境界の子守唄編 39話 谷の向こうの子守唄
境谷の村に入ったリシアは、夜中に子守唄を聞いて川辺へ出てしまった少女サナと出会った。
サナは、亡くなった母の声に呼ばれた気がしたという。
リシアは心歌を聞いてしまったことで、一度サナの内側へ踏み込みすぎ、ダリオたちの不信を強めてしまう。
それでも、サナの許可を得て黒い鈴に触れると、子守唄の本来の願いが「呼ぶこと」ではなく、「渡らないで」「見つからないように」と守るためのものだと感じ取った。
川辺では、対岸に角のある魔族の子どもが現れる。
その子が歌った子守唄は、最初は「橋を渡るな」と告げていた。
しかし黒い波紋が川面に走った瞬間、声は歪み、「おいで」と変わってしまう。
川辺の空気が、音もなく張りつめていく。
境谷を流れる川は、幅こそ広くない。
大人が本気で渡ろうと思えば、浅瀬を探して越えられない距離ではなかった。
けれど、その水の向こう側は別の土地だった。
人間領と魔族領。
地図の上では線一本で分けられるものが、この谷では水音と石の匂いと、人々の息の詰まり方で分けられている。
対岸に立つ子どもは、小さかった。
年はサナと大きく変わらないように見える。
薄い灰色の髪。
額から少し後ろへ伸びた短い角。
肩にかけた布はほつれていて、片方の靴紐はほどけたままだった。
魔族。
その一言で、村人たちの顔つきが変わる。
誰かが息を呑む。
誰かが後ずさる。
そして誰かが、弓へ手を伸ばした。
「待ってください」
リシアは前に出た。
大きな声ではない。
けれど、川辺にいた人々の視線が一斉に彼女へ向く。
ラグスが素早くリシアの横へ来た。
「勝手に前に出るな」
「撃たせないでください」
「まだ撃っていない」
「撃つ空気になっています」
ラグスは答えなかった。
否定できなかったのだろう。
弓を持った男の指は、弦にかかっている。
その手は震えていた。
怒りだけではない。
恐怖もある。
リシアの胸の奥へ、川辺に集まった人々の心歌が重なって届く。
『また奪われる』
『あの子が呼んだ』
『あれは罠だ』
『でも、子どもだ』
『子どものふりかもしれない』
声が多い。
混ざりすぎている。
その全部を聞き取ろうとすれば、自分の感情まで巻き込まれる。
リシアは一度、深く息を吸った。
まだ歌わない。
いま歌えば、この人たちには「魔族をかばう歌」に聞こえてしまう。
それでは届かない。
届かないどころか、反発だけを大きくする。
対岸の子どもは、自分の口を両手で押さえたまま、こちらを見ていた。
先ほどの「おいで」という言葉は、その子自身の意思ではなかった。
少なくとも、リシアにはそう見える。
だが、それを今すぐ村人へ言っても信じてもらえない。
証拠がない。
しかもリシアは、ついさっきサナの心歌を勝手に言葉にしてしまったばかりだ。
自分の言葉の重みが、今はまだ軽い。
「リシア」
ダリオの声が背後から飛んだ。
「どけ」
短い言葉。
けれど、その下にある痛みは短くない。
リシアは振り返らないまま答える。
「どきません」
「そいつがサナを呼んだんだ」
「まだ分かりません」
「またそれか」
ダリオの声が低くなる。
「分からない、分からない。お前はそう言っている間に、誰かが連れていかれたらどうする」
返す言葉は、すぐには見つからなかった。
それは正しい問いだった。
慎重でいることと、何もしないことは違う。
聞くことを理由に、動くべき時まで逃してはいけない。
リシアは胸元の歌詞帳へ手を当てる。
ページは震えている。
川の向こうから、細い心歌が届いた。
『言ってない』
『呼んでない』
『橋、こわい』
『妹が、また泣く』
リシアはゆっくり対岸の子どもを見る。
妹。
サナを呼んだのではない。
あの子にも、守りたい誰かがいる。
そう感じた瞬間、リシアの足元でシルが小さく鳴いた。
いつの間にか肩から降りていたらしい。
銀色の相棒は、サナからもらった布袋を胸に抱えている。
中には胡桃が入っていた。
「シル、今は」
リシアが言いかけた時、シルは布袋から胡桃を一つ取り出した。
そして、川辺の石の上へ置く。
ころん。
胡桃は傾いた石の上を転がり、川へ落ちる寸前で止まった。
シルはそれを前足で押さえる。
じっと対岸の子どもを見る。
まるで、これは自分の大事なものだと示すように。
対岸の子どもは、ぽかんとした顔をした。
村人たちも一瞬だけ動きを止める。
リシアは小声で言った。
