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勇者の名前編 31話 裁かれる進軍詩

王城前広場に広がった不協和音は、静かに形を変えていく。


勇者へ向けられていた歪みは、今度はリシアの胸の奥へ触れようとしていた。


かつて戦場で歌った歌。

もう歌わないと決めた歌。

それでも、消えずに残っている旋律。


人を立たせた歌は、本当に誰かを救っていたのか。


リシアは、自分自身の歌に耳を澄ませる。


 歌が、聞こえた。


 リシア自身の歌だった。


 遠い戦場で、喉が裂けるほど歌った歌。


 泥に膝をついた兵士たちへ、震える手で剣を握る騎士たちへ、逃げ出したいと泣いていた若者たちへ向けて、何度も何度も届けた歌。


 進軍詩。


 もう二度と歌わないと決めた歌。


 その旋律が、胸の奥で勝手に鳴っている。


『立て』


『まだ守れる』


『恐怖を越えろ』


『前へ』


 違う。


 リシアは必死に息を吸った。


 ここは戦場ではない。


 王都だ。


 王城前広場だ。


 レオンがいて、マルセルがいて、ユーディがいて、エルネアがいて、王都の人々がいる。


 そう分かっているのに、視界の端が赤黒く滲んでいく。


 白い石畳が、泥に変わる。


 花飾りが、折れた旗に変わる。


 拍手の残響が、悲鳴に変わる。


「リシアさん!」


 レオンの声が聞こえた。


 近いはずなのに、遠い。


 リシアは膝をついたまま、歌詞帳を抱きしめていた。


 黒い欠片はもう見えない。


 けれど、歌詞帳の表紙の奥に入り込んだ何かが、リシアの記憶を揺さぶり続けている。


 シルが必死に前足でリシアの手を叩いていた。


 ちいっ。ちいっ。


 その声だけが、辛うじて今に繋ぎ止めてくれる。


「……大丈夫」


 言おうとした。


 けれど声にならなかった。


 喉の奥で、進軍詩の旋律が絡みつく。


 代わりに、黒い声が聞こえた。


『裁きなさい』


 冷たい女の声だった。


 ノエルの声ではない。


 もっと乾いていて、感情の温度がない。


『あなたの歌は、人を立たせた』


『立った者は、死地へ向かった』


『ならば、その歌は救いですか』


『それとも、罪ですか』


 視界が変わる。


 リシアは、王城前広場にいなかった。


 気がつけば、灰色の空の下に立っていた。


 足元には泥。

 遠くには崩れた防壁。

 風には血と煙の匂いが混じっている。


 戦争の最後の年。


 北砦。


 リシアが進軍詩を最も多く歌った場所だった。


「……やめて」


 リシアは呟いた。


 だが、声は止まらない。


 過去の自分の歌が、戦場に響く。


 若いリシアの声。


 今より少しだけ高く、迷いを知らないわけではないのに、それでも信じようとしていた声。


『震える足よ、まだ道はある。

 折れかけた剣よ、まだ光はある。


 守りたい名を胸に抱け。

 帰る場所の灯を思い出せ。


 恐れは消えずとも、

 その手はまだ誰かに届く。


 立て。

 あなたの後ろに、明日がある。』


 リシアは耳を塞いだ。


 けれど歌は止まらない。


 塞いだ耳の内側で鳴る。


 あの歌は、死ねと命じる歌ではなかった。


 少なくとも、リシアはそう思っていた。


 怖がる人たちを、無理に戦場へ押し出したかったわけではない。


 守りたいものを思い出してほしかった。

 逃げ遅れた民を助ける時間を稼ぎたかった。

 恐怖に潰されそうな心へ、ほんの少しだけ光を届けたかった。


 それなのに。


 歌を聞いた兵士たちは立ち上がった。


 前へ進んだ。


 そして、帰らなかった者がいた。


 泥の中に、ひとりの青年が見えた。


 片腕を押さえ、青ざめた顔でリシアを見ている。


 祝勝式の日に、進軍詩を聞きたくないと心で叫んでいた帰還兵だった。


『あの歌を聞いたら、また怖いって言えなくなる』


 彼の声が、戦場の音に混ざる。


 次に、別の声がした。


『リシアの歌を聞くとさ、私が何を守りたいのか思い出せるんだ』


 アイシャ。


 金の髪を風に揺らし、剣を肩に担いで笑っていた少女。


 リシアは息を呑んだ。


 戦場の奥に、アイシャの背中が見えた。


 白銀の鎧。

 青いリボン。

 剣の柄に結ばれた、小さな布。


 あの日と同じ姿。


「アイシャ!」


 リシアは叫んだ。


 アイシャは振り返らない。


 進軍詩が響いている。


 彼女はその歌を背に受けて、前へ歩いていく。


「行かないで!」


 声は届かない。


 泥が足に絡む。


 走ろうとしても進めない。


 黒い声が囁く。


『見なさい』


『あなたの歌が、彼女を前へ出した』


『あなたが歌わなければ、彼女は止まったかもしれない』


『あなたが黙っていれば、生きていたかもしれない』


「違う……」


 リシアは首を振った。


 けれど、強く否定できなかった。


 違うと言い切れる証拠がない。


 アイシャが何を思って前へ出たのか。


 本当に自分で選んだのか。


 それともリシアの歌に背中を押されすぎたのか。


 リシアには、もう確かめる術がない。


 アイシャは死んだと思っている。


 名前だけが石碑に刻まれ、遺体は戻らなかった。


 だからリシアは、何年も同じ問いに囚われてきた。


 私の歌は、アイシャを殺したのか。


 黒い声が優しく続ける。


『認めれば楽になります』


『その歌は罪だったと』


『進軍詩を捨てなさい』


『歌わなければ、もう誰も傷つけない』


 その言葉は、あまりにも甘かった。


 すべて罪だったと決めれば、考えなくて済む。


 進軍詩を悪い歌だと裁けば、封じる理由ができる。


 二度と歌わないと決めれば、もう間違えないように見える。


 けれど。


 リシアは、泥の中で震えている兵士たちを見た。


 進軍詩を聞いて立ち上がった人たち。


 その中には、帰らなかった人がいた。


 でも、帰った人もいた。


 逃げ遅れた子どもを抱えて戻った騎士。

 最後の橋を守り抜き、村人を逃がした兵士。

 泣きながら友の名を呼び、それでも遺体を置いて逃げずに連れ帰った若者。


 リシアの歌を憎んだ人もいた。


 救われたと言った人もいた。


 どちらかだけを真実にすることはできない。


「……裁けない」


 リシアは呟いた。


 黒い声が止まる。


『何を?』


「私には、進軍詩を完全な罪だとも、完全な救いだとも裁けない」


 言葉にした瞬間、胸の奥が痛んだ。


 逃げ道を失う痛み。


 歌は悪だった。


 そう決めてしまえば楽だった。


 歌は救いだった。


 そう信じ切れればもっと楽だった。


 でも、どちらにも逃げられない。


 リシアは泥の中で、ゆっくり立ち上がった。


「私の歌で立った人がいた。私の歌で前へ出て、帰らなかった人もいた。それは消えません」


 声が震える。


 けれど、止まらなかった。


「でも、私の歌だけで、あの人たちの選択を全部奪ったことにもしたくない」


 アイシャの背中が、遠くで揺らいだ。


「アイシャが何を選んだのか、私はまだ知らない。だから、私が勝手に決めてはいけない」


 黒い譜面がざわめく。


 戦場の空にひびが入る。


『では、どうするのです』


『その歌を抱えたまま、また歌うのですか』


『また誰かを立たせるのですか』


 リシアは答えられなかった。


 また歌えるのか。


 その問いには、まだ頷けない。


 でも、封じるだけでは駄目だと分かってしまった。


 進軍詩を閉じ込め続ける限り、リシアは過去の歌に怯え続ける。


 そして黒譜術は、その怯えを何度でも利用する。


 リシアは歌詞帳を開いた。


 戦場の幻の中でも、歌詞帳だけは手の中にあった。


 ページは黒く滲んでいる。


 その奥に、古い進軍詩の歌詞が浮かんでいた。


『立て』


 その一語が、特に黒く染まっている。


 リシアは羽ペンを持っていなかった。


 それでも、指先でページに触れる。


「立て、だけじゃ足りなかった」


 かつての自分へ向けて、リシアは言った。


「立てる人もいる。立たなきゃいけない時もある。でも、怖いと言う場所も必要だった。戻る道も必要だった。立たない選択を責めない歌も必要だった」


 ページの黒い滲みが、少しだけ薄れる。


「だから、私は進軍詩を捨てない」


 黒い声が冷たくなる。


『捨てない?』


「はい」


 リシアは顔を上げた。


「捨てるのではなく、変えます」


 戦場の幻が大きく揺れた。


『傲慢ですね』


 黒い声が言った。


『過去の歌で傷ついた者たちの前で、まだ歌を変えれば許されると思っている』


「許されるとは思っていません」


 リシアは即座に答えた。


「許されるために変えるんじゃない。二度と同じように歌わないために、向き合います」


 その時、遠くで小さな鳴き声がした。


 ちいっ。


 シルの声。


 幻の戦場に、銀色の小さな影が走る。


 シルは泥の上を必死に駆け、リシアの足元まで来ると、いつものように見上げた。


 場違いなほどふわふわした姿だった。


 けれど、その金色の目は真剣だった。


「シル……」


 シルはリシアの足元で、前足を歌詞帳に乗せた。


 その瞬間、歌詞帳の黒い滲みが一気に弾ける。


 戦場の幻に、王城前広場の光が差し込んだ。


 レオンの声が聞こえる。


「リシアさん!」


 マルセルの声。


「しっかりしろ!」


 エルネアの声。


「黒譜が彼女の歌詞帳に……!」


 そして、王都の人々のざわめき。


 リシアは現実へ戻り始めていた。


 黒い声が最後に囁く。


『変えられるものなら、変えてみなさい』


『ただし、次に歌う時、あなたは選ばなければならない』


『立たせるのか』


『止めるのか』


『帰らせるのか』


『それとも、すべてを曖昧な優しさで包むのか』


 リシアは唇を引き結んだ。


 答えはまだ完成していない。


 でも、ひとつだけ分かった。


 曖昧な優しさでは駄目だ。


 怖い人に、ただ「大丈夫」と歌ってはいけない。


 立てない人に、ただ「立て」と歌ってはいけない。


 帰りたい人に、前だけを向かせてはいけない。


 それでも、歩かなければならない時がある。


 守りたいもののために、震えながら立つ人もいる。


 その時に必要なのは、恐怖を消す歌ではない。


 恐怖を抱えたまま、自分の足で選び、帰る道を忘れないための歌。


 王城前広場の石畳が戻ってくる。


 リシアは息を吸った。


 冷たい空気が肺に入る。


 喉が痛い。


 けれど、声は出る。


 目の前に、レオンがいた。


 膝をついて、リシアを支えている。


 その顔には、勇者の完璧な笑みなどなかった。


 ただ、心配している青年の顔だった。


「リシアさん、聞こえますか」


「……はい」


 リシアは小さく答えた。


 シルが胸元に飛び込んできた。


 勢いが強すぎて、リシアは少しだけ後ろへ傾く。


「シル、苦しい」


 ちいっ。


 シルは怒っていた。


 たぶん、心配したのだ。


 リシアは震える手で、その背を撫でた。


「ごめんね。戻ってきたよ」


 シルはしばらくリシアの服を掴んだまま離れなかった。


 マルセルが周囲を警戒しながら言った。


「黒譜の気配は薄れた。だが、完全には消えていない」


 エルネアも楽譜を抱えたまま近づいてくる。


「凱旋讃歌の黒い譜面は崩れました。でも、最後の欠片があなたに入ったように見えました」


「はい」


 リシアは歌詞帳を開いた。


 ページの中央に、進軍詩の一節が浮かんでいる。


 けれど、以前のままではなかった。


『立て』


 その文字の隣に、新しい余白が生まれていた。


 まだ何も書かれていない。


 でも、そこに続く言葉が必要なのだと分かる。


 レオンが静かに尋ねた。


「進軍詩、ですか」


 リシアは頷いた。


「はい。私がずっと封じてきた歌です」


「黒譜術は、それを狙った」


「たぶん、私がこの歌を怖がっているからです」


 リシアはページを見つめた。


「でも、もうただ閉じておくだけでは駄目みたいです」


 レオンは何も急かさなかった。


 リシアはゆっくり立ち上がる。


 足元はまだ少しふらつく。


 レオンが支えようとしたが、リシアは自分で立った。


 拒んだわけではない。


 ただ、今は自分の足で立つ必要があった。


「レオンさん」


「はい」


「私は、まだこの歌を完成させられません」


 レオンは静かに頷いた。


「でも、逃げないことは決めました」


 その言葉を口にした瞬間、歌詞帳の余白に小さな文字が浮かんだ。


『立て、ではなく』


 そこまでだった。


 続きはまだ白い。


 リシアは息を吐く。


 まだ歌ではない。


 でも、昔の進軍詩が変わり始めている。


 王城前広場には、まだ多くの人が残っていた。


 彼らも今の異変を見ている。


 勇者の怖さ。

 王都の不安。

 帰還者の名前。

 凱旋讃歌の歪み。

 そして、リシア自身が倒れかけた姿。


 ここで終わらせれば、不安だけが残る。


 けれど、すぐに大きな歌を歌うこともできない。


 リシアはレオンを見た。


「レオンさん。今、王都の皆さんに言えることはありますか」


 レオンは少し考えた。


 その表情には疲労がある。


 恐怖もある。


 でも、逃げはなかった。


 彼は広場へ向き直った。


「皆さん」


 王都の人々が顔を上げる。


「先ほどの異変は、私たちが調べます。危険がないとは言いません。ですが、今ここで互いを責める必要もありません」


 レオンは一度、帰還した騎士たちを見た。


「負傷者を休ませてください。避難路を確認してください。水と布を用意してください。できることを、できる人から始めてください」


 そして、少しだけ声を柔らかくした。


「私も休みます。休んで、また立つために」


 広場に、小さなざわめきが広がる。


 勇者が、自分から休むと言った。


 それは大きな宣言ではない。


 でも、これまでのレオンなら口にできなかった言葉だった。


 マルセルが深く頷く。


「護衛隊は勇者殿の休息を確保する。王宮側にもそう伝える」


 文官が困ったように口を開きかけたが、今度はエルネアが先に言った。


「王宮歌術師団からも、式典の中断と負傷者対応を進言します。讃歌の譜面に異常があった以上、このまま祝宴へ進むべきではありません」


 文官は二人を見た。


 それから、レオンを見た。


 最後に、リシアを見る。


 しばらく沈黙した後、重く頷いた。


「……承知しました。式典は一時中断。王宮へ報告します」


 王城前広場が、ようやく動き始めた。


 華やかな凱旋式は崩れた。


 予定された祝宴も遅れるだろう。


 けれど、誰か一人に恐怖を預けるだけの式典は、ここで止まった。


 リシアは歌詞帳を閉じる。


 胸の奥では、まだ進軍詩の残響が鳴っている。


 怖い。


 それは消えない。


 けれど、今はその怖さを否定しなかった。


 リシアはシルを抱え直し、空を見上げた。


 夕暮れの空に、黒い譜面はもう見えない。


 ただ、王城の高い窓の一つに、誰かの影が立っていた。


 細い人影。


 黒い外套。


 こちらを見下ろしている。


 リシアが目を凝らした瞬間、その影はふっと消えた。


 ノエルではない。


 アイシャでもない。


 けれど黒譜の民だ。


 リシアは直感した。


 王都の一件は、まだ入口にすぎない。


 そして彼らは、リシアの進軍詩を知っている。


 リシアは歌詞帳を抱きしめた。


『立て、ではなく』


 まだ続きのない一文。


 その先を見つけるために、リシアは自分の過去と、もう一度向き合わなければならなかった。



ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


今回は、リシアが封じてきた《進軍詩》と向き合う回でした。


進軍詩は、完全な救いでも、完全な罪でもありません。

その歌で立ち上がった人がいて、救われた命がありました。

けれど同時に、その歌を聞いて前へ出て、帰らなかった人もいました。


リシアは今回、その歌をただ捨てるのではなく、変えることを選びます。


まだ新しい歌は完成していません。

けれど、逃げずに向き合うと決めたことが、大きな一歩になりました。


次話では、進軍詩をどう変えるのか。

そして王都に潜む黒譜の民の影へ、さらに近づいていきます。


続きも読んでいただけたら嬉しいです。


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