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勇者の名前編 30話 怖さを預けない歌

王城前広場に、黒い譜面が広がっていく。


祝福の声。

不安の声。

誰かに守ってほしいと願う声。


それらは、決して悪意だけで生まれたものではなかった。


けれど、怖さを誰か一人へ預けてしまう時、その声は優しさの形をした重荷になる。


リシアは、勇者と王都の間に置くべき歌を探し始める。


 王城前広場の空に、黒い譜面が広がっていく。


 夕暮れの光を押しのけるように、黒い音符が舞い上がり、旗の上を滑り、白い石の壇に影を落とした。


 それは魔物の咆哮のような分かりやすい脅威ではなかった。


 美しい凱旋讃歌の形をしている。


 王都を守ってほしいという祈りの形をしている。


 だからこそ、恐ろしかった。


「勇者様が、怖い……?」


 群衆の誰かが呟いた。


 その声はすぐに波紋のように広がった。


「勇者様が怖いなら、私たちはどうすればいいんだ」


「西方の砦では魔族が動いているんだろう?」


「また戦争になるのか?」


「子どもたちはどうなる?」


「誰かに、大丈夫だと言ってほしいだけなのに」


 責める声だけではない。


 怒りだけでもない。


 そこにあるのは、不安だった。


 王都の民は、勇者を傷つけたくて声を上げているわけではない。自分たちの暮らしが壊れるかもしれない恐怖を、どこへ置けばいいのか分からないのだ。


 その置き場所に、レオンが選ばれてしまっている。


 リシアは胸元の歌詞帳を握りしめた。


 ページに浮かんだ言葉が、まだ熱を持っている。


『怖いと告げる声を、誰か一人へ預けないために』


 それは答えではなかった。


 まだ歌詞でもない。


 けれど、今この場でリシアが向き合うべきものは分かっていた。


 レオンだけを守ればいいわけではない。


 王都の人々の恐怖を黙らせればいいわけでもない。


 怖いという声を、誰か一人の背中へ押しつけないこと。


 そのための歌が必要だった。


 黒い讃歌が強まる。


 壇上のレオンの足元にある魔法陣が、再び淡く光った。そこへ王都の不安が吸い寄せられていく。


 レオンは聖剣の柄に手を伸ばしかけた。


 無意識なのだろう。


 剣を抜き、何かを斬る。


 それが勇者として一番分かりやすい答えだから。


 だが、この黒譜術は剣で斬れるものではない。


 リシアは一歩踏み出した。


「レオンさん」


 彼の手が止まる。


「今、剣を抜かないでください」


 レオンは振り返った。


 その顔には迷いがあった。


「ですが、このままでは」


「はい。このままでは危険です」


「なら」


「でも、これは敵を斬れば終わるものではありません」


 リシアは広場を見渡した。


 震える子ども。

 祈る神官。

 泣きそうな顔で勇者を見る母親。

 拳を握りしめる若者。

 歌を止められず、喉を押さえる王宮歌術師たち。


 すべての声が混ざり合っている。


 リシアはそれを聞いた。


 聞きすぎれば、自分の感情と混ざる。

 怖い。

 助けてほしい。

 誰か何とかして。

 もう失いたくない。


 どれが民の声で、どれが自分の声なのか、一瞬分からなくなりかける。


 その時、肩の上のシルがリシアの髪を強く引いた。


「いたっ」


 反射的に声が出る。


 シルは真剣な顔で、もう一度ちいっと鳴いた。


 我に返る。


 リシアは小さく息を吐いた。


「ありがとう。戻れた」


 シルは、当然だと言うように胸を張った。


 その小さな仕草に、ほんの一瞬だけリシアの緊張がほどける。


 大丈夫。


 まだ自分の心はここにある。


 リシアは壇の前へ進んだ。


 王宮歌術師のエルネアが、苦しげに楽譜を押さえている。黒い譜面が楽譜の上で暴れ、誓いの節だけを何度も歌わせようとしていた。


「エルネアさん」


 リシアが呼ぶと、エルネアは顔を上げた。


「第二節を守ってください」


「ですが、黒譜が……」


「私が間を作ります。その間に、帰還の歌を続けてください」


「あなた一人で?」


「一人ではありません」


 リシアはレオンを見た。


 それからマルセル、ユーディ、帰還した騎士たちを見る。


「皆さんの名前が、さっき広場に届きました。今度は、皆さん自身の声を貸してください」


 ユーディが包帯の巻かれた腕を押さえながら、前へ出た。


「俺たちが、何を?」


「王都の人たちに、できることを伝えてください」


「戦うことを?」


「いいえ」


 リシアは首を横に振った。


「怖い時に、何をすればいいのかを」


 ユーディは一瞬、戸惑った。


 けれどすぐに表情を引き締める。


 彼は昨日、自分を盾にしようとした。


 死ぬことで役に立とうとした。


 そして今、生きて支えることを選び直している。


 だからこそ、言える言葉があるはずだった。


 ユーディは群衆へ向き直った。


「怖いなら、無理に大丈夫と言わなくていい!」


 声は震えていた。


 だが、確かに届いた。


「俺も怖いです。昨日も怖かった。今も怖い。でも、怖い時は一人で走らない。誰かに声をかける。道を空ける。怪我人を運ぶ。子どもを家に入れる。水を用意する。それだけでも、支えになります!」