「シル、まさか交渉してるの?」
ちい。
シルは真剣な顔で鳴いた。
この場面で胡桃交渉。
普段なら頭を抱えたいところだったが、今だけはその妙な真剣さが空気を少しだけずらしていた。
対岸の子どもが、おそるおそる自分の肩掛け袋を探る。
そこから出てきたのは、小さな干し果物だった。
石の上へ置く。
距離があるので届くはずはない。
それでも、子どもは置いた。
シルが目を輝かせる。
「シル」
リシアは低く呼んだ。
「今、交換はできないよ」
ちい。
シルは分かっている、と言いたげに鳴く。
たぶん半分くらいは分かっていない。
けれど、結果として、弓を構えていた男の手がわずかに緩んだ。
子ども同士ではない。
片方はリスである。
それでも、川の両岸に置かれた胡桃と干し果物は、敵味方という言葉をほんの少しだけ鈍らせた。
その時、対岸の奥から声がした。
「リオル!」
鋭い女の声だった。
魔族の子どもがびくりと肩を震わせる。
岩陰から、一人の女が現れた。
年齢は人間の見た目では三十代ほどに見える。
灰紫の髪を後ろで束ね、額には子どもより長い角がある。手には弓ではなく、短い杖を持っていた。
女は子どもを自分の後ろへ引き寄せる。
その目が、こちら側の村人たちを鋭く睨んだ。
川辺にざわめきが広がる。
「魔族の大人だ」
「やっぱり罠だ」
「子どもを餌にしたんだ」
ラグスが槍を構える。
ダリオも一歩前へ出た。
リシアは両手を広げる。
「待ってください」
「待てるか」
ダリオが言う。
「大人まで出てきた。サナを呼んだのはあいつらだ」
対岸の女も、リシアたちを睨んだまま声を張る。
「その子に近づくな、人間!」
言葉は通じている。
だからこそ、争いも深くなる。
リシアの胸に、対岸の女の心歌が触れた。
『撃たないで』
『この子を見ないで』
『また奪うつもりなら、先に私を撃て』
リシアは息を呑む。
同じだ。
ダリオの心歌と、形がよく似ている。
奪われたくない。
守りたい。
それだけなのに、川を挟むと相手の恐怖は敵意に見える。
リシアは声を上げた。
「その子の名前は、リオルですか」
対岸の女の目が細くなる。
「なぜ知っている」
「あなたが呼びました」
リシアは正直に答えた。
女は警戒を解かない。
「あなたは?」
「リシア・フェルミナ。旅の歌魔術師です」
その言葉に、女の顔つきが変わった。
村人たちの反応とは違う。
拒絶だけではない。
驚きと、痛みと、どこか遠い記憶を揺らされたような表情だった。
「歌術師……」
女の声がかすれる。
リシアは聞こえてしまった心歌を、すぐには言葉にしない。
ただ、その奥にあるものは確かに届いた。
『まだ歌う者がいるの』
『あの歌を、まだ人間は覚えているの』
この女も知っている。
子守唄を。
リシアの指先が震えた。
「あなたも、あの子守唄を知っているんですね」
言った瞬間、女は杖を握り直した。
「知っていたら何だ」
「責めたいわけではありません」
「人間はいつもそう言う。責めないと言いながら、忘れることを許さない」
リシアは言葉を失いかける。
その言い方には、過去がある。
魔族側にも、歌にまつわる傷がある。
ダリオが怒鳴った。
「責められるようなことをしたからだろう。俺の妻はお前たちとの争いで死んだ」
対岸の女の目に怒りが灯る。
「私の妹も人間の矢で死んだ」
川が二人の間で光る。
同じ痛みが、相手を許さない理由になる。
誰かが一歩でも踏み出せば、矢が飛ぶ。
リシアは歌わないまま、必死で声を探した。
慰めでは届かない。
正しさでも届かない。
なら、今言うべきことは何か。
その時、サナの声がした。
「リオル」
小さな声だった。
けれど、川辺に集まった人々にはっきり聞こえた。
ダリオが振り返る。
「サナ、下がっていろ」
サナはユナに支えられながら、川辺へ来ていた。
顔は青い。
でも、目は対岸の子どもを見ている。
「昨日、いた子」
リオルと呼ばれた魔族の子どもが、女の後ろから少しだけ顔を出した。
彼は何か言いかける。
けれど、その口から出たのは子守唄だった。
「ねむれ、ねむれ」
細い声。
サナが震える。
ダリオがサナを庇うように前へ出る。
リシアはリオルの口元を見つめた。
やはり違う。
歌っている。
でも、本人の意思で歌っているようには見えない。
喉の奥に黒い譜面が絡みつき、声だけを引き出している。
リオルの心歌が悲鳴のように届いた。
