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勇者の名前編 27話 帰る場所を持たない勇者

夜が明けても、街道に残った不協和音は完全には消えていなかった。


称賛の声に押され続けた勇者。

その背中を見つめる騎士たち。

そして、まだ形にならないリシアの歌。


立つためだけではなく、帰るために立ち止まること。


その意味を探しながら、リシアは朝の冷たい空気の中で、勇者の心に残る静かな揺らぎへ耳を澄ませる。


 夜明け前の街道は、青く冷えていた。


 黒譜術の残響は、夜が明ける頃には薄れていた。けれど、完全に消えたわけではない。林の奥から聞こえた不協和音も、称賛を歪めた黒い声も、まだ隊列の空気に影を落としている。


 騎士たちは口数少なく進んでいた。


 昨夜の戦いで大きな負傷者は出なかった。だが、心の奥を覗かれたような疲れが残っているのだろう。


 レオンもまた、静かだった。


 馬上で背筋を伸ばし、必要な指示は出している。伝令への返答も、隊列の確認も、いつも通りに見えた。


 けれど昨日までと違うことがひとつあった。


 彼は何度か、周囲の騎士へ確認していた。


「疲れている者はいないか」


「馬の速度を落とそう」


「負傷した腕は痛まないか」


 それは以前からの気遣いにも見える。


 だが、リシアには少し違って聞こえた。


 自分一人で背負うための確認ではない。


 共に進むための確認。


 ほんのわずかな違いだったが、そのわずかさが大切なのだと思った。


 荷馬車の上で、リシアは歌詞帳を膝に置いていた。


 ページには、昨夜浮かんだ言葉が残っている。


『立つためだけの歌ではなく、

 帰るために立ち止まる歌を。』


 リシアはその一文を何度も読み返した。


 帰るため。


 その言葉は、あまりにも当たり前で、だからこそ難しい。


 人は戦うために生きているわけではない。

 役目を果たすためだけに生きているわけでもない。

 誰かに称えられるために、命を削るわけではない。


 けれど、戦場にいると、それを忘れてしまう。


 勇者ならなおさらだ。


 シルがリシアの膝へ降り、歌詞帳を覗き込んだ。


 ちい。


「まだ歌にはならないね」


 ちい。


「うん。分かってる。焦らない」


 シルは小さく頷いたあと、リシアの鞄を前足で叩いた。


「お腹すいたの?」


 ちい。


 今度の返事は力強かった。


 リシアは苦笑し、布袋から干し果物を一つ取り出した。


「これは私の分だからね。半分だけ」


 シルは干し果物を受け取り、半分に割ろうとした。


 けれど、少し迷ったあと、大きい方を自分の前に置き、小さい方をリシアへ差し出す。


「……ありがとう。でも、ちょっと差があるかな」


 ちい。


 シルは目を逸らした。


 リシアは小さく笑い、小さい方を受け取った。


 そんなささやかなやり取りのあと、隊列は昼前に小さな宿駅へ到着した。


 王都へ向かう街道の最後の中継地。


 名前は、リーベル宿駅。


 宿駅と言っても、町というほど大きくはない。石造りの宿、馬を休ませる厩舎、旅人向けの食堂、そして小さな祠があるだけの場所だった。


 だが、今日は普段とは違う賑わいがあった。


 王都からの急使が先回りしていたのだろう。宿駅の入口には、白と青の布が掲げられている。


『勇者レオン・グランツ様、王都帰還前夜』


『勝利の凱旋を祝す』


『人類の希望に祝福を』


 その文字を見た瞬間、リシアの胸が重くなった。


 レオンは馬上で静かにそれを見上げていた。


 表情は変わらない。


 けれど、心歌がかすかに揺れる。


『帰還』


『凱旋』


『祝福』


『まだ終わっていないのに』


 そう。


 まだ終わっていない。


 王都に戻れば祝宴があり、その後すぐに作戦会議がある。西方の砦では魔族の動きがあるという。


 それでも人々は、彼を勝利の象徴として迎える。


 帰ってきた人としてではなく。


 次の勝利へ向かう勇者として。


 宿駅の管理人らしい中年の男が、深々と頭を下げた。


「勇者様、お待ちしておりました。短い休憩とは伺っておりますが、食事と湯を用意しております」


