境界の子守唄編 38話 母の声を聞いた子
王都を離れたリシアとシルは、境谷へ向かう途中で荷運びのマウロと出会った。
境谷では夜になると子守唄が聞こえ、その歌を聞いた子どもが家を抜け出したという。
歌は魔族側から聞こえるとも、人間の古い歌だとも言われていた。
谷の入口で見張りのラグスに止められたリシアは、歌術師が歓迎されていないことを知る。
それでも、歌うためではなく聞くために来たと告げると、ラグスは村長へ話を通すことにした。
その時、村の奥から昼間にもかかわらず、細い子守唄が聞こえた。
境谷の村は、音の少ない場所だった。
人の暮らしはある。
川の水は石の間を流れ、軒先では洗濯物が風に揺れている。家々の煙突からは細い煙が上がり、どこかで煮込み料理の匂いもしていた。
けれど、そのどれもが遠慮しているように小さい。
薪を割る音は一度鳴るたびに止まり、子どもの声は出かけてすぐに誰かの手で押さえられる。扉の隙間からこちらを見ていた目も、リシアと視線が合うとすぐ奥へ引っ込んだ。
歓迎されていない。
それは、ラグスの言葉を聞いた時から分かっていた。
けれど、村に足を踏み入れてみると、その拒絶は思っていたよりも静かで、長く染みついたものだった。
怒鳴られる方が、まだ分かりやすい。
ここにあるのは、怒りより先に身構える空気だ。
リシアは肩の上のシルをそっと撫でた。
シルは胡桃を抱えたまま、珍しくかじろうとしない。小さな鼻がひくひく動き、村の奥から流れてくる何かを探っている。
「勝手に歌うな」
前を歩くラグスが、振り返らずに言った。
「分かっています」
「子どもに触れるな」
「はい」
「話を聞く時も、親の許可を取れ」
「はい」
「そのリスが走り出したら止めろ」
「それは、全力で」
リシアがすぐに答えると、ラグスは一瞬だけ肩越しにシルを見た。
シルは胡桃を抱えて、きょとんとしている。
まるで自分は何も問題を起こさない賢い相棒だと言いたげな顔だった。
リシアは小さく息を吐く。
「……信用はこれから取り戻そうね」
ちい。
シルは小さく鳴いた。
反省しているのか、胡桃を守るために余計な動きを控えているだけなのかは分からない。
村の中央には、小さな広場があった。
井戸と古い石碑があり、その周りを囲むように家々が建っている。石碑には文字が刻まれていたが、長い年月で角が削れ、読むには近づかなければならなかった。
しかし、リシアが石碑に目を向けた途端、近くの家の窓がぴしゃりと閉まる。
見ないでほしい。
聞かないでほしい。
そう言われた気がして、リシアは足を止めなかった。
ラグスは広場の奥にある大きめの家へ向かう。扉には古い鉄の飾りがつき、その下に干した薬草が束ねて吊るされていた。
彼が扉を叩くと、中から低い声が返ってくる。
「誰だ」
「ラグスです。旅の歌術師を連れてきました」
中の気配が、そこで止まった。
扉の向こうに、何人かの息がある。
ラグスが続ける。
「歌いに来たわけではないと言っています。子守唄の件で、話を聞きたいそうです」
しばらく沈黙が続いた。
やがて、重い足音が近づき、扉が少しだけ開く。
現れたのは、白髪混じりの男だった。
年は五十を越えているだろうか。背は高いが、肩は少し落ちている。分厚い上着の袖口には、何度も繕った跡があった。
彼はリシアを上から下まで見て、それから胸元の徽章に目を留める。
「王都の歌術隊か」
「元、です。今は旅をしています。リシア・フェルミナといいます」
「元でも歌術師は歌術師だ」
男の声には、はっきりした棘がある。
リシアは否定しなかった。
「はい」
短く答えると、男は少し眉を動かした。
言い返されると思っていたのかもしれない。
「村長のブレンだ」
男はそう名乗った。
ブレン。
リシアはその名を心に留める。
名前は、その人がここに立っている証だ。レムナ村で学んだことが、ふと胸の奥に触れる。