『止まらない』
『歌いたくない』
『違う、違う』
リシアは胸が締めつけられる。
歌が、人を助けるものではなく、口を奪うものになっている。
ノエルの言葉が、ふと頭をよぎった。
歌は命令より残酷。
本人に選んだと思わせるから。
今ここにある黒譜術は、それよりもっと露骨だ。
歌そのものを、本人の口から奪っている。
「リオル、口を閉じろ!」
対岸の女が叫ぶ。
しかし、リオルの声は止まらない。
「おいで、おいで」
川面に黒い波紋が広がる。
サナの体がふらりと揺れた。
ユナが慌てて抱きしめる。
「サナ!」
サナの目がぼんやりする。
リシアは駆け寄りかけて、足を止めた。
ここで大きな歌を歌えば、村人の恐怖を増やす。
でも、何もしなければサナが引かれる。
選ぶ時間はほとんどなかった。
「ラグスさん、サナちゃんの足元を見てください」
「足元?」
「影です」
ラグスがすぐに動いた。
サナの靴の近く、薄い黒い線が川の方へ伸びている。
まるで濡れた糸が地面を這っているようだった。
ラグスは槍の柄でその糸を押さえる。
じゅっと嫌な音がした。
サナの体がびくりと震え、目の焦点が戻る。
「お父さん……?」
ダリオがサナを抱きしめる。
「サナ!」
リシアはほっとする間もなく、対岸を見た。
リオルの足元にも同じ黒い糸が絡んでいる。
女がそれを杖で払おうとしているが、糸は水面から何度も伸びてくる。
人間側と魔族側。
どちらかが一方的に呼んでいるのではない。
川そのものに仕掛けられている。
いや、川ではない。
橋だ。
リシアは視線を上げる。
少し下流に、古い石橋があった。
今は鎖で閉ざされ、誰も渡らない橋。
その橋脚の下、苔に隠れるように黒い譜面が貼りついている。
薄く、古く、しかし今も生きている。
「橋の下です」
リシアが言う。
ブレンが顔色を変えた。
「旧橋か」
「黒譜術の核があるかもしれません」
「近づくな!」
村人の一人が叫ぶ。
「あの橋は封じている。誰も渡らない。触れば災いが戻る」
対岸の女も声を上げた。
「その橋に近づくな。昔、あそこで子どもが消えた」
同じ橋。
同じ恐怖。
リシアは確信に近いものを感じた。
両側とも、橋を恐れている。
子守唄は「橋を渡るな」と歌っていた。
ならば、あの歌は境界を越えさせるためではない。
越えてはいけない場所から、子どもたちを遠ざけるための歌だったのかもしれない。
だが今は、黒譜術によって逆に使われている。
守る歌を、呼ぶ歌へ。
止める声を、誘う声へ。
リシアは喉の奥に熱が集まるのを感じた。
歌いたい。
糸を断ちたい。
けれど、まだその時ではない。
歌うなら、何のために歌うのかを間違えてはいけない。
敵を説得するためではない。
村人を黙らせるためでもない。
魔族側を許せと言うためでもない。
今必要なのは、子どもたちの足を守ること。
勝手に連れていかれないようにすること。
リシアはサナの前に膝をついた。
「サナちゃん、私の声を聞いて」
ダリオが警戒する。
「歌うのか」
「歌いません。言葉だけです」
リシアはサナの目を見る。
心歌を探りすぎない。
本人の声を待つ。
「昨日の歌は、お母さんの声に似ていたんだよね」
サナは涙をこらえながら頷く。
「でも、さっきの声は?」
「……こわかった」
「うん」
リシアは頷いた。
「怖いと思えたなら、今のサナちゃんの声はちゃんとここにある」
サナの目が揺れる。
「誰かに呼ばれても、怖いと思っていい。行きたくないと思っていい。お母さんの声に似ていても、サナちゃんが嫌だと思ったら、立ち止まっていい」
それは歌ではない。
魔力も乗せていない。
ただの言葉。
けれど、サナはダリオの服を掴んだ。
「行かない」
小さく、でも確かに言う。
「わたし、行かない」
黒い糸がサナの足元から一度退いた。
完全に消えたわけではない。
しかし、弱まった。
対岸では、リオルがまだ苦しそうに口を押さえている。
リシアは川越しに声を張った。
「リオル!」
魔族の子が顔を上げる。
「あなたも、行きたくないなら行かなくていい!」
対岸の女がリシアを見る。
リオルの目が大きくなる。
リシアは続ける。
「歌が呼んでも、足はあなたのものです。声が勝手に出ても、あなたの気持ちまで渡さなくていい」
リオルの唇が震えた。
その喉から、また歪んだ声が出かける。
「おい……」
リオルは両手で口を押さえ、首を横に振った。
そして、必死に別の言葉を絞り出す。