「感謝します」


 レオンは穏やかに答えた。


「隊の者を優先してください。馬にも水を」


「もちろんでございます」


 管理人はすぐに指示を出した。


 宿駅の者たちは慌ただしく動き始める。


 リシアは荷馬車を降り、周囲を見渡した。


 宿の前には、何人かの村人らしき人々が集まっていた。近隣の集落から来たのだろう。彼らは遠巻きにレオンを見つめている。


 憧れ。

 感謝。

 不安。

 祈り。


 そのすべてが混ざっていた。


 その中に、一人の老婆がいた。


 灰色の髪を布でまとめ、手には古びた外套を抱えている。


 彼女は他の人々とは少し違っていた。


 レオンを見る目に、熱狂はない。


 ただ、長い間待っていた人のような静けさがあった。


 レオンもその老婆に気づいたらしく、近づいていった。


「何か、御用でしょうか」


 老婆は深く頭を下げた。


「勇者様。少しだけ、お時間をいただいてもよろしいでしょうか」


「はい」


 マルセルが一歩近づこうとしたが、レオンは手で制した。


 老婆は抱えていた外套を差し出した。


「これは、息子のものです」


 レオンは受け取らなかった。


 両手を前に出す直前で、止まった。


「息子さんは」


「北方戦線で亡くなりました。あなた様の部隊が撤退路を開いた戦いで」


 周囲の空気が静まった。


 リシアも思わず足を止める。


 老婆は泣いていなかった。


 責める顔でもない。


 ただ、外套を抱きしめる手だけが震えていた。


「息子は、あなた様に助けられたと言っておりました。最後の手紙にそう書いていました。勇者様が道を開いてくださったから、多くの者が帰れたと」


 レオンは目を伏せた。


「……救えなかった方もいました」


「はい」


 老婆は静かに頷いた。


「息子は帰りませんでした」


 その言葉に、レオンの肩がわずかに強張る。


 心歌が聞こえた。


『私がもっと早ければ』


『別の判断をしていれば』


『守れなかった』


 老婆は続けた。


「けれど、息子の手紙には、こうも書いてありました」


 彼女は懐から折り畳まれた紙を取り出した。


 何度も読み返されたのだろう。角は擦り切れ、文字の一部は滲んでいる。


「勇者様は、俺たちに死ねとは言わなかった。帰れと言った。生きて帰れと怒鳴った。だから俺は、最後まで帰ろうとした」


 レオンの瞳が揺れた。


 リシアの胸もまた、強く鳴った。


 帰れ。


 生きて帰れ。


 それはレオン自身が、かつて誰かに言った言葉だった。


 レオンは覚えているのだろうか。


 いや、覚えていても、自分には向けられなかった言葉なのかもしれない。


 老婆は外套を差し出した。


「息子は帰れませんでした。でも、あの子は帰ろうとしてくれました。死ぬためではなく、帰るために戦ったのだと、私は思えました」


 声が震える。


 けれど、老婆は泣き崩れなかった。


「だから、勇者様」


 彼女はレオンをまっすぐ見た。


「あなた様も、どうか帰ってください」


 誰も声を出さなかった。


 宿駅の布が風に揺れる。


『勝利の凱旋を祝す』


『人類の希望に祝福を』


 その文字の下で、老婆は言った。


「勝ってくださいとは言いません。守ってくださいとも、もう言えません。ただ、帰ってください。あなた様にも、帰る道があってほしいのです」


 レオンは動けなかった。


 勇者としてなら、きっとすぐに礼を言えた。


 ご子息の勇気に敬意を。


 必ず王国を守ります。


 そのような言葉なら、いくらでも言えたはずだ。


 だが、今の言葉は違う。


 勝てではない。


 守れでもない。


 帰ってください。


 レオン自身へ向けられた言葉だった。


「私は」


 レオンの声がかすれた。


 彼は言葉を探す。


 けれど見つからない。


 老婆は外套をもう一度抱きしめた。


「この外套は、持っていかなくて結構です。息子のものですから」


 そう言って、少しだけ微笑んだ。


「ただ、見ていただきたかったのです。帰るために着ていたものを」


 レオンはゆっくりと膝をついた。


 勇者が、老婆の前で膝をつく。


 周囲が息を呑む。


 レオンは外套へ手を伸ばした。


 今度は受け取るのではなく、その布地にそっと触れた。


「ご子息の名を、伺ってもよろしいでしょうか」


「エリクです。エリク・ハーウェン」


「エリクさん」


 レオンは静かにその名を呼んだ。


「私は、あなたの言葉を覚えています。生きて帰れと叫んだことも、覚えています」


 彼の声は震えていた。


「けれど、自分に向けることを忘れていました」


 老婆の目が潤む。


 レオンは頭を下げた。


「思い出させてくださり、ありがとうございます」


 それは勇者としての礼ではなかった。


 レオンという青年の、精一杯の言葉だった。


 老婆は小さく首を横に振った。


「どうか、お体を大切に」


「はい」


 その返事は、とても小さかった。


 けれど、確かに届いた。


 リシアは歌詞帳が震えるのを感じた。


 鞄の中から、淡い光が漏れている。


 シルが肩で身を乗り出した。


 ちい。


「うん」


 リシアはそっと歌詞帳を開いた。


 ページには、これまでの言葉が並んでいた。


『呼ばれるほど、遠くなる名がある』


『それでも、近くで呼ぶ声があれば』


『役目に沈む名を、誰かの声がすくい上げる』


『立つためだけの歌ではなく、

 帰るために立ち止まる歌を。』


 そして、その下に新しい一文が浮かぶ。


『帰れと告げた声を、いつか自分にも返せるように』


 リシアの指先が震えた。


 反響歌。


 自分が誰かへ渡した言葉を、自分自身へ返す歌。


 レオンに必要なのは、まさにそれなのかもしれない。


 誰かを守るために叫んだ「帰れ」を、彼自身が受け取ること。


 だが、今この場で歌うべきか。


 リシアは迷った。


 老婆の言葉は、すでにレオンへ届いている。


 ここで歌えば、その言葉をリシアの歌で上書きしてしまうかもしれない。


 歌わない。


 リシアは静かに歌詞帳を閉じた。


 今は、老婆の声のままでいい。


 レオンは立ち上がった。


 周囲の人々は静かに頭を下げている。


 先ほどまでの熱狂はない。


 けれど、その静けさは冷たくなかった。


 その後、隊は宿駅で短い休憩を取った。


 騎士たちは食事をし、馬も水を飲んだ。


 ユーディは包帯を巻いた腕を庇いながら、妹リリへの土産にと、小さな木片を宿駅の職人から分けてもらっていた。


 リシアがそれを見つけると、ユーディは少し照れたように笑った。


「刃物を使うのは帰ってからにします。今は持って帰るだけです」


「それがいいと思います」


「はい。ちゃんと帰らないと、教えられませんから」


 その言葉に、リシアは微笑んだ。


 昨日の彼とは違う。


 死ぬために前へ出ようとしていた騎士ではなく、帰る約束を持つ一人の青年になっていた。


 マルセルもその様子を遠くから見て、少しだけ安堵した顔をしている。


 レオンは宿の裏手にある井戸のそばにいた。


 リシアが近づくと、彼は顔を上げた。


「先ほどは、歌わなかったのですね」


「はい」


「歌詞帳は反応していたように見えました」


「していました」


「それでも?」


「はい」


 リシアは井戸の縁に手を置いた。


「今は、あの方の言葉のまま届いてほしかったので」


 レオンはしばらく黙っていた。


 やがて、静かに息を吐く。


「あなたは、歌わない選択が増えましたね」


「そうかもしれません」


「不思議です。歌わないあなたに、私は何度も助けられている気がします」


 リシアは少しだけ困ったように笑った。


「歌術師なのに、変ですね」


「いいえ」


 レオンは首を横に振った。


「たぶん、必要なのだと思います。歌う人だからこそ、歌わないことを選べる人が」


 その言葉は、リシアの胸に静かに染みた。


 レオンは井戸の水面を見つめる。


 水面には、少し疲れた青年の顔が映っていた。


「私は、帰れと言ったことを覚えています」


「はい」


「北方戦線で、撤退路を開いた時です。私は何度も叫びました。死ぬな、帰れ、生きて帰れ、と」


 彼の指が井戸の縁を掴む。


「でも、私はその言葉を自分に向けたことがなかった」


「今は、向けられそうですか」


 レオンは苦笑した。


「まだ、難しいですね」


