、サナの足元の黒い糸が太くなるのを見て、娘の肩を抱く。
「サナ」
その声は震えていた。
「サナ、ここにいろ」
サナの唇が動く。
「お父さん」
「行くな。俺のそばにいろ」
強い言葉だった。
けれど、命令ではない。
必死に引き止める父の声だった。
サナの足元の糸が少し細くなる。
リシアは頷く。
「もう一度」
「サナ」
ダリオが呼ぶ。
「サナ、聞こえるか」
「聞こえる」
サナが涙声で答える。
そのやり取りを見て、ユナも他の子の名を呼び始めた。
「ニル、こっちよ」
「マーヤ、目を開けなくていい。ここにいるわ」
「ルッツ、手を握って」
部屋のあちこちで、名前が呼ばれる。
歌ではない。
整った旋律もない。
声は震え、泣き、時に裏返る。
けれど、それはその子を知る人の声だった。
黒い糸が次々と弱まっていく。
リシアはその様子を見ながら、胸の痛みを押さえた。
自分が歌わなくても、届く声がある。
むしろ今夜は、その方が届く。
分かっていたはずなのに、リシアは一瞬、歌で支えようとした。
それは間違いではなかったかもしれない。
けれど、この村には早すぎた。
シルがリシアの頬に前足を当てた。
小さく、温かい。
「ありがとう。止めてくれて」
ちい。
シルは得意げに胸を張った。
その布袋から胡桃が一つ落ち、床を転がる。
ころころと転がった胡桃は、泣いていた子どもの足元で止まった。
子どもは涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、それを見つめる。
「……リスの?」
シルは一瞬固まった。
明らかに、大切な胡桃を失うかどうかの瀬戸際にいる顔だった。
しかし、子どもが泣き止みかけているのを見ると、シルは尻尾を揺らし、そっと目を逸らした。
くれるらしい。
リシアは小さく笑ってしまった。
「偉いね」
ちい。
シルは泣きそうな顔で鳴いた。
偉いが、つらい。
そんな鳴き声だった。
やがて、子守唄は遠ざかっていった。
完全に消えたわけではない。
川の方で、まだ細く揺れている。
だが、子どもたちの足元から黒い糸は消えていた。
部屋に残ったのは、泣き疲れた息と、名前を呼び続けた大人たちのかすれた声だった。
ギルムは戸口に立ったまま、リシアを見ていた。
「なぜ、歌うのをやめた」
問いは責めるものではなかった。
リシアは答える。
「今夜は、私の歌より、みなさんの声の方が届くと思ったからです」
「歌術師なのにか」
「歌術師だからです」
ギルムは何も言わなかった。
代わりに、視線を子どもたちへ向ける。
自分たちの声で止めた。
その事実が、彼の中で何かを変えたのかどうかは分からない。
ただ、先ほどまでの敵意は少しだけ形を失っていた。
ブレンが家の外から戻ってきた。
顔には疲労が浮かんでいる。
「川の方は?」
ラグスが尋ねる。
「橋の下の黒譜が強くなっている。向こう側でも灯りが動いていた。おそらく、魔族側でも同じことが起きている」
リシアは窓の外を見る。
谷の向こう。
そこにも今、誰かが子どもの名を呼んでいるのだろうか。
ミゼアはリオルを抱きしめているだろうか。
その想像を、今ここで口にすることはしなかった。
まだ早い。
でも、明日聞かなければならない。
ブレンが低く言う。
「明日の話し合いは、避けられないな」
ダリオはサナを抱いたまま黙っている。
反対はしなかった。
ギルムも、もう声を荒らげなかった。
夜はまだ深い。
子守唄は、いつまた戻るか分からない。
それでも村人たちは、先ほどとは違う目で互いを見ていた。
歌を恐れるだけでは、子どもを守れない。
魔族を憎むだけでも、黒譜術は止まらない。
そして、リシアの歌だけでも届かない。
そのことを、この夜は突きつけてきた。
リシアは部屋の隅で、歌詞帳を開いた。
ページには、まだ淡い文字だけが浮かんでいる。
『同じ歌を、敵の声にしないで』
その下に、新しい一節が滲むように現れた。
『呼ぶのではなく、呼び戻す声を』
リシアはその文字を見つめる。
今夜、子どもたちを呼び戻したのは、歌ではない。
名前だった。
震える声だった。
必死でそばにいると告げる、大人たちの声だった。
リシアは静かに歌詞帳を閉じる。
明日の夕刻、旧橋の下流で人間と魔族が向き合う。
そこでは、きっとまた互いの傷がぶつかる。
自分の歌が歓迎されるとは思えない。
むしろ、また拒まれるかもしれない。
それでも、聞かなければならない。
橋の下にある黒い譜面が、どちらの痛みを利用しているのか。
そして、あの子守唄が本当は誰を守ろうとしていたのか。
外では川の音が続いている。
その奥で、消えかけた子守唄が、まだ泣いていた。
今回は、子守唄が村全体へ広がり、リシアの歌が一度拒まれる回でした。
歌術師であるリシアだからこそ歌おうとしましたが、この村ではまだ、その歌を受け取れる状態ではありませんでした。
その代わり、子どもたちを呼び戻したのは、親や家族が名前を呼ぶ声でした。
リシアがすべてを解決するのではなく、その場にいる人たちの声が状況を動かす。
境谷の物語にとって、大切な一歩になっています。
今回も読んでくださり、ありがとうございました。