「中へ」
ブレンは扉を開けた。
ただし、歓迎のためではない。
外で話を聞かれたくないからだ。
そう分かる硬さが、彼の背中にあった。
家の中には、すでに数人の大人が集まっていた。
囲炉裏に近い椅子に座っている老婆。
腕を組んだまま壁にもたれる若い男。
布を握りしめ、目を赤くした女性。
そして部屋の奥に、ひとりの少女がいた。
年は七つか八つほどだろう。
薄茶の髪を肩で切りそろえ、膝の上に布人形を抱えている。顔色は悪くないが、目の下には薄い影があった。
少女はリシアを見ると、怯えたように人形を抱きしめる。
その瞬間、胸の奥へ細い心歌が触れた。
『また怒られる』
『歌ったら、怒られる』
『お母さんだったのに』
リシアは息を詰めかけた。
聞こえた。
けれど、まだ踏み込んではいけない。
ここにいる誰も、リシアに心を聞かせたいと思っているわけではない。
心歌は、勝手に耳へ届くことがある。
だからこそ、聞こえたからといって、すぐ言葉にしてはいけない。
リシアは視線を少女から外し、ブレンへ向き直った。
「その子が、昨夜川辺で見つかった子ですか」
「ああ。サナだ」
ブレンが答える。
少女の名はサナ。
リシアはもう一度、そっと心の中で繰り返した。
サナは人形の頭を撫でている。
まるで、自分が安心するためではなく、人形を安心させるための仕草のようだった。
「サナの父親は?」
「俺です」
壁にもたれていた若い男が、低い声で答えた。
年は三十前後。黒髪は短く、頬に小さな傷跡がある。目つきは鋭いが、その奥には眠れていない人の疲れがある。
「ダリオだ」
「リシアです」
「名乗らなくていい。歌術師の名前を覚える気はない」
言葉は冷たい。
だが、その奥から聞こえる心歌は、怒りだけではなかった。
『また奪われるのか』
『あの歌で、今度は娘まで』
『守らなきゃ』
リシアは胸の奥が重くなるのを感じた。
この人は、歌そのものを憎んでいるのではない。
奪われることを恐れている。
その恐れが、歌への怒りに形を変えている。
ダリオの隣にいた女性が、震える声で言った。
「サナは、悪い子じゃありません」
リシアはそちらを見る。
女性はまだ若い。
サナの母ではない。
でも、サナのことを心配している顔だった。
ブレンが説明する。
「ダリオの妹、ユナだ。サナの面倒を見ている」
ユナは布を握ったまま、唇を噛んでいた。
「夜中に目を覚ましたら、サナがいなくて。外の戸が開いていて、川の方へ足跡が続いていました」
「その時、歌は聞こえていましたか」
リシアが尋ねると、部屋の空気が硬くなった。
ダリオが先に答える。
「聞こえていた」
「どんな歌でしたか」
「子守唄だ」
「歌詞は?」
「知らない」
短い返答。
拒絶のための言葉だった。
リシアは無理に続けない。
代わりに、ブレンが囲炉裏の横に置いてあった古い木箱を開けた。中から取り出したのは、布で包まれた小さな鈴だった。
銀ではない。
くすんだ鉄に近い色で、表面には蔓のような模様が刻まれている。
「これを、サナが握っていた」
「鈴……」
「川辺で見つかった時にな。見覚えはない。村の物ではない」
リシアは鈴を見つめる。
触れていいか、すぐには聞かなかった。
残響歌を使えば、何か分かるかもしれない。
けれど、それはこの場で許されることではない。
物に残った想いを聞くことは、時に持ち主の記憶へ触れることでもある。
ブレンはリシアの迷いを見たのか、鈴を布の上に置いた。
「見るだけなら構わん」
「ありがとうございます」
リシアは近づき、鈴を覗き込む。
音は鳴っていない。
ただ、鈴の内側に黒い粉のようなものが付着していた。
黒譜術の気配。
しかし、強くはない。
むしろ誰かが上から塗りつけたような、薄い影だった。
シルが肩の上で低く鳴く。
ちい。
普段の甘えた声ではない。
リシアは頷いた。