「行かない!」
黒い糸が川面で弾けた。
水が小さく跳ねる。
村人たちは息を呑み、魔族の女もリオルを抱きしめる。
子どもたちは、自分で止まった。
リシアが答えを決めたのではない。
ただ、選べると言葉を置いた。
それでも十分ではない。
橋脚の黒譜はまだ残っている。
川の底で、次の夜を待っている。
ブレンが険しい顔で橋を見た。
「あれをどうする」
「すぐ壊すのは危険です」
リシアは答えた。
「元の子守唄の残響ごと壊してしまうかもしれません」
「では放っておくのか」
「いいえ。調べます。でも、こちら側だけでは分からないと思います」
リシアは対岸の女を見た。
女もまた、警戒を解かないままこちらを見ている。
「あなたの名前を聞いてもいいですか」
しばらく沈黙があった。
川音が間を埋める。
やがて女は答えた。
「ミゼア」
「ミゼアさん。あなたたちの側にも、この橋にまつわる話があるんですね」
「ある」
短い返答。
「でも、人間に話す義理はない」
「そうですね」
リシアは頷いた。
「こちら側も、あなたたちへ簡単には話せないと思います」
ミゼアの眉がわずかに動く。
リシアは続ける。
「それでも、子どもたちがまた呼ばれるなら、両側の話が必要です。歌は、片側だけで歪んでいるわけではない気がします」
ダリオが苦々しく言う。
「魔族と話し合えと言うのか」
「今すぐ信じ合えとは言いません」
リシアは振り返った。
「でも、サナちゃんを守るために必要なら、聞くべきことは聞きたいです」
ダリオは何も言わない。
娘を抱きしめる腕に力が入る。
その沈黙は、拒絶だけではなかった。
少なくとも、リシアにはそう聞こえた。
ミゼアもリオルの肩を抱いたまま、川面を見る。
「明日の夕刻」
彼女は低く言った。
「旧橋の下流に、浅瀬がある。互いに武器を構えたままなら、話にならない。子どもは連れてこない」
ラグスがすぐにブレンを見る。
ブレンは厳しい顔で黙っていた。
村人たちがざわめく。
魔族と会う。
それだけで、村の中に長く眠っていた恐怖が起き上がる。
ブレンはしばらくして、重く頷いた。
「こちらも、大人だけで行く」
「ブレン!」
ダリオが声を上げる。
「サナを守るためだ」
ブレンの声は低い。
「戦うためではない。聞くために行く」
その言葉を聞いて、リシアは胸の奥に小さな灯がともるのを感じた。
まだ信頼ではない。
和解でもない。
ただ、相手の話を聞くために一歩分だけ踏みとどまる。
今は、それでいい。
対岸のミゼアはリオルを連れ、岩陰へ下がっていく。
リオルは一度だけ振り返った。
その視線は、サナではなく、川辺の石に置かれた胡桃へ向いていた。
シルがはっとする。
「シル」
リシアが呼ぶより早く、シルは胡桃を抱えた。
絶対に渡さないという顔である。
緊張がほどけきらない中、サナが小さく笑った。
「シル、けち」
ちいっ。
シルが抗議する。
しかし、その直後に少し考え、布袋から小さな欠片を一つ出した。
川には届かない。
それでも、石の上に置いた。
リオルも向こう側で、干し果物を一欠片だけ置いた。
交換にはならない。
でも、置いた。
それは、まだ言葉にならない何かだった。
川辺の人々は、誰もそれを止めなかった。
夕方の風が谷を通り抜ける。
旧橋の下、黒い譜面が水に濡れながら、かすかに震えていた。
リシアの歌詞帳が、胸元で淡く熱を持つ。
開かなくても、浮かびかけた一節が分かった。
《同じ歌を、敵の声にしないで》
まだ断章ではない。
まだ歌にもなっていない。
けれど、その一節は確かに、リシアの中へ残った。
夜になれば、また子守唄が聞こえるかもしれない。
今度は誰の声で響くのか。
誰の願いが歪められるのか。
それはまだ分からない。
リシアは川の向こうを見つめた。
耳を澄ませることは、時に歌うことより難しい。
それでも今は、聞くしかない。
谷のこちら側にも、向こう側にも、まだ声になっていない痛みがあるのだから。
今回は、川の向こう側にいる魔族の子どもリオルと、その保護者であるミゼアが登場しました。
人間側にも、魔族側にも、守りたい子どもがいる。
けれど、それだけで簡単に分かり合えるわけではありません。
リシアはまだ歌わず、まず子どもたちが自分で「行かない」と選べるように言葉を置きました。
この選択が、次の話へ繋がっていきます。
今回も読んでくださり、ありがとうございました。