「はい」


「帰れと言われると、胸が苦しくなります。嬉しいのに、怖い」


「どうして怖いのですか」


「帰る場所が、分からないからです」


 リシアは息を止めた。


 レオンは自嘲するように笑った。


「王都は、私を勇者として迎えます。騎士団は、私を戦力として必要とします。人々は、私を希望として見ます。それはありがたいことです。誇りでもあります」


「はい」


「でも、レオンとして帰る場所はどこなのか。そう聞かれると、分からない」


 風が井戸の上を通り過ぎた。


 リシアは、すぐに答えを出せなかった。


 帰る場所は作ればいい。


 誰かが待っている場所がある。


 そんな言葉は、今のレオンには軽すぎる気がした。


「分からないなら」


 リシアはゆっくり言った。


「今は、分からないままでいいと思います」


「また、それですか」


「はい」


 レオンは少し笑った。


 けれど、その笑みは嫌そうではなかった。


「ただ、ひとつだけ」


 リシアは続ける。


「帰る場所が分からないからといって、帰らなくていい理由にはしないでください」


 レオンの瞳が揺れた。


「場所が分からなくても、帰る道を探すことはできます」


「帰る道」


「はい。レオンさんが、レオンさんとして息をできる場所へ続く道です」


 レオンは何も言わなかった。


 ただ、井戸の水面を見つめていた。


 そこに映る自分の顔を、初めて確かめるように。


 出発の時刻が近づいた。


 宿駅の人々は、オルディアほど大きな声では見送らない。


 老婆もまた、外套を抱えたまま宿の前に立っていた。


 レオンは馬に乗る前、彼女へもう一度頭を下げた。


 老婆は何も言わない。


 ただ、片手を胸に当てて見送った。


 それは勝利を祈る仕草ではなく、無事を祈る仕草に見えた。


 隊列が動き出す。


 リシアは荷馬車の上から、遠ざかる宿駅を見た。


 白と青の布はまだ掲げられている。


 けれど、風に揺れるその文字の下で、確かに別の声があった。


 勝ってくださいではなく。


 帰ってください。


 その声は、レオンの中に届いただろうか。


 まだ分からない。


 けれど、リシアの歌詞帳には確かに残った。


『帰れと告げた声を、いつか自分にも返せるように』


 夕方、王都の外壁が遠くに見え始めた。


 巨大な城壁。

 高くそびえる尖塔。

 夕日を受けて輝く白い王城。


 その景色に、騎士たちの空気が引き締まる。


 王都へ帰る。


 だがレオンの心歌は、複雑に揺れていた。


『帰る』


『違う』


『戻るだけだ』


『勇者として』


『レオンは』


 その時、王都の方角から鐘の音が響いた。


 凱旋を知らせる鐘だろう。


 一つ、二つ、三つ。


 美しい音のはずだった。


 だが、リシアの耳には、ほんのわずかに黒い響きが混ざって聞こえた。


 シルが肩の上で身を低くする。


 ちいっ。


 レオンも顔を上げた。


「今の音は」


 マルセルが王都を見つめる。


「凱旋鐘です。ですが……」


 リシアは歌詞帳を握った。


 ページが強く震えている。


 王都の鐘の音に、黒譜術が混ざっている。


 それは、レオンを迎えるための音だった。


 王都そのものが、勇者様を呼んでいる。


 そしてその呼び声の奥で、リシアには確かに聞こえた。


『帰るな』


『戻れ』


『勇者として』


 リシアは息を呑む。


 帰る場所を探し始めたレオンを、王都はもう一度、役割の中へ引き戻そうとしている。


 王都の城壁が近づく。


 鐘の音は、さらに大きくなっていった。



ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


今回は、レオンにとっての「帰る場所」が描かれる回でした。


宿駅で出会った老婆は、レオンに「勝ってください」ではなく「帰ってください」と伝えます。


それは、勇者として戦い続けるレオンではなく、一人の人間としてのレオンへ向けられた言葉でした。


リシアはその場で歌うこともできましたが、今回は歌いませんでした。

老婆自身の言葉が、そのままレオンに届くことを選んだからです。


そしてレオンