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勇者の名前編 35話 ただいまにはまだ遠くても

西方砦から急報が届き、レオンは再び勇者として立つことを求められる。


しかし、今度のレオンは一人で走り出さない。

即時単独出立ではなく、偵察、補給、治療班の編成を整えた上で、隊として夜明けに向かう道を選んだ。


リシアもまた、封じてきた《進軍詩》を新しい歌へ変える。


それは人を死地へ押し出す歌ではない。

怖さを消さず、帰る道を忘れず、自分で選ぶための歌だった。


王都の人々は、レオンたちへ「勝ってください」だけではなく、「行ってらっしゃい」と声をかけるようになる。


 西門の外へ消えていく隊列を、リシアは朝の光の中で見送っていた。


 王都の空は、夜の名残をまだ薄く抱えている。東の空だけが少しずつ白み、城壁の影は長く石畳へ伸びていた。


 遠ざかる馬蹄の音。

 荷車の軋み。

 隊列を見送る人々の小さな祈り。


 それらが混ざり合っても、以前のように一人の背中へ押し寄せる重さにはなっていない。


 勝ってください。


 そう願う声は、今もある。


 けれど、その隣に別の言葉が並んでいる。


 無事で。

 水を足しておいた。

 怪我をしたら戻ってきて。

 休める時は休んで。

 行ってらっしゃい。


 リシアは、その変化を静かに聞いていた。


 歌がすべてを変えたわけではない。


 レオンの言葉があり、マルセルの判断があり、ユーディたち帰還兵の名乗りがあった。王宮歌術師たちが本来の凱旋讃歌を思い出し、王都の人々も、自分たちにできることへ手を伸ばし始めている。


