勇者の名前編 34話 帰るための歌
王宮譜庫で、リシアたちは凱旋讃歌が書き換えられていた証拠を見つけた。
さらに、封印されていたはずの《進軍詩》の戦場運用記録も発見される。
そこには、リシア本人に知らされないまま、歌の効果が記録・管理されていた事実が残されていた。
そして、その記録にはセレナの署名もあった。
リシアは師であるセレナと向き合い、進軍詩をただ捨てるのではなく、自分の手で変えることを選ぶ。
その直後、西方砦から急報が届く。
レオンは再び勇者として立つことを求められるが、今度は一人で走るのではなく、皆で帰るために進む道を選ぼうとしていた。
王都の夜は、静かではなかった。
凱旋式は中断され、祝宴も延期された。だが、王城の中では人々が慌ただしく動いている。廊下を騎士が駆け、軍令部の使者が書簡を運び、治療師たちは西方砦へ向かうための薬箱を確認していた。
外からは、荷車の軋む音が聞こえる。
王都の商人たちが水袋や保存食を集めているのだという。
つい先ほどまで、勇者一人へ向かっていた不安が、少しずつ別の形へ変わっていた。
誰かが水を用意する。
誰かが道を空ける。
誰かが負傷者のために布を運ぶ。
誰かが眠れない子どものそばにいる。
小さな行動だった。
けれど、その一つ一つが、レオンの背中にだけ乗っていた重さを、ほんの少しずつ分けている。
リシアは王城の小さな客室で、歌詞帳を開いていた。
机の上には、セレナが持ってきてくれた古い進軍詩の記録が置かれている。横には、王宮譜庫で見つけた改訂讃歌の写し。そしてエルネアが書き出してくれた、本来の凱旋讃歌の第二節。
いくつもの歌が、机の上に並んでいた。
人を立たせた歌。
人を休ませるはずだった歌。
勇者を縛ろうとした歌。
怖さを誰か一人へ預けないために、リシアが歌った歌。
そのすべての中心に、未完成の一文がある。
『立て、ではなく』
『選べるように、声を残す』
『帰るために、立つ歌を』
リシアは羽ペンを握ったまま、長く動けずにいた。
歌詞は見えかけている。
けれど、まだ届かない。
少しでも言葉を間違えれば、また誰かの背中を押しすぎる歌になる。
優しすぎれば、怖さを曖昧に包むだけになる。
慎重になりすぎれば、今度は必要な時に立つ人の足を止めてしまう。
進ませたいわけではない。
止めたいわけでもない。
選べるようにしたい。
だが、その言葉はあまりにも難しかった。
「まだ書けないか」
窓際に立っていたセレナが言った。
リシアは小さく頷いた。
「はい」
「焦るな、と言いたいところだが、夜明けまでだ」
「分かっています」
「なら、今は綺麗な歌詞を探すな」
セレナは机の上の記録を指で叩いた。
「お前が昔の進軍詩で何を間違えたのか。それを見ろ」
リシアは進軍詩の古い歌詞を見る。
『震える足よ、まだ道はある』
『守りたい名を胸に抱け』
『立て』
『あなたの後ろに、明日がある』
悪意はなかった。
むしろ、あの時のリシアは本気で願っていた。
立ってほしかったのではない。
守りたいものを思い出してほしかった。
恐怖に潰される前に、まだ選べると伝えたかった。
けれど、歌詞の中には足りないものがあった。
「帰る道が、弱かったんです」
リシアは呟いた。
セレナは何も言わず、続きを待つ。
「守りたい名を胸に抱け、と歌いました。でも、その人自身の名前を守る言葉が足りなかった。後ろに明日があると歌ったけれど、その明日に自分も帰っていいのだと、ちゃんと歌えていなかった」
歌詞帳のページが、淡く光る。
「立て、という言葉が強すぎたんです。立てない人も、逃げたい人も、怖いと言いたい人も、その歌の中に置いていく場所がなかった」
「なら、次はどうする」
リシアは羽ペンを置いた。
答えを急がないために。
「立つことを命じません。でも、立つ人を否定もしません」
「曖昧だな」
「はい」
リシアは苦笑した。
「でも、人の心は曖昧です。怖いのに守りたい人もいる。逃げたいのに戻りたい人もいる。休みたいのに行かなければと思う人もいる。どちらか一つに決めつけたら、また歌が押しつけになります」
セレナの目が、わずかに細められる。
「少しは歌術師らしくなったな」
「昔は違いましたか」
「昔は、優しさで正解へ押していた」
その言葉は痛かった。
けれど、今は受け取れた。
リシアは小さく頷く。
「はい。そうだったと思います」
シルが机の上へ飛び乗った。
前足で歌詞帳を叩き、ちい、と鳴く。
「シル?」
シルは歌詞帳を叩いたあと、今度は机の隅に置かれた水袋を叩いた。
「水?」
シルは頷くように尻尾を揺らす。
リシアは水袋を見る。
王都の人々が、西方砦へ向かう隊のために集めてくれたものだ。
戦場で剣を握る者だけが、守っているわけではない。
水を用意する人もいる。
帰るための力は、戦う力だけではない。
リシアは羽ペンを取った。
今度は、指が動いた。
『剣を握る手だけが、道を作るのではない。
水を渡す手も、灯を守る手も、名を呼ぶ声も、帰る道になる。』
文字が書かれた瞬間、歌詞帳のページに温かな光が広がった。
セレナが小さく息を吐く。
「見えてきたな」
「はい」
リシアは書き続けようとして、ふと手を止めた。
外の廊下から、足音が聞こえた。
急いでいる。
けれど、乱暴ではない。
扉が叩かれた。
「リシアさん。入ってもいいですか」
レオンの声だった。
リシアが返事をすると、扉が開く。
レオンは鎧を外していた。
軽装の騎士服に外套を羽織った姿は、勇者というより、出立前の一人の青年に見えた。だが腰には聖剣がある。彼が何者であるかを、世界が忘れさせてくれないように。
その後ろにはマルセルもいた。
「休めましたか」
リシアが尋ねると、レオンは少しだけ困ったように笑った。
「少しだけ」
マルセルが横から言う。
「本人は起き上がろうとしたが、無理やり寝かせた」
「マルセル」
「事実だろう」
シルが、ちい、と鳴いた。
レオンはシルを見る。
「あなたにも叱られている気がします」
「たぶん叱っています」
リシアが答えると、シルは満足そうに胸を張った。
小さな笑いが部屋に落ちる。
だが、その後に続いた沈黙は重かった。
レオンは机の上の歌詞帳へ目を向けた。
「歌は、見つかりそうですか」
「まだ途中です」
「聞いても?」
リシアは迷った。
未完成の歌を聞かせることは、少し怖い。
けれど、この歌はレオン抜きでは完成しない。
リシアは頷き、書きかけの歌詞を読み上げた。
「立て、ではなく、選べるように。急げ、ではなく、帰る道を持てるように。怖さを置いていくな。仲間の声を置いていくな。守りたいものへ向かうなら、あなた自身の名も連れていけ」
レオンは黙って聞いていた。
その瞳が少し揺れる。
「……私自身の名も」
「はい」
「勇者として行くことと、レオンとして帰りたいと思うことは、両立するのでしょうか」
リシアはすぐに答えなかった。
簡単に、両立します、と言いたくなかった。
それは優しいが、軽い言葉になる。
「難しいと思います」
レオンは少し笑った。
「あなたは、時々かなり正直ですね」
「嘘を歌詞にすると、歌が歪みます」
「では、難しいのですね」
「はい」
リシアは頷いた。
「でも、難しいから諦めるものではないと思います。レオンさんが勇者であることも、人を守りたいことも、本物です。でも、レオンさんが怖いことも、休みたいことも、帰りたいことも、本物です」
レオンは目を伏せる。
「どれか一つだけが本物ではない」
「はい」
リシアは歌詞帳へ視線を落とした。
「だから、この歌は、勇者をやめさせる歌ではありません。勇者として立つなら、レオンさん自身を置いていかないための歌です」
レオンは深く息を吸った。
そして、静かに言った。
「私は、西方砦へ行きます」
「はい」
「怖いです」
「はい」
「また誰かを失うかもしれない。私が遅れれば砦が落ちるかもしれない。私が間違えれば、誰かが死ぬかもしれない」
声は震えていた。
けれど、隠していなかった。
「それでも、私は行きたい」
リシアは顔を上げた。
レオンの瞳には、迷いがあった。
恐怖もあった。
だが、その奥に確かな意志がある。
「勇者だから、行かなければならない。それもあります。でも、それだけではありません。私が守りたいから行きます。誰かに求められたからではなく、私自身がそう選びたい」
歌詞帳が強く光った。
リシアの胸に、音が生まれる。
今まで足りなかったもの。
それは、レオン自身の選択だった。
誰かが決めた勇者の役目ではなく。
黒譜術に歪められた称賛でもなく。
王都の不安を背負わされた結果でもなく。
怖いと知りながら、それでも守りたいと選ぶ心。
リシアは羽ペンを走らせた。
『怖いまま、選んでいい。
震えたまま、進んでいい。
ただし、帰る名を忘れないで。』
ページの光が、さらに広がる。
セレナが机に手を置いた。
「最後に足りないものがある」
リシアは顔を上げる。
「何ですか」
「帰った後の言葉だ」
帰った後。
リシアは一瞬、意味が分からなかった。
だが、すぐに気づく。
帰るための歌なら、帰った先で言う言葉が必要だ。
レオンがまだ言えなかった言葉。
ただいま。
リシアはレオンを見た。
レオンは苦しそうに、でも目を逸らさずに言った。
「まだ、言えるかは分かりません」
「はい」
「王都が私の帰る場所なのか、まだ分からない」
「はい」
「でも、帰ってきた時に、言ってみたいとは思います」
その言葉で、歌詞は完成した。
リシアは最後の一節を書き込む。
『ただいまへ続く道を、閉ざさないために。』
歌詞帳が、静かに光った。
強い光ではない。
人を奮い立たせるような熱でもない。
帰り道の窓に灯る、小さな明かりのような光だった。
夜明け前。
王城の西門には、出立の準備を整えた隊が集まっていた。
以前のような華やかな見送りではない。
凱旋式の続きでもない。
実務的で、静かな出立だった。
馬には水袋と薬箱が積まれ、補給品の確認が行われている。王都の商人たちが提供した布や保存食も運び込まれていた。治療班のナディアが薬草箱を点検し、ユーディは包帯を巻いた腕で、無理のない範囲の荷を運んでいる。
王都の人々も、少し離れた場所で見守っていた。
声は少ない。
だが、以前のように「必ず勝ってください」と叫ぶ者ばかりではなかった。
「無事に帰ってきてください」
「水を多めに入れておきました」
「西門の先、夜露で滑りやすいです。気をつけて」
「子どもたちは教会に集めました。王都は守ります」
レオンはそれらの声を聞いていた。
一つ一つを、逃げずに受け取っている。
リシアは彼の少し後ろに立った。
歌詞帳を開く。
新しい歌が、そこにある。
進軍詩の変化した歌。
まだ名前は決めていない。
いや、もう決まっているのかもしれない。
帰るための歌。
リシアは息を吸った。
今から歌うのは、出立の歌だ。
けれど、昔の進軍詩ではない。
人を死地へ押し出す歌ではない。
恐怖を消す歌でもない。
怖いまま、自分で選び、帰る道を忘れないための歌。
リシアは歌い始めた。
『立て、とは言わない。
急げ、とも言わない。
あなたの足は、
命令のためだけにあるのではない。
怖いなら、怖いままでいい。
震えるなら、震えたままでいい。
それでも守りたいものがあるなら、
その名を胸に、声にして。
剣を握る手だけが、道を作るのではない。
水を渡す手も、灯を守る手も、
帰っておいでと呼ぶ声も、
あなたの道を照らしている。
前へ出るなら、帰る道を持って。
誰かを守るなら、自分の名も連れて。
勝利のために消えるのではなく、
生きて戻るために進んで。
怖さを捨てなくていい。
迷いを恥じなくていい。
それでも選ぶ一歩なら、
その一歩はあなたのもの。
立て、ではなく。
行け、ではなく。
あなたが選ぶ道の先に、
ただいまへ続く灯がありますように。』
歌は、西門の空気に溶けていった。
大きな魔力の波ではない。
兵士たちを一斉に奮い立たせる熱狂でもない。
それでも、聞いた者たちの表情が変わっていく。
ユーディが妹リリの名を小さく呟く。
マルセルが隊列を見ながら、無茶な速度を出さないよう指示を出す。
王都の人々が、勇者だけではなく隊全体を見る。
そしてレオンは、目を閉じて歌を聞いていた。
彼の心歌が聞こえる。
『怖い』
『それでも行く』
『一人ではない』
『帰りたい』
『帰っていい』
レオンは目を開けた。
そして、リシアを見た。
「ありがとう」
その声は、勇者としての礼ではなかった。
レオンとしての言葉だった。
「行ってきます」
リシアは小さく頷いた。
「行ってらっしゃい。レオンさん」
その言葉に、レオンの表情がかすかに揺れた。
王都の民の中からも、同じ声が上がる。
「行ってらっしゃい」
「行ってらっしゃい、レオン様」
「皆さんも、どうか無事で」
見送りの言葉が変わっていく。
勝て、ではなく。
守れ、だけでもなく。
行ってらっしゃい。
帰ってくることを前提にした言葉。
レオンは馬に乗った。
マルセルが隣に並ぶ。
ユーディも、治療班も、騎士たちも続く。
西門が開く。
夜明け前の薄青い光の中、隊列は静かに進み出した。
その時、遠く王城の屋根の上に、黒い外套の影が見えた。
リシアはすぐに気づいた。
黒譜の民。
影はリシアを見ていた。
そして、風に溶けるように消える。
だが、その直前、かすかな声だけが届いた。
『歌は、形を変えても歌です』
『その灯が、また誰かを焼かないといいですね』
リシアは歌詞帳を抱きしめた。
胸は痛んだ。
けれど、もう目を逸らさなかった。
「焼かないように、見続けます」
誰にともなく、そう答えた。
肩の上でシルが、ちい、と鳴く。
リシアは西門の向こうへ消えていくレオンたちを見送った。
進軍詩は、消えたわけではない。
罪も、救いも、過去も、そのまま残っている。
けれど、歌は変わった。
立てと命じる歌から。
帰るために選ぶ歌へ。
夜明けの光の中で、静かに終わりへ向かっていた。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
今回は、リシアが《進軍詩》を新しい歌へ変える回でした。
昔の進軍詩は、人を立たせる歌でした。
けれど新しい歌は、怖さを消すのではなく、怖いままでも自分で選び、帰る道を忘れないための歌になりました。
レオンもまた、「行ってきます」と言い、王都の人々は「行ってらっしゃい」と見送ります。
勝て、守れ、だけではなく、帰ってくることを願う言葉。
それが、今回の勇者編でたどり着いた一つの答えです。
続きも読んでいただけたら嬉しいです。