 広場が静まる。


 民は、勇者の言葉ではなく、若い騎士の言葉を聞いていた。


 マルセルも前へ出る。


「王都の皆さん。避難路を塞がないでください。噂だけで走らないでください。鐘が鳴った時は、近くの衛兵の指示を聞いてください。恐怖は悪ではありません。だが、恐怖で互いを押し潰さないでください」


 それは演説ではなかった。


 具体的な指示だった。


 勇者にすべてを預ける代わりに、自分たちができることを思い出すための言葉。


 黒い譜面が揺らぐ。


 王都の不安は、まだ消えない。


 だが、行き場を少しずつ得ている。


 リシアは歌詞帳を開いた。


 今なら歌える。


 人を立たせるためではない。


 誰か一人を希望にするためでもない。


 怖さを、皆で持ち直すための歌。


 リシアは目を閉じ、静かに歌い始めた。


 最初の一音は、凱旋讃歌ほど華やかではなかった。


 王宮歌術師たちのように整った声でもない。


 だが、その音は広場のざわめきの隙間へ、そっと置かれるように広がった。


『怖いと告げた声を、

 恥じなくていい。


 震える手を隠すために、

 誰か一人を柱にしなくていい。


 高い旗の下に立つ人も、

 窓辺で祈る人も、

 同じ夜の風を聞いている。


 勝ってと願う前に、

 帰ってと呼ぶ声を。


 守ってと叫ぶ前に、

 共に支える手を。


 怖さは、罪ではない。

 けれど、怖さを誰かへ預けきれば、

 その人の名が見えなくなる。


 だから今、息を分けよう。

 声を分けよう。

 できることを、ひとつずつ持ち寄ろう。


 剣を持つ人だけが、守るのではない。

 歌う人だけが、救うのではない。

 待つ人の灯も、

 運ぶ人の水も、

 名を呼ぶ人の声も、

 帰る道を照らす力になる。』


 歌いながら、リシアは感じていた。


 これはまだ、完成した歌ではない。


 進軍詩が完全に変わったわけでもない。


 だが、確かに方向は違う。


 昔のリシアは、恐怖に震える人たちへ「立てる」と歌った。


 今は違う。


 怖いままでも、何を選ぶかを誰か一人に預けないために歌っている。


 広場の空気が少しずつ変わる。


 泣きそうだった子どもを、母親が抱きしめる。


「大丈夫って言えなくてもいいの?」


 子どもが聞いた。


 母親は少し迷い、それから答えた。


「怖いね。でも、手をつないでいよう」


 近くの商人が、広場の隅に置かれていた水桶へ目を向ける。


「水を運ぶなら、うちの者を出せる」


 別の男が頷いた。


「避難路なら、南通りを空けておいた方がいい」


「子どもたちを教会へ集めよう」


「怪我人が出た時のために布を」


 声が変わっていく。


 勇者へ向かっていた不安が、少しずつ王都自身の行動へ分かれていく。


 王宮歌術師たちも、エルネアを中心に本来の第二節を取り戻していた。


「帰りし人よ、剣を置け。

 傷つく手には、水を。

 眠れぬ夜には、灯を。

 名を呼ぶ家へ、足を休めよ」


 リシアの歌と、エルネアたちの歌が重なる。


 同じ歌ではない。


 だが、ぶつかっていない。


 片方は、帰還者を休ませる歌。


 もう片方は、恐怖を誰か一人へ預けないための歌。


 黒い譜面が、空の上で大きく裂けた。


 壇上の魔法陣もひび割れる。


 レオンの影に絡んでいた黒い線が解けていく。


 レオンはゆっくり息を吸った。


 そして、聖剣を抜かずに一歩前へ出る。


「王都の皆さん」


 広場の視線が彼へ集まる。


 今度の視線は、先ほどとは少し違っていた。


 すがりつくようなものだけではない。


 何を言うのか、聞こうとする視線だった。


「私は、怖いと言いました」


 レオンの声は落ち着いていた。


「それは消えません。今も怖い。失うことも、応えられないことも、私一人では足りないと知ることも、怖い」


 誰も笑わなかった。


 誰も否定しなかった。


「ですが、それでも私は守りたいと思っています。勇者としても、レオン・グランツとしても」


 リシアの胸が震えた。


 勇者としても。


 レオンとしても。


 どちらかを消すのではない。


 どちらも彼の中にあるものとして、初めて並べた。


「だから、私は一人で勝つとは誓いません」


 鐘楼の方から、黒い響きが最後の抵抗のように鳴った。


 だが、レオンは怯まなかった。


「皆と共に守ると誓います。そして、帰る道を失わないと誓います」


 その言葉が広場に落ちた瞬間、壇上の黒い魔法陣が砕けた。


 音はなかった。


 ただ、黒い譜面が紙片のように散り、夕暮れの光の中で消えていく。


 王都の人々は静まり返っていた。


 やがて、誰かが小さく言った。


「帰ってきてください」


 別の声が続く。


「無事で」


「一人で背負わないでください」


「私たちも、できることをします」


 拍手はすぐには起こらなかった。


 代わりに、広場のあちこちで人々が動き始める。


 水桶を運ぶ者。

 衛兵に避難路を確認する者。

 子どもを抱き寄せる者。

 帰還した騎士に椅子を差し出す者。


 それは派手な勝利ではなかった。


 けれど、確かな変化だった。


 リシアは歌を終え、息を吐いた。


 喉が少し痛む。


 心歌を聞きすぎたせいか、胸の奥も重い。


 それでも、倒れ込むほどではなかった。


 シルが肩の上から身を乗り出し、リシアの頬にそっと前足を添えた。


「大丈夫。ありがとう」


 ちい。


 シルはほっとしたように鳴いたあと、なぜかリシアのポーチを叩いた。


「今、干し果物の話をしてる?」


 ちい。


「してるんだ……」


 リシアは苦笑した。


 その小さなやり取りを、レオンが見ていた。


 彼は壇から降り、リシアの前に立つ。


「また、助けられました」


「私だけではありません」


「はい」


 レオンは広場を見渡した。


 マルセル。

 ユーディ。

 エルネア。

 王宮歌術師たち。

 王都の民。


「皆に、助けられました」


 その言い方は、以前の彼とは違っていた。


 守る対象としての皆ではない。


 共に支える人々としての皆。


 リシアはそれを聞いて、少しだけ微笑んだ。


 だが、安堵は長く続かなかった。


 砕けたはずの黒い譜面の欠片が、一つだけ消えずに残っていた。


 それは壇の下からするりと浮かび上がり、リシアの歌詞帳へ向かって飛んできた。


 シルが鋭く鳴く。


 リシアは避けようとしたが、間に合わなかった。


 黒い欠片が、歌詞帳の表紙に触れる。


 瞬間、リシアの視界が揺れた。


 王城前広場が遠のく。


 代わりに、土と血の匂いが広がった。


 戦場。


 焼けた旗。

 折れた槍。

 泣き叫ぶ兵士。

 そして、自分の歌声。


 進軍詩。


 封じたはずの歌が、胸の奥で勝手に鳴り始める。


『立て』


『まだ守れる』


『恐怖を越えろ』


『前へ』


 リシアは息を呑んだ。


 違う。


 今の歌ではない。


 これは過去の歌だ。


 しかし黒い欠片は、リシアの記憶からその旋律を引きずり出している。


 耳元で、誰かの声がした。


『見事でした、リシア』


 冷たい女の声。


 ノエルではない。


 もっと年齢の分からない、乾いた声。


『ですが、あなたも知っているはずです。人は、優しい歌で前へ出る。怖いと言いながら、それでも立つ。そして、帰らない』


 リシアの手が震える。


 歌詞帳の表紙に、黒い文字が浮かぶ。


『次は、あなたの番』


『勇者を救う前に、自分の進軍詩を裁きなさい』


 視界が戻った時、リシアは膝をついていた。


「リシアさん!」


 レオンが駆け寄る。


 シルが必死にリシアの手を前足で叩いている。


 リシアは荒い息を吐きながら、歌詞帳を見た。


 表紙に刻まれた黒い線は、すぐに消えた。


 だが、胸の奥では進軍詩の旋律がまだ鳴っている。


 王都の黒譜術は砕けた。


 けれど、それは終わりではなかった。


 次に黒譜術が狙ったのは、レオンではない。


 リシア自身の歌だった。


 リシアは震える手で歌詞帳を抱きしめた。


 昔の進軍詩を、ただ封じ続けることはもうできない。


 向き合う時が来てしまったのだ。





ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


今回は、王都の不安と勇者への期待が広がる中で、リシアが「怖さを誰か一人へ預けないための歌」を歌う回でした。


レオンは、勇者としても、レオンとしても、皆と共に守ると口にします。

王都の人々もまた、勇者へすべてを預けるのではなく、自分たちにできることを少しずつ選び始めました。


ただし、黒譜術は完全には終わりません。


最後に狙われたのは、レオンではなくリシア自身。

封じてきた《進軍詩》と、いよいよ向き合うことになります。


続きも読んでいただけたら嬉しいです。


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