 リシアの歌は、その間に置かれた灯にすぎない。


 けれど、灯があるだけで、見える道もある。


 肩の上で、シルが大きなあくびをした。


「眠い?」


 ちい。


「さっきまで緊張してたもんね」


 ちい。


「あとで何か食べようか」


 ちいっ。


 返事だけは、急に力強くなる。


 リシアは思わず笑った。


「そこだけ元気だね」


 シルは尻尾を揺らし、当然だと言わんばかりに胸を張る。王都の大きな事件の直後でも、食べ物への関心は揺るがないらしい。


 その小さな変わらなさに、リシアは救われる。


 歌詞帳を抱える腕に、まだ力が入っていた。


 新しい歌は生まれた。


 だが、進軍詩の痛みが消えたわけではない。


 昔の歌で立ち上がった人。

 そのまま帰らなかった人。

 救われた命。

 傷ついた心。


 それらは、ひとつの歌で清算できるものではなかった。


 それでも、リシアはもう歌詞帳を閉じきろうとは思わない。


 怖いまま持つ。


 そう決めた。


「リシア」


 背後から呼ばれ、リシアは振り返る。


 セレナが立っていた。


 濃紺の外套を羽織り、手には旧歌術隊の記録束を抱えている。いつものように背筋は伸びているが、その目元には疲れが残る。


「セレナさん」


「少し歩けるか」


「はい」


 二人は西門から少し離れ、城壁沿いの静かな道を歩いた。


 朝の空気は冷たい。石畳の隙間には夜露が残り、王都の喧騒もここまでは届きにくい。


 セレナはしばらく黙っていた。


 リシアも急かさない。


 師が言葉を選んでいる時の沈黙は、昔からこうだった。


「記録は、私が調べ直す」


 やがて、セレナが口を開く。


「旧歌術隊印の流出、戦場用歌術記録の移管先、黒譜の民がどこまで王宮の資料へ触れているのか。王宮内にも、まだ知らない穴がある」


「一人で抱えないでください」


 リシアが言うと、セレナはわずかに眉を上げた。


「お前に言われるとはな」


「言います」


「言うようになった」


 セレナの声に、ほんの少しだけ笑みが混じる。


 リシアは足を止めた。


「セレナさん」


「何だ」


「私に隠さないでください。全部をすぐ受け止められるとは言えません。でも、知らないまま守られるのは、もう嫌です」


 セレナはリシアを見た。


 かつての隊長としてではなく、ひとりの歌術師を見る目だった。


「分かった」


 短い返事。


 けれど、その一言で十分だった。


「私も、お前に預ける。お前も、私に預けろ」


「はい」


「ただし、無茶をしたら叱る」


「そこは変わらないんですね」


「変える気はない」


 リシアは少しだけ笑った。


 シルが肩の上で、ちい、と鳴く。


 セレナはシルを見る。


「お前も見張っておけ」


 ちいっ。


「頼もしい返事だ」


「たぶん、お菓子を要求する時と同じ返事です」


 セレナは一瞬だけ黙り、それから呆れたように息を吐いた。


「……本当に頼もしいのか、それは」


 シルが抗議するように尻尾を膨らませる。


 重い話の後に、こんなやり取りがある。


 それだけで、リシアの胸は少し軽くなった。


 昼近くになると、西方砦へ向かった先行騎馬から第一報が届いた。


 砦周辺に現れた影は、魔族の大軍ではなかった。


 黒譜術で恐怖を増幅された魔物の群れと、偽の軍影。


 砦を直接落とすためではなく、王都を焦らせ、レオンを単独で走らせるための仕掛けだった可能性が高いという。


 レオンたちは、予定通り隊で動く。


 偵察が偽の軍影を見抜き、治療班が砦側の負傷者を受け入れ、マルセルが隊列を崩さず魔物を引き離した。レオンは聖剣を抜いたが、一人で突撃はしなかった。


 報告を聞いた文官が、驚いたように呟いた。


「勇者殿が、突撃をなさらなかったのですか」


 それを聞いたセレナが、静かに言った。


「成長だな」


 リシアは何も言わず、窓の外を見た。


 遠い西の空は、薄く晴れている。


 その向こうで、レオンたちは今も動いている。


 大きな勝利の歌は聞こえない。


 けれど、リシアの胸には、今朝の歌の残響が静かに残っていた。


 帰るために、立つ歌。


 その意味を、レオンはきっと今も選び続けている。


 その日の夕方、王都には正式な続報が入った。


 西方砦の混乱は収束。

 魔物群は退けられ、砦の守備隊にも大きな損害は出ていない。

 レオンたちは現地の確認を終えた後、翌朝には王都へ戻る。


 その知らせが広がった時、王都は沸き立ちかけた。


 だが、今度は少し違っていた。


 人々は祝勝の旗を急いで掲げようとはしない。


 まず、帰還者を迎える準備が始まる。


 水。

 温かい食事。

 負傷者のための椅子。

 馬を休ませる場所。

 そして、名前を確認するための名簿。


 リシアはそれを見て、胸の奥が温かくなる。


 王都が完全に変わったわけではない。


 また不安になれば、誰かにすがりたくなる日もあるだろう。

 勇者という言葉が、再びレオンを縛る時も来るかもしれない。

 歌がすべてを解決することなどない。


 それでも、一度見えたものは消えにくい。


 勇者の後ろに人がいること。

 勇者自身にも名前があること。

 帰ってきた人には、勝利より先に水と休息が必要なこと。


 それを知った王都は、昨日とは少しだけ違う。


