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勇者の名前編 28話 ただいまを奪う鐘

王都の城壁が、夕陽の中に見えてくる。


長い旅路の終わりを告げるように、門の向こうでは祝福の鐘が鳴っていた。


帰還を喜ぶ声。

勇者を待つ人々。

希望が戻ったと告げる音。


けれど、その鐘の響きに、リシアは小さな歪みを聞き取る。


帰る場所へ向かっているはずなのに、なぜその音は胸を重くするのか。


リシアは、王都から響く鐘の奥へ耳を澄ませる。


 王都の城壁は、夕陽を受けて白く輝いていた。


 高く積み上げられた石壁。

 空へ突き出す尖塔。

 門の上に掲げられた王国旗と、勇者の紋章旗。


 それは遠くから見れば、美しい帰還の景色だった。


 けれど、リシアの耳には、王都から響く鐘の音がひどく歪んで聞こえていた。


 澄んだ鐘の音の奥に、黒い譜面が混ざっている。


 普通の人には分からないだろう。

 祝福の鐘。

 勇者の帰還を知らせる鐘。

 民の不安を和らげ、王都に希望が戻ったと告げる音。


 だが、リシアには聞こえる。


『勇者よ、戻れ』


『名ではなく、役目へ』


『疲れを置け』


『迷いを置け』


『民の前に立て』


 リシアは荷馬車の上で、歌詞帳を押さえた。


 革表紙の下で、ページが震えている。


 肩に乗ったシルも、いつものように木の実をかじってはいなかった。銀色の大きな尻尾を膨らませ、王都の鐘楼をじっと睨んでいる。


「シル。聞こえてる?」


 ちいっ。


 短い返事は、明らかな警戒の音だった。


 王都へ近づく道には、いくつもの馬車と旅人が並んでいた。勇者の帰還を見ようと、周辺の村や宿場からも人が集まっているらしい。


 その視線は、隊列の先頭を進むレオンへ向いていた。


 白銀の鎧。

 青い外套。

 腰の聖剣。

 夕日に金色を帯びる髪。


 誰もが、勇者を見ていた。


 けれど、リシアはその後ろに続く騎士たちを見ていた。


 包帯を巻いた腕を隠すユーディ。

 馬上で何度も隊列を確認するマルセル。

 疲れを押し殺して背筋を伸ばす護衛騎士たち。

 補給馬車の陰で、眠気と痛みに目を擦る若い兵。


 彼らも帰ってきた。


 でも、王都の鐘が呼んでいるのは、ほとんどレオンだけだった。


 リシアの胸が、静かに痛む。


 祝福が悪いわけではない。

 人々が勇者を待っていたことも、間違いではない。

 魔族の脅威に怯える王都の民が、レオンに希望を見たい気持ちも本物だ。


 だからこそ、危うい。


 本物の願いほど、黒譜術こくふじゅつに歪められやすい。


 鐘の音がさらに強くなった。


 レオンの背中が、わずかに硬くなる。


 リシアには彼の心歌が聞こえた。


『笑え』


『大丈夫だ』


『王都まで戻った』


『ここで崩れるな』


『皆が見ている』


 その声は、もうリシアにとって聞き慣れたものになっていた。


 だからこそ、ここで同じ言葉を繰り返してはいけない。


 休んでください。

 一人で背負わないでください。

 レオンさん。


 それらは大切な言葉だ。


 けれど、何度も同じ形で差し出せば、レオンの痛みをなぞるだけになる。


 今、必要なのは別の一手だった。


 王都の大門前に着くと、隊列は止まった。


 門の前には、式典のための仮設壇が用意されていた。王宮の文官、儀仗兵、教会の神官、そして王都直属の歌術師たちが並んでいる。


 その中央に、大きな羊皮紙が広げられていた。


 リシアはそれを見た瞬間、眉を寄せた。


 名簿だ。


 帰還者名簿。


 王都へ戻った者たちの名を読み上げ、無事の帰還を確認するための儀式なのだろう。


 悪い儀式ではない。


 本来なら、とても大切なもののはずだった。


 名前を呼ぶこと。

 帰ってきた人を、一人の人として迎えること。


 レムナで名の断章を得たリシアには、その意味が分かる。


 だからこそ、すぐに違和感に気づいた。


 名簿の上に、黒い線が走っている。


 墨ではない。


 譜面だ。


 黒譜術が、帰還者名簿に重なっていた。


「……名前に」


 リシアは小さく呟いた。


 シルが肩の上で低く鳴る。


 ちい。


 黒譜は、名前を消そうとしているわけではなかった。


 もっと厄介だ。


 名前の上に、別の言葉をかぶせている。


 勇者。

 随行騎士。

 戦力。

 勝利の証人。

 希望の隊列。


 ひとりひとりの名を、役割へ置き換えようとしている。


 文官が壇上へ上がった。


 細身の男で、整った声をしている。深い紺の礼服を着て、胸には王宮文官の徽章が光っていた。


「勇者レオン・グランツ殿、および北方戦線随行隊の皆様。王都へのご帰還、誠に喜ばしく存じます」


 広場から拍手が起こる。


 レオンは静かに頭を下げた。


 マルセルたちもそれに続く。


 文官は名簿を手に取り、声を張った。


「これより、王都帰還の確認を行います。まずは、王国の希望、民の剣、光の勇者、レオン・グランツ殿」


 歓声が上がった。


「勇者様!」


「レオン様!」


「王都へお帰りなさい!」


 レオンは一歩前へ出た。


 その姿は、絵に描いたような勇者だった。


 けれどリシアは、彼の指がほんのわずかに震えたのを見逃さなかった。


 文官は続ける。


「続いて、勇者随行騎士団一同」


 リシアの目が細くなる。


 一同。


 その言葉で、名簿の数行が黒く霞んだ。


 本来なら、そこに名前があるはずだった。


 マルセル。

 ユーディ。

 負傷した騎士。

 馬車を守った兵。

 伝令。

 癒し手。

 食事を配った者。

 道を整えた者。


 その名が、まとめて「一同」へ押し込まれる。


 マルセルの表情がわずかに変わった。


 ユーディも、自分の名が呼ばれないことに気づいたように目を伏せた。


 文官に悪意はないのかもしれない。


 式典を簡略化するため。

 主役を勇者に絞るため。

 民の関心を分かりやすくするため。


 だが、黒譜術はその簡略化を利用している。


 帰ってきた人々を、役割へ沈めている。


 リシアは一歩前へ出た。


 前回のように、レオンだけへ声をかけるのではない。


 今回は、帰還者の名を守らなければならない。


「お待ちください」


 文官の声が止まった。


 広場の視線がリシアへ向く。


 マルセルが小さく息を呑み、レオンも振り返った。


 リシアは壇上の名簿を見つめたまま、静かに言った。


「その名簿には、随行した方々の名前が記されていますか」


 文官は少し困惑した顔をした。


「もちろん記されております。しかし式典の進行上、全員の名を読み上げる時間は」


「時間がないから、帰ってきた人の名前を省くのですか」


 言った瞬間、リシア自身も胸が痛んだ。


 強い言い方だった。


 文官を責めたいわけではない。


 でも、ここで曖昧にすれば、黒い譜面は名を飲み込む。


 文官は眉を寄せた。


「歌術師殿。これは王宮で定められた式次第です。勇者殿の凱旋を民へ示すための」


「レオンさんだけが帰ってきたわけではありません」


 リシアは言った。


 広場が静まる。


 鐘は鳴り続けている。


 黒い響きが、ざわめきを押し広げようとする。


『勇者を見ろ』


『他は添え物だ』


『希望は一人でいい』


 リシアは、その音に飲まれないよう息を整えた。


 歌わない。


 まだ歌ではない。


 言葉で届くなら、言葉でいい。


 レオンがゆっくりと歩み出た。


「彼女の言う通りです」


 文官が驚いて振り向く。


「勇者殿」


「私は、一人で王都へ戻ったわけではありません」


 レオンは群衆へ向き直った。


 声は穏やかだったが、確かに広場へ届いた。


「北方からここまでの道を開いた者がいます。夜通し警戒に立った者がいます。負傷しながら馬車を守った者がいます。恐怖を抱えながら、それでも逃げなかった者がいます」


 ユーディが顔を上げた。


 包帯を巻いた腕が、夕陽に照らされる。


 レオンは少しだけ振り返り、彼を見た。


「ユーディ・カルム」


 突然名を呼ばれ、ユーディは背筋を伸ばした。


「はい!」


「帰還を報告してください」


 ユーディは一瞬、何を言えばいいのか分からない顔をした。


 だが、すぐに唇を引き結び、広場へ向き直る。


「ユーディ・カルム。北方随行隊所属。王都へ帰還しました」


 その声は震えていた。


 けれど、確かな声だった。


 黒い譜面が、名簿の上で小さく弾ける。


 リシアは胸の奥で、名の断章がかすかに鳴るのを感じた。


 名前は、役目に沈むものではない。


 消えそうな夜に灯す火。


 マルセルが一歩前へ出た。


「マルセル・ディノア。勇者護衛隊長。王都へ帰還しました」


 続いて、他の騎士たちも名乗り始めた。


「グレン・アシェル。帰還しました」


「ロイド・ファルク。帰還しました」


「テオ・バルム。帰還しました」


「ナディア・コルテ。治療班。帰還しました」


 最初は戸惑っていた人々も、次第に静かになっていった。


 歓声ではない。


 熱狂でもない。


 名前を聞くための沈黙だった。


 王都の民は、初めて勇者の後ろにいた人々を見る。


 彼らにも名があることを知った。


 ただの随行隊ではなく、帰ってきたひとりひとりなのだと気づき始めた。


 文官は唇を引き結んでいた。


 面目を潰されたと感じているのかもしれない。


 けれど、彼もまた名簿を見る目を変えていた。


 名簿の黒い線が、少しずつ薄れていく。


 だが、完全には消えない。


 鐘楼から強い音が鳴った。


 広場全体が震える。


 リシアの喉に、冷たい圧がかかった。


『名を呼ぶな』


『役目へ戻せ』


『勇者を中心に置け』


『民には分かりやすい希望が必要だ』


 黒譜術が、鐘を通して広場の空気を押し返してくる。


 人々のざわめきが再び揺れた。


「でも、勇者様がいるから安心できるんだ」


「皆の名前も大事だけど、今は西方の脅威が」


「勇者様に勝利を誓ってもらわないと不安だ」


 リシアはその声を責められなかった。


 王都の民も怖いのだ。


 戦争が終わったはずなのに、また魔族の動きがある。

 北方で戦った者たちが帰ってきたばかりなのに、次の危機が迫っている。

 誰かに「大丈夫」と言ってほしい。


 その願いは本物だ。


 けれど、その本物の願いがレオン一人へ集まれば、鎖になる。


 レオンが一歩前に出た。


 聖剣の柄には触れない。


 抜かない。


 ただ、自分の声で言葉を選んでいる。


「王都の皆さん」


 広場が静まった。


「私は、皆さんを安心させるために、必ず勝つと今ここで言うこともできます」


 文官がほっとしたように顔を上げかける。


 しかし、レオンは続けた。


「ですが、それだけでは足りません」


 ざわめきが止まる。


「勝つためには、私一人ではなく、多くの人の力が必要です。騎士だけではありません。傷を癒す人、食事を作る人、情報を運ぶ人、家族を待つ人、恐怖を抱えながら日々を守る人。そのすべてが、王都を支えています」


 レオンの声は、勇者としての演説に近い。


 けれど、以前とは違った。


 民を安心させるために自分を消す言葉ではない。


 自分だけを希望にしないための言葉だ。


「だから私は、ここで皆さんに一つお願いがあります」


 鐘が鳴る。


 黒譜の響きが、レオンの言葉を遮ろうとする。


 しかしレオンは止まらなかった。


「私たちが帰ってきた時は、勝利だけではなく、無事も喜んでください」


 広場が沈黙した。


 その言葉は、勇ましいものではなかった。


 魔族を倒す宣言でもない。

 聖剣の奇跡を語るものでもない。

 人類の希望らしい華やかな言葉でもない。


 けれど、王都の大門前に立つ帰還者たちには、確かに届いた。


 ユーディが唇を噛み、深く頭を下げる。


 マルセルは目を伏せたまま、静かに息を吐いた。


 リシアは、歌詞帳が少し温かくなるのを感じた。


 まだ歌ではない。


 でも、歌になる前の言葉だった。


 その時、群衆の中から小さな声が上がった。


「おかえりなさい」


 子どもの声だった。


 誰に向けたものか分からない。


 レオンへかもしれない。

 ユーディへかもしれない。

 帰還した騎士たち全員へかもしれない。


 でも、その一言で空気が変わった。


「おかえりなさい」


 今度は別の人が言った。


「よく帰ってきてくれた」


「怪我してるじゃないか。休んでくれ」


「勇者様だけじゃない、皆も」


 拍手が起こった。


 前のような熱狂の拍手ではない。


 大きな英雄へ浴びせる拍手ではなく、帰ってきた人々へ向ける拍手だった。


 リシアは目を閉じそうになる。


 よかった。


 そう思った瞬間、シルが肩の上で鋭く鳴いた。


 ちいっ!


 リシアははっと顔を上げる。


 鐘楼の音が止まった。


 不自然な静寂。


 その直後、王城前広場の方から、別の旋律が流れてきた。


 歌だ。


 まだ正式な凱旋式は始まっていないはずだった。


 しかし、遠くの大通りの先で、王宮直属の歌術師たちが声合わせを始めている。


 その旋律は美しかった。


 王国の古い讃歌だ。


 勇者の帰還を讃え、民の希望を歌うための曲。


 だが、その下に黒い譜面がある。


 鐘よりも深い。


 名簿よりも強い。


 王都中の不安と期待を集め、凱旋式の場で一気にレオンへ注ぎ込むための仕掛け。


 リシアの歌詞帳が勝手に開いた。


 白いページに、黒い文字が浮かぶ。


『王城前広場』


『凱旋讃歌』


『名を捧げ、役目を完成させよ』


 リシアの背筋が冷えた。


 名簿は前触れだった。


 本命は、これから始まる凱旋式。


 レオンの名前を勇者という役目へ完全に縫い止めるための讃歌。


 レオンもその異変に気づいたのだろう。


 表情が変わる。


 勇者の顔になりかけた。


 すぐに向かおうとする足。


 聖剣に伸びかける手。


 リシアはそれより早く言った。


「一人で行かないでください」


 レオンの手が止まった。


 マルセルがすぐに横へ立つ。


「当然だ。今度は最初から隊で動く」


 ユーディも一歩前へ出た。


「俺も行きます。盾になるためじゃなく、生きて支えるために」


 レオンは彼らを見た。


 そして、ゆっくり頷いた。


「分かりました。一人では行きません」


 その言葉に、リシアは小さく息を吐いた。


 ここまでの積み重ねは、無駄ではなかった。


 レオンはまだ「ただいま」とは言えない。


 王都を自分の帰る場所だと受け止めきれてはいない。


 けれど、もう一人で全部を受けに行こうとはしていない。


 それだけで、前へ進んでいる。


 リシアは歌詞帳を閉じ、王城前広場へ続く大通りを見た。


 遠くから、凱旋讃歌の声が少しずつ大きくなっている。


 その美しい旋律の裏側で、黒い譜面が静かに広がっていた。


 歌は人を救えるのか。


 その問いは、今度は王都全体へ向けられようとしている。


 リシアは肩の上のシルに囁いた。


「行こう」


 シルは、今度は茶化さなかった。


 小さな前足でリシアのローブを握り、王城前広場を見据える。


 勇者を讃える歌が、もうすぐ始まる。


 その歌がレオンの名を奪う前に。


 リシアは、自分が歌うべき音を探しながら、大通りへ足を踏み出した。



ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


今回は、王都到着と帰還者名簿の回でした。


王都はレオンを勇者として迎えますが、リシアはその裏で、騎士たち一人ひとりの名前が「随行隊一同」としてまとめられてしまう危うさに気づきます。


レオンもまた、自分だけが帰ってきたのではないと語り、仲間たちの名を呼びました。


勇者だけではなく、共に帰ってきた人たちにも名前がある。

そのことを王都が少しだけ受け止めた回になります。


しかし、本当の黒譜術の仕掛けは王城前広場の凱旋讃歌にありました。


次話では、勇者を讃える歌そのものが、レオンの名前を縛ろうとします。


続きも読んでいただけたら嬉しいです。


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