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勇者の名前編 29話 書き換えられた凱旋讃歌

王城前広場へ続く大通りは、花と旗で彩られていた。


帰還を祝う声。

勇者を待つ人々。

希望を求めるまなざし。


それは本来、誰かを温かく迎えるためのものだったはずだ。


けれど、美しい讃歌の奥で、リシアの歌詞帳が静かに震える。


祝福が誰かの名を覆い隠す時、その歌は本当に届いていると言えるのか。


リシアは、歓声に満ちた広場へ足を踏み入れる。




 王城前広場へ続く大通りは、花と旗で埋め尽くされていた。


 白い布が建物から建物へ渡され、青いリボンが風に揺れている。通りの両脇には王都の人々が並び、子どもたちは親の肩越しに勇者の姿を探していた。露店の者たちも商売の手を止め、門から進んでくる隊列へ顔を向けている。


 王都は、勇者の帰還を祝うために整えられていた。


 それ自体は、決して悪いことではない。


 戦いが続く中で、人々には希望が必要だった。

 帰ってきた者を迎える場も、無事を喜ぶ声も、本来なら人の心を温めるものだ。


 けれどリシアは、大通りの先にある王城前広場を見つめながら、胸元の歌詞帳を強く握っていた。


 さきほど歌詞帳に浮かんだ黒い文字。


『王城前広場』


『凱旋讃歌』


『名を捧げ、役目を完成させよ』


 その意味を考えるたび、喉の奥が冷えていく。


 黒譜術は、ただ人々に不安を与えるだけではない。


 むしろ逆だ。


 祝福を利用する。

 感謝を利用する。

 人々の「どうか守ってほしい」という願いを、勇者一人を縛る歌へ変える。


 大門前で帰還者の名前を守れたのは、ほんの入口にすぎなかった。


 本番は、これからだ。


「リシアさん」


 馬を降りて歩いていたレオンが、少し後ろを振り返った。


「顔色が悪い」


「レオンさんもです」


 思わずそう返すと、レオンは一瞬だけ目を丸くした。


 それから、小さく苦笑する。


「言い返されるとは思いませんでした」


「毎回、私だけ心配されるのは不公平です」


「それは確かに」


 ほんの短いやり取りだった。


 だが、その一瞬だけ、レオンの心歌から硬さが薄れた。


 シルがリシアの肩の上で、ちい、と鳴く。


 まるで、もっと言ってやれ、とでも言いたげだった。


「シルもそう思う?」


 ちい。


「味方が増えました」


 リシアが言うと、レオンは少しだけ笑った。


 その表情は、王都の人々が思い描く完璧な勇者の笑みではなかった。疲れていて、困っていて、けれど少しだけ息をしている青年の顔だった。


 それを見て、リシアは改めて思う。


 この顔を、消させてはいけない。


 王城前広場には、すでに式典の準備が整っていた。


 広場の中央には白い石の壇があり、その背後に王国旗と勇者旗が並ぶ。壇の左右には王宮直属の歌術師たちが整列していた。白い式典服に青い肩布をかけ、手には楽譜を持っている。