 翌朝、レオンたちは西門から戻ってきた。


 大きな凱旋ではない。


 鐘も鳴らない。


 白い花道も、派手な讃歌もない。


 ただ、門の前に人々が集まり、静かに待っていた。


 馬の足音が近づいてくる。


 先頭にマルセル。

 その隣にレオン。

 後ろにはユーディや治療班、騎士たちが続く。


 彼らの鎧には砂がつき、顔には疲労が見える。けれど、隊列は大きく乱れていない。


 レオンは門の前で馬を止めた。


 王都の人々を見渡す。


 誰も、すぐに勝利を叫ばなかった。


 最初に声を上げたのは、昨日「行ってらっしゃい」と言った子どもだった。


「おかえりなさい!」


 その声が、朝の門に響く。


 続いて、あちこちから声が重なる。


「おかえりなさい」


「皆さん、おかえりなさい」


「水を用意しています」


「怪我はありませんか」


 レオンはしばらく何も言えなかった。


 手綱を握る指に力が入る。


 心歌が揺れる。


『帰ってきた』


『王都へ』


『勇者として』


『レオンとして』


『言えるのか』


 リシアは門の脇に立ち、静かに彼を見守った。


 歌わない。


 ここは、レオン自身の言葉が必要な場所だった。


 レオンはゆっくり馬を降りる。


 そして、人々へ向かって深く頭を下げた。


「……戻りました」


 それは、まだ完全な「ただいま」ではなかった。


 けれど、以前のように勝利だけを告げる言葉でもない。


 王都へ帰ってきた人の声だった。


 少し間を置いて、レオンは小さく続けた。


「ただいま、と言うには、まだ少し慣れません」


 王都の人々は静かに聞いている。


「ですが、言えるようになりたいと思います」


 その言葉に、リシアの胸が震えた。


 完璧な答えではない。


 でも、それでいい。


 帰る場所は、すぐ完成するものではない。


 呼ばれ、戻り、休み、また行き、また戻る。


 その繰り返しの中で、少しずつ形になるものなのかもしれない。


 マルセルが隣で小さく笑う。


「なら、練習だな」


 レオンが苦笑する。


「厳しいですね」


「俺は護衛隊長だからな」


 そのやり取りに、帰還した騎士たちの間から笑いが漏れた。


 ユーディも笑っている。


 包帯の腕はまだ痛むだろうが、その顔に昨日のような危うさはない。


「レオン様、水です」


 王都の女性が差し出した水袋を、レオンは両手で受け取った。


「ありがとうございます」


「勇者様だけじゃありません。皆さんの分もあります」


 その言葉に、レオンは目を細めた。


「はい。皆でいただきます」


 リシアは、その光景を見ながら歌詞帳を開いた。


 新しい歌のページは、淡く光っている。


 そこに黒い滲みはない。


 ただ、ページの下に小さな文字が浮かんでいた。


『勇者の名は、役目だけでは終わらない』


 リシアはそっとページを撫でる。


 その言葉が断章なのか、ただ歌詞帳が映した答えなのかは分からない。


 分からないままでいいと思えた。


 昼過ぎ、リシアは王都を発つ準備を始めた。


 セレナは王都に残り、旧歌術隊の記録を調べ直すという。エルネアも王宮歌術師団の中で、凱旋讃歌の正式な復元と黒譜の調査を進めることになった。


 レオンも、王都に残る。


 西方砦の件が落ち着いたとはいえ、王国の状況はまだ不安定だ。勇者としてやるべきことも、レオンとして向き合うべき場所も、ここにある。


 旅に同行する必要はない。


 むしろ、王都で変化を続けることが、今のレオンの役目なのだろう。


 リシアが城門近くの広場へ向かうと、レオンが待っていた。


 鎧ではなく、軽い騎士服姿だった。


 彼の隣にはマルセルとユーディもいる。


「もう行くのですね」


 レオンが言う。


「はい。長居すると、シルが王都中のお菓子屋さんを覚えてしまいます」


 ちいっ。


 シルが抗議する。


 マルセルは笑いを堪えきれなかった。


「すでに三軒は覚えている顔だな」


「五軒です」


 リシアが訂正すると、シルがなぜか得意げに胸を張った。


 レオンも笑う。


 その笑顔は、まだ少し疲れている。


 けれど、王都に来たばかりの頃よりずっと自然だった。


「リシアさん」


「はい」


「あなたの歌に、何度も助けられました」


「私だけの歌ではありません」


 リシアは答えた。


「レオンさんが言葉にしたから、届いたんです。王都の人たちが変わろうとしたから、歌が置けました」


「それでも、ありがとう」


 レオンはまっすぐに言った。


 リシアは少しだけ照れくさくなり、視線を落とす。


「こちらこそ、ありがとうございました」


「私が?」


「はい。レオンさんが怖いと言ってくれたから、私も進軍詩と向き合えました」


 レオンは黙った。


 しばらくして、柔らかく頷く。


「では、お互い様ですね」


「はい」


 マルセルが腕を組む。


「困った時は連絡を寄越せ。王都からすぐ動けるとは限らないが、無視はしない」


「ありがとうございます」


 ユーディも一歩前へ出た。


「リシアさん。俺、妹に木彫りを教える約束、ちゃんと守ります」


「はい」


「それで、いつか上手く作れたら、シルの木彫りを贈ります」


 シルがぱっと顔を上げた。


 ちい?


「かなり偉そうな感じで」


 ちいっ!


 抗議の声に、皆が笑う。


 リシアも笑った。


 こうして笑えることが、今は何よりありがたい。


 最後にレオンが、リシアへ小さな青い護符を差し出した。


「王都の通行護符です。困った時、王国の砦や街で助けを求められるようにしてあります」


「いいんですか」


「あなたは王都を助けてくれました。それに」


 レオンは少しだけ迷い、言葉を選ぶ。


「また、会える理由があった方がいい」


 リシアは護符を受け取った。


 青い石には、王国の紋章と小さな剣の印が刻まれている。


「ありがとうございます。大切にします」


「どうか、無事で」


「レオンさんも」


 リシアは少しだけ考えてから、言った。


「行ってきます」


 レオンの表情が変わる。


 それは、彼が西門で口にした言葉だった。


 レオンはゆっくり息を吸い、今度は迷わず答える。


「行ってらっしゃい」


 その言葉が、リシアの胸に温かく残る。


 城門を抜けると、王都の喧騒が少しずつ背後へ遠ざかった。


 道の先には、まだ知らない町がある。


 集めるべき断章がある。

 黒譜の民の影がある。

 アイシャの名も、セレナが隠してきた記録も、シルの正体も、まだ遠い。


 解けた謎より、増えた問いの方が多い。


 それでも、リシアの足取りは以前より少し軽かった。


 歌は人を救えるのか。


 その答えは、まだ見つかっていない。


 ただ、ひとつだけ分かる。


 歌は、人の代わりに歩くことはできない。


 けれど、歩き出す人の隣に、小さな灯を置くことならできる。


 リシアは肩の上のシルを見る。


「次は、どんな町だろうね」


 シルは少し考えるように首を傾げたあと、力強く鳴いた。


 ちい。


「お菓子がある町だといいね、って顔してる」


 ちいっ。


「違うの?」


 ちい。


「やっぱり合ってるんだ」


 リシアは笑いながら、道の先へ歩き出す。


 その時、歌詞帳がかすかに震えた。


 開いたページには、まだ読めない星文字が浮かび、やがて一行だけが形を結ぶ。


『境界で、同じ子守唄が泣いている』


 風が吹く。


 遠くの丘の向こうから、誰かの歌声が聞こえた気がした。


 人のものか。


 魔族のものか。


 今のリシアには、まだ分からない。


 けれど、その歌は確かに泣いている。


 リシアは歌詞帳を閉じ、前を向いた。


「行こう、シル」


 銀色の相棒が、肩の上で小さく鳴く。


 旅は続いていく。


 誰かの想いを聞くために。


 失われた星詠みの歌へ、少しずつ近づくために。



ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


今回は、レオンたちの帰還と、リシアの旅立ちを描きました。


レオンはまだ完全に「ただいま」と言えるわけではありません。

けれど、いつか言えるようになりたいと口にしました。


王都もまた、勇者一人にすべてを預けるのではなく、帰ってきた人を迎える場所へ少しずつ変わり始めています。


リシアにとっても、進軍詩と向き合ったことで、自分の歌をもう一度見つめ直す大きな節目になりました。


この編でリシアが形にした歌詞は


『立て、とは言わない。

 急げ、とも言わない。


 あなたの足は、

 命令のためだけにあるのではない。


 怖いなら、怖いままでいい。

 震えるなら、震えたままでいい。

 それでも守りたいものがあるなら、

 その名を胸に、声にして。


 剣を握る手だけが、道を作るのではない。

 水を渡す手も、灯を守る手も、

 帰っておいでと呼ぶ声も、

 あなたの道を照らしている。


 前へ出るなら、帰る道を持って。

 誰かを守るなら、自分の名も連れて。

 勝利のために消えるのではなく、

 生きて戻るために進んで。


 怖さを捨てなくていい。

 迷いを恥じなくていい。

 それでも選ぶ一歩なら、

 その一歩はあなたのもの。


 立て、ではなく。

 行け、ではなく。

 あなたが選ぶ道の先に、

 ただいまへ続く灯がありますように』


ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。


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