「黒譜術の気配があります」
その言葉に、部屋がざわめいた。
ダリオの顔が険しくなる。
「やっぱり魔族の呪いか」
「まだ分かりません」
「黒い術なんだろう」
「黒譜術の気配はあります。でも、それが魔族のものとは限りません」
ダリオの目に怒りが宿る。
「魔族をかばうのか」
「そうではありません」
「なら何だ。俺の妻は魔族との小競り合いで死んだ。サナの母親だ。その娘が、夜中に母親の声を聞いたと言って川へ向かった。そこに黒い術がある。これ以上、何を迷う」
ダリオの声が少しずつ大きくなる。
サナが肩を震わせた。
ユナが慌ててサナのそばへ寄る。
リシアは唇を引き結んだ。
ダリオの怒りは分かる。
分かるからこそ、簡単に否定できない。
けれど、決めつけてしまえば、聞こえるはずの声まで閉じてしまう。
「迷う必要があると思います」
リシアは静かに言った。
「大切な人を失った痛みがあるなら、なおさら」
ダリオの表情が変わった。
踏み込んだ。
そのことに気づいた時には、もう遅かった。
「お前に何が分かる」
低い声だった。
怒鳴られるより、ずっと鋭い。
「歌術師に何が分かる。歌って、励まして、前を向けと言って、それで終わりだろう。残された方が何年も同じ場所に立っていることなんて、歌う側は知らない」
リシアの指先が冷える。
反論は浮かばなかった。
ダリオの言葉には、傷がある。
ただの誤解ではない。
歌が、誰かにそう感じさせた事実がある。
そしてリシア自身も、戦場でそれに近いことをしてきたかもしれない。
囲炉裏の火が小さく爆ぜる。
沈黙の中で、サナの心歌だけが細く揺れていた。
『お父さん、怒らないで』
『お母さんの歌だったの』
『わたし、行きたかったんじゃない』
『でも、呼ばれた気がしたの』
リシアは思わずサナを見た。
少女は人形を抱いたまま、涙をこらえている。
そこで、リシアはまた一歩、踏み込みかけた。
「サナちゃんは、行きたかったわけじゃないんですね」
言った瞬間、ユナの顔色が変わった。
ダリオが立ち上がる。
「なぜそれを知っている」
リシアは息を呑む。
失敗した。
聞こえた心歌を、そのまま言葉にしてしまった。
サナが怯えた目でリシアを見る。
自分の胸の中を覗かれた。
そう思わせてしまった。
「すみません」
リシアはすぐ頭を下げた。
「今のは、私が踏み込みすぎました」
「心を読んだのか」
「完全に読むものではありません。でも、聞こえてしまうことがあります」
「聞こえたなら言っていいのか」
「よくありません」
リシアは顔を上げた。
逃げるべきではない。
「今のは、私が間違えました」
部屋の空気がさらに重くなる。
ラグスが戸口で黙っている。
ブレンも何も言わない。
シルだけが、肩の上でリシアの襟を小さく掴んだ。
サナは目を伏せている。
リシアはサナへ向かって、ゆっくり膝をついた。
近づきすぎない距離で止まる。
「サナちゃん。怖がらせてごめんなさい」
サナは答えない。
リシアは続ける。
「あなたの中にあるものを、勝手に言葉にしてしまいました。それは、私がしてはいけないことでした」
サナの手が、人形の服をぎゅっと握る。
「私は、あなたに歌わせに来たわけでも、信じさせに来たわけでもありません。話したくなければ、話さなくていいです」
リシアはそこで言葉を切った。
もう一つ、言いたいことがあった。
けれど、それはリシアが決める言葉ではない。
サナ自身が選ぶまで待つべきことだ。
部屋の隅で、何かがかさりと動いた。
シルだった。
リシアの肩から降りたシルが、床の上をそろそろと歩いている。
向かう先は、サナではない。
囲炉裏のそばに置かれた小皿。
そこには、干した木の実が数粒乗っていた。
「シル」
リシアの声が低くなる。
シルはぴたりと止まった。
部屋中の視線が、小さな銀色の背中へ集まる。
シルはゆっくり振り向いた。
何もしていません。
そんな顔をしている。
「今は駄目」
ちい。
「絶対に駄目」
ちい……。
シルは世界の終わりを見たような顔で、小皿から一歩離れた。
張り詰めていた空気の中で、誰かが小さく吹き出す。
ユナだった。
慌てて口を押さえたが、遅かった。
サナも目を丸くしてシルを見る。
シルは、なぜ笑われたのか分からないらしい。尻尾を立てて、少しだけ誇らしそうに胸を張った。
「その子、食いしん坊なの?」
初めて、サナが声を出した。
小さな声だった。
けれど確かに、サナ自身の声だった。
リシアはほっとしすぎないように気をつけながら頷く。
「うん。かなり」
ちいっ。
シルが抗議する。
「かなりです」
リシアが言い直さずに断言すると、サナの口元がほんの少しだけ緩んだ。
その笑みはすぐに消えた。
けれど、確かにそこにあった。
ダリオは苦い顔をしている。
それでも、今度は怒鳴らなかった。
ブレンが深く息を吐く。
「話を戻すぞ」
現実は、シルの食い意地だけでは変わらない。
それでも、ほんの少し空気が動いた。
リシアはその小さな隙間を、大事にしたかった。
「サナ」
ブレンが少女へ声をかける。
「無理に話さなくていい。ただ、昨日のことを話せるか」
サナは人形を見つめたまま、しばらく黙っていた。
ユナが隣で背中を撫でる。
ダリオは壁際に立ったまま、拳を握っている。
やがて、サナはぽつりと言った。
「歌が聞こえたの」
誰も口を挟まない。
「お母さんの声だった。寝る前に歌ってくれた声と同じだった」
ダリオの喉が小さく動く。
サナは続ける。
「最初は夢だと思った。でも、窓の外から聞こえて、名前を呼ばれた気がしたの」
「名前を?」
リシアが尋ねる。
今度は慎重に。
サナは小さく頷いた。
「サナ、って。川の方で待ってるって」
「歌の中で?」
「ううん。歌のあとに。声だけ」
リシアは胸元の歌詞帳に触れた。
歌と声。
子守唄そのものと、名前を呼ぶ何か。
同じではないかもしれない。
「川へ行った後は覚えてる?」
「少しだけ」
サナは人形の髪を撫でた。
「水が冷たかった。足が痛かった。でも、向こう岸に灯りが見えたの」
部屋の大人たちが息を止める。
ラグスが戸口で身じろぎした。
「向こう岸って、谷の向こうか」
ダリオが低く尋ねる。
サナは怯えたように父を見た。
それから、小さく頷く。
「そこに、子どもがいた」
リシアの心臓が静かに跳ねる。
「どんな子?」
「分からない。遠かったから。でも、角があった」
ユナが顔を青くする。
ダリオが拳を壁に叩きつけた。
「魔族だ」
「ダリオ」
ブレンが制する。
しかし、ダリオの怒りは収まらない。
「やっぱり魔族が呼んだんだ。サナを川へ連れていこうとした。妻の声を使って」
「まだ決めつけないでください」
リシアは言った。
ダリオが鋭く睨む。
「まだかばうのか」
「かばっているわけではありません。サナちゃんが見た子どもが、呼んだ本人かどうかも分かっていません」
「角があったんだぞ」
「それでも、子どもです」
言ってから、リシアは自分の言葉がまた危うい場所に触れたのを感じた。
子どもだから安全。
そんなことは言えない。
人間の子どもも、魔族の子どもも、傷つけば誰かを傷つけることがある。
リシアは言葉を整える。
「子どもだから無関係だとは言いません。でも、子どもだからこそ、その子自身も何かに巻き込まれている可能性があります」
ダリオは何も答えない。
納得していない。
当然だ。
妻を失った人に、見知らぬ魔族の子どもを思いやれと言うのは、あまりにも早い。
リシアは、その早さで人を置き去りにしたくなかった。
「今日は、これ以上サナちゃんに聞きません」
リシアは言った。
サナが少しだけ顔を上げる。
「鈴については、調べる必要があります。でも、触れるなら許可をいただきたいです。サナちゃんにも」
ブレンは黙って鈴を見る。
ダリオも視線を落とした。
サナは人形を抱きしめたまま、小さく聞いた。
「触ったら、歌が聞こえるの?」
「聞こえるかもしれない。でも、無理には聞きません」
「こわくない?」
リシアはすぐに大丈夫とは言わなかった。
大丈夫ではないこともある。
残響歌は、時に過去の痛みをそのまま連れてくる。
「怖いこともあります」
正直に答えると、サナは瞬きをした。
「でも、勝手に決めつけないために、聞かなきゃいけない時があります」
サナはしばらく考えた。
そして、膝の上の人形を見下ろす。
「お母さんの声が、本当にお母さんじゃないなら」
小さな唇が震える。
「それを、知るのもこわい」
リシアは頷いた。
「うん」
「でも、お母さんが悪い歌になったって言われるのは、もっといや」
その言葉に、部屋が静まり返った。
ダリオの表情から、怒りが一瞬だけ抜け落ちる。
そこに残ったのは、どうしようもない痛みだった。
サナはリシアを見る。
「少しだけなら、触っていい」
「ありがとう」
リシアは深く頭を下げた。
そして、鈴の前に座る。
指先が布へ触れる。
直接鈴には触れず、まず周りの空気を聞く。
残響歌を開きすぎない。
水面に指を置くように、ほんの少しだけ。
音が来た。
低い谷風。
川の水音。
泣いている子どもの呼吸。
そして、子守唄。
言葉はまだはっきりしない。
けれど、その奥に別の心歌が混じっていた。
『ねむれ』
『見つからないように』
『橋を渡らないで』
『でも、声だけは届いて』
リシアの眉が寄る。
橋を渡らないで。
それは呼ぶ声ではない。
むしろ止める声だ。
だが、その上に黒い譜面のようなものが重なっている。
子守唄の願いをねじり、誰かを川へ向かわせる形に変えている。
リシアの指先に冷たさが走った。
鈴の奥で、小さな影が笑った気がする。
そこでシルが、鋭く鳴いた。
ちいっ。
リシアはすぐに手を離す。
息が少し乱れていた。
ユナが心配そうに身を乗り出す。
「大丈夫ですか」
「はい。深くは聞いていません」
ダリオが鈴を睨む。
「何が分かった」
「子守唄そのものは、誰かを川へ呼ぶための歌ではないと思います」
「どういう意味だ」
「元の願いは、守るためのものです。見つからないように、渡らないように、怖い夜をやり過ごせるように。そういう願いがありました」
ブレンの顔が微かに変わる。
囲炉裏のそばの老婆が、今まで閉じていた目を開けた。
リシアはその反応に気づく。
「でも、その願いの上から黒譜術が重ねられています。守る歌を、呼ぶ声に変えている」
「誰がそんなことを」
ラグスが問う。
リシアは首を横に振った。
「まだ分かりません」
分からないことを、分からないと言う。
それは不安を与える。
けれど、分かったふりよりはいい。
ダリオは苦々しく顔を歪めた。
「結局、何も分からないのと同じだ」
「そうですね」
リシアは静かに認めた。
「でも、ひとつだけ分かりました。サナちゃんのお母さんの声を、悪いものだと決めつけるのはまだ早いです」
サナが人形を抱く手に力を込める。
ダリオは何か言おうとして、言葉を失った。
その時、囲炉裏のそばの老婆が小さく口を開いた。
「その歌は」
全員が彼女を見る。
老婆は長い間黙っていたせいか、声が掠れていた。
「わしの母も、歌っておった」
ブレンの顔が強張る。
「メル婆」
「黙っていても、もう同じじゃろう」
メルと呼ばれた老婆は、サナを見た。
その目には、怖れと懐かしさが混じっている。
「昔は、境のこちらでも向こうでも、同じ歌を歌う者がおった。少なくとも、わしが幼い頃はな」
部屋の中がざわついた。
ダリオが信じられないという顔をする。
「向こうでも?」
「声を潜めて歌う歌じゃった。眠れ、見つかるな、夜を越えろ。そういう歌じゃ」
リシアは息を整えた。
やはり、子守唄の元の願いは呼ぶことではない。
隠すこと。
守ること。
夜を越えさせること。
「なぜ今まで言わなかった」
ブレンの声には責める響きがあった。
メルは疲れたように笑う。
「言えば、魔族の歌を知っていると言われる。人間の歌を魔族に渡したと言われる。どちらにしても、ろくなことにはならん」
「メル婆」
「それに、わしも忘れたふりをしておった。忘れた方が楽じゃからな」
その言葉は、リシアの胸に深く落ちた。
忘れたふり。
知らなかったふり。
それは名の断章でも、雪の断章でも、何度も見てきたものだった。
痛みを抱え続けるために、人は時々、記憶の扉を閉じる。
それが悪いとは言えない。
でも、閉じた扉の向こうで誰かが泣き続けることもある。
その時だった。
外から鐘の音が鳴った。
一度。
二度。
村中が一斉にざわめく。
ラグスが扉を開けて外へ出る。
「川の見張りだ」
ブレンも立ち上がった。
ダリオがサナをユナに預ける。
「俺も行く」
「待ってください」
リシアも立ち上がる。
ダリオは振り返った。
「今度は止めるな」
「止めません。でも、私も行きます」
「歌うなと言ったはずだ」
「歌いません。聞くだけです」
ダリオは舌打ちしたが、それ以上は言わなかった。
リシアはシルを肩へ戻す。
シルは胡桃をどこかへしまおうとして、リシアに見つかった。
「今はしまわない」
ちい。
「緊急時に胡桃を持ち歩かない」
ちい……。
シルは名残惜しそうに胡桃を見た。
するとサナが、小さな布袋を差し出した。
「あとで食べて」
シルの目が輝く。
リシアは一瞬迷ったが、サナがほんの少しだけ笑っているのを見て、止めなかった。
「ありがとうって」
ちいっ。
シルは布袋を受け取り、今度はきちんと頭を下げた。
その姿に、サナの表情がまた少し柔らかくなる。
だが、外の空気はもう柔らかくなかった。
家を出ると、村人たちが川の方へ向かっている。
広場の向こう、石橋へ続く道。
その先から、昼間には似合わない冷たい風が吹いてきた。
川辺に着くと、見張りの男が対岸を指差していた。
「向こうに誰かいる」
リシアは目を凝らす。
谷を流れる川の向こう側。
岩陰の近くに、小さな人影が立っていた。
距離はある。
顔までは見えない。
けれど、その頭には確かに短い角のような影があった。
魔族の子ども。
サナが見たという子かもしれない。
村人たちがざわめく。
弓を持った男が前へ出ようとする。
ラグスが腕で制した。
「待て」
その時、対岸の子どもが口を開いた。
風に乗って、細い歌声が届く。
「ねむれ、ねむれ」
サナが歌ったものと同じ始まり。
だが、続きがあった。
「橋を渡るな」
村人たちの息が止まる。
リシアの歌詞帳が、胸元で強く震えた。
子守唄は、呼んでいるのではない。
止めている。
少なくとも、元の歌は。
しかし次の瞬間、川面に黒い波紋が走った。
対岸の子どもの声が歪む。
「おいで」
リシアの背筋に冷たいものが走る。
シルが毛を逆立てた。
対岸の子どもは、自分の口を両手で押さえる。
まるで、そんな言葉を言うつもりはなかったように。
その瞳が、川越しにリシアを見た。
助けを求めているのか。
それとも、来るなと告げているのか。
リシアにはまだ分からない。
ただ、歌詞帳の中で、新しい一節が淡く浮かびかけていた。
『同じ歌を、敵の声にしないで』
リシアはまだ歌わない。
けれど、もう耳を塞ぐこともできなかった。
今回は、子守唄を聞いて川辺へ向かった少女サナと、境谷の人々が抱える恐れを描きました。
リシアは心歌が聞こえたことで一度踏み込みすぎてしまいました。
歌術師だからこそ届いてしまうものがあり、届いたからこそ慎重でなければならない。
その難しさに、改めて向き合う回になっています。
シルは相変わらず食べ物に弱いですが、今回は少しだけ場を和らげる役にもなりました。
今回も読んでくださり、ありがとうございました。