 さらに奥、王城の階段付近には貴族や王宮関係者らしき人々が席を並べている。


 王都全体が、ここを中心に息を整えているようだった。


 マルセルが低い声で言った。


「警戒を広げろ。鐘楼、歌術師列、壇の下を確認。怪しい術式があれば報告しろ」


 騎士たちがすぐに動く。


 以前なら、レオンが真っ先に前へ出ていたかもしれない。だが今は、マルセルが指示を出し、レオンはそれを止めなかった。


 それだけでも、変化だった。


 リシアは歌術師たちの方へ向かった。


 すると、一人の女性がこちらに気づき、戸惑ったように会釈する。


 年は三十前後だろう。落ち着いた顔立ちで、濃い栗色の髪をまとめている。胸元には王宮歌術師の徽章があった。


「あなたが、リシア・フェルミナさんですね」


「はい」


「王宮歌術師のエルネア・フィリスです。先ほどから、あなたのことは聞いています」


 言い方に棘はなかった。


 しかし、警戒はある。


 無理もない。


 王都の正式な式典に、旅の歌魔術師が突然関わろうとしているのだ。


 リシアは頭を下げた。


「式典の前に、凱旋讃歌の楽譜を見せていただけませんか」


 エルネアの表情が少し硬くなる。


「王宮管理の楽譜です。部外者に見せることは」


「黒譜術の痕跡があります」


 リシアははっきり言った。


 周囲の歌術師たちが息を呑む。


 エルネアの目が鋭くなった。


「根拠は」


「歌詞帳に反応が出ました。それと、鐘に混ざっていた黒い響きが、この広場の讃歌へ繋がっています」


「歌詞帳の反応だけで、王宮式典を疑うのですか」


「はい」


 リシアは逃げずに頷いた。


「疑います。間違っていたら、あとで謝ります。でも、疑わずに歌ってしまえば、取り返しがつかないかもしれません」


 エルネアはしばらくリシアを見つめていた。


 その瞳には、怒りよりも迷いがあった。


 やがて彼女は、手元の楽譜を見下ろす。


「……実は、私もおかしいと思っていました」


 その声は小さかった。


 リシアは顔を上げる。


「おかしい?」


「この凱旋讃歌は古い歌です。本来は、帰還した兵を迎えるための歌でした」


 エルネアは楽譜をそっと開く。


 周囲の若い歌術師たちも不安げに覗き込んだ。


「第一節は帰還。第二節は慰労。第三節は祈り。最後に誓い。そういう構成だったはずです」


「だったはず、ということは」


「今回配られた譜面では、第二節がありません」


 リシアは息を呑んだ。


 エルネアはページをめくる。


「慰労の節が削られ、誓いの節が二度繰り返される形になっています。王宮の改訂だと説明されました。勇者殿の凱旋にふさわしく、より力強い歌にしたと」


 より力強い歌。


 その言葉が、リシアの胸に冷たく落ちる。


 休息の言葉を削り、誓いを重ねる。


 それは偶然ではない。


 リシアは楽譜を見た。


 表面上の文字は美しい。


『光の勇者よ、民の前に立て』


『勝利を掲げ、闇を祓え』


『その剣に迷いなく、その名に恐れなく』


『我らの希望として、永久に輝け』


 普通に読めば、勇者を讃える歌だった。


 けれどリシアには、文字の隙間に黒い譜面が見える。


『立て』


『迷うな』


『恐れるな』


『名を捧げよ』


『帰る者ではなく、希望であれ』


 シルが肩の上で毛を逆立てた。


 エルネアも、リシアの顔色の変化に気づいたのだろう。


「見えるのですね」


「はい」


「私は見えません。ただ、歌おうとすると胸が重くなるんです。勇者殿を讃える歌なのに、まるで誰かの首に布を巻くような感覚がある」


 リシアは楽譜から目を離さなかった。


「第二節の、慰労の歌詞は分かりますか」


 エルネアは迷わず答えた。


「覚えています。王宮歌術師なら、誰でも一度は学ぶ古歌です」


「聞かせてください」


 エルネアは目を伏せ、小さな声で口ずさんだ。


「帰りし人よ、剣を置け。

 傷つく手には、水を。

 眠れぬ夜には、灯を。

 名を呼ぶ家へ、足を休めよ」


 その一節を聞いた瞬間、リシアの歌詞帳が温かく震えた。


 これだ。


 本来の讃歌には、帰還した人を休ませる言葉があった。


 しかし黒譜術はそこを削り、誓いだけを残した。


 歌そのものが悪いのではない。


 歌から、帰るための場所が奪われている。


 リシアは顔を上げた。


「エルネアさん。この第二節を戻してください」


 エルネアは唇を噛んだ。


「今から式次第を変えるのは、簡単ではありません。王宮の許可が」


「許可を待っている間に、歌が始まります」


「分かっています。でも、私たちは王宮歌術師です。勝手に歌詞を変えれば処罰も」


 彼女の声が震えた。


 それは保身だけではなかった。


 王宮歌術師として式典を守る責任。

 王都の民の前で混乱を起こす恐怖。

 自分の判断で大きな儀式を変える重み。


 リシアはその心歌を聞いた。


 責められない。


 彼女もまた、役目の中で揺れている。


 だからリシアは、歌わなかった。


 代わりに、静かに言った。


「私も怖いです」


 エルネアが顔を上げる。


「歌って間違えたことがあります。歌わなくて後悔したこともあります。だから、今ここで正しい答えを持っているわけではありません」


 リシアは楽譜へ視線を落とした。


「でも、この譜面はおかしい。そう感じたのは、エルネアさん自身ですよね」


「……はい」


「なら、その感覚をなかったことにしないでください」


 エルネアの手が楽譜を握りしめる。


 その時、王城の階段側から式典係の声が響いた。


「凱旋讃歌、準備を!」


 歌術師たちが一斉に姿勢を正す。


 エルネアの顔に緊張が走った。


 間に合わない。


 リシアは歌詞帳を開いた。


 白いページに、黒い線が広がっていく。


 黒譜術が、歌の始まりに合わせて力を増している。


 広場の中央では、レオンが壇へ導かれていた。


 文官が彼を中央に立たせ、聖剣を掲げる位置を示す。


 その足元に、リシアは薄い魔法陣を見た。


 白い石に紛れているが、確かに術式が刻まれている。


 声を集めるための円。


 歌術そのものではない。

 王宮式典でよく使われる、祝福を壇上へ集めるための補助術式だろう。


 だが、その外縁に黒い譜面が絡んでいた。


 讃歌で集めた民の声を、レオンへ集中させるための器。


 レオンの名を、勇者の役目へ縫い止めるための仕掛け。


 リシアの胸が強く鳴った。


「レオンさんを、円から下げてください」


 近くに来ていたマルセルが即座に反応した。


「術式か」


「はい。足元です。声を集める円に黒譜が混ざっています」


 マルセルはすぐに動こうとした。


 だが、その瞬間、凱旋讃歌の前奏が始まった。


 王宮歌術師たちの声が、広場に広がる。


 美しい声だった。


 訓練された呼吸。

 揃った旋律。

 王都の空へまっすぐ昇る音。


 それなのに、リシアにはその歌が黒い糸を引いて見えた。


『光の勇者よ、民の前に立て』


 第一節が始まる。


 人々が顔を上げる。


 王都中の視線が、レオンへ集まった。


 レオンの足元の円が淡く光る。


 黒い譜面がゆっくりと彼の影へ伸びていく。


 レオンの表情が変わった。


 体が動かないわけではない。


 だが、心が引き寄せられている。


『立て』


『応えろ』


『勇者として』


『希望として』


 リシアは歌い出そうとして、止まった。


 今ここで別の歌を重ねれば、王宮歌術師たちの歌とぶつかる。


 黒譜術は、その衝突を利用するかもしれない。


 それに、この讃歌には本来の形がある。


 奪われた第二節がある。


 ならば、まず取り戻すべきは、歌を壊すことではない。


 歌の中から消された言葉を戻すこと。


 リシアはエルネアを見た。


「第二節を」


 エルネアの唇が震える。


「私が歌えば、他の者とずれます」


「ずれていいです」


「式典が乱れます」


「乱れても、届く言葉があります」


 エルネアは目を閉じた。


 第一節が終わろうとしている。


 譜面通りなら、このまま誓いの節へ入る。


 勇者を立たせる歌へ。


 エルネアは深く息を吸った。


 そして、譜面とは違う旋律を歌い出した。


「帰りし人よ、剣を置け」


 周囲の歌術師たちが驚く。


 声が乱れる。


 式典係が目を見開く。


 だが、エルネアは止まらなかった。


「傷つく手には、水を」


 その声に、リシアは小さく守護詩の響きを重ねた。


 エルネアを前へ押すためではない。


 彼女自身が選んだ歌を、黒譜術に潰されないよう守るために。


 黒い譜面がエルネアの声へ絡みつく。


 音が軋む。


 彼女の喉が詰まりかける。


 その時、別の若い歌術師が震えながら声を重ねた。


「眠れぬ夜には、灯を」


 また一人。


 さらに一人。


 王宮歌術師たちの中に、迷いながらも本来の第二節を思い出す者が現れる。


「名を呼ぶ家へ、足を休めよ」


 広場の空気が変わった。


 勇者だけへ向かっていた視線が、帰還者たちへ移る。


 負傷した騎士。

 疲れた兵。

 馬を引く従者。

 治療班の女性。


 そして、壇上のレオン。


 彼もまた、帰ってきた人なのだと。


 歌が、ほんの一瞬だけ思い出させた。


 レオンの足元の黒い円が揺らぐ。


 マルセルがその隙を逃さなかった。


「レオン、下がれ!」


 レオンは反射的に動きかけた。


 だが、黒い譜面が影のように足元へ絡む。


 壇上の魔法陣が強く光った。


 讃歌の誓いの節が、黒譜術によって無理やり立ち上がる。


 王宮歌術師たちの声ではない。


 楽譜そのものが歌っているような、冷たい響きだった。


『勇者よ、誓え』


『民の前に』


『勝利を』


『休まず』


『迷わず』


 レオンの体が止まる。


 群衆の不安が一気に吸い上げられていく。


 恐怖。

 期待。

 祈り。

 どうか守ってほしいという声。


 それらが黒い譜面に絡め取られ、壇上のレオンへ降り注ぐ。


 リシアは喉の奥に痛みを感じた。


 これは、戦場の進軍詩に似ている。


 恐怖の中で誰かを立たせる声。


 けれど違う。


 今、レオンに向かっているのは「立て」ではなく「誓え」だ。


 人々の不安を安心させるために、自分を差し出せという命令。


 レオンの心歌が乱れる。


『言わなければ』


『民が不安になる』


『勇者なら』


『私は』


『勝つと』


 リシアは叫んだ。


「言わないでください!」


 広場がざわめく。


 レオンの唇がわずかに開いていた。


 勝利を誓う言葉。


 完璧な勇者なら言うべき言葉。


 その一言を、黒譜術は待っている。


 レオンが自分の口で誓えば、黒い歌は完成する。


 マルセルが壇へ駆け上がろうとする。


 ユーディも動く。


 しかし黒い譜面が空気を重くし、足を遅らせる。


 リシアは歌詞帳を握った。


 ここで歌うしかない。


 でも、勇者を励ます歌ではない。

 民を黙らせる歌でもない。

 王宮歌術師の歌を壊す歌でもない。


 今必要なのは、レオンが自分の言葉を失わないための隙間。


 リシアは息を吸った。


 だが歌い出す直前、レオンが自分で目を閉じた。


 そして、小さく言った。


「……怖い」


 その声は、広場全体に届くほど大きくはなかった。


 けれど、魔法陣が声を拾った。


 王城前広場に、勇者の本音が響く。


「私は、怖い」


 黒い譜面がひび割れた。


 群衆が静まり返る。


 勇者が怖いと言った。


 人類の希望が、迷いを口にした。


 レオンは目を開けた。


 顔は青ざめている。


 それでも、彼は立っていた。


「それでも、守りたいと思っています。ですが、一人で誓えば、私はまた一人になります」


 声が震える。


 けれど、止まらない。


「だから、勝利を一人で誓うことはできません」


 広場の空気が大きく揺れた。


 黒い譜面は完全には消えていない。


 むしろ、怒ったように広がっていく。


 王城前広場の空に、黒い音符が浮かび上がった。


 歌術師たちの楽譜がばらばらとめくれ、誓いの節だけが黒く染まっていく。


 リシアは悟った。


 レオンは自分の言葉を取り戻した。


 けれど、黒譜術はまだ終わらない。


 今度はレオンだけでなく、王都の不安そのものを暴走させようとしている。


 人々のざわめきが再び膨らむ。


「勇者様が怖い?」


「じゃあ、誰が守ってくれるんだ」


「西方はどうなる」


「怖いのは私たちだって同じだ」


 それは責めだけではなかった。


 民の本物の恐怖だった。


 レオンが本音を出したことで、今度は民自身の恐怖も表に出てきたのだ。


 リシアは、その声を聞いた。


 聞かなければならない。


 ここで民の不安を悪者にしてはいけない。


 勇者を縛る声の奥には、守ってほしいと震える人々の心がある。


 リシアは歌詞帳を開いた。


 白いページの上に、細い文字が浮かぶ。


『怖いと告げる声を、誰か一人へ預けないために』


 まだ完成していない。


 けれど、次に歌うべき方向は見えた。


 レオンを立たせる歌ではない。


 王都を黙らせる歌でもない。


 怖さを、誰か一人の背中へ押しつけないための歌。


 リシアは顔を上げた。


 黒い譜面が、王城前広場の空を覆い始めている。


 次に歌を間違えれば、王都全体が勇者を縛る歌に呑まれる。


 シルが肩の上で、静かにリシアの髪を掴んだ。


 今度は茶化す仕草ではなかった。


 支えるような、小さな重みだった。


 リシアは頷く。


 歌う時が来た。


 ただし、昔の進軍詩ではない。


 恐怖を消す歌でもない。


 怖いと告げた勇者と、怖いと震える王都の間に置く歌。


 その最初の一音を、リシアは胸の奥で探し始めた。



ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


今回は、王城前広場で凱旋讃歌の仕掛けが明らかになる回でした。


本来の凱旋讃歌には、帰ってきた人を休ませるための節がありました。

けれど黒譜術によってその部分が削られ、勇者に誓いだけを求める歌へ書き換えられていました。


レオンはその中で、王都の前で初めて「怖い」と口にします。


それは勇者としての崩壊ではなく、レオン自身の言葉を取り戻すための一歩でした。


次話では、王都の不安と勇者への期待がさらに広がる中で、リシアが新しい歌を探していきます。


続きも読んでいただけたら嬉しいです。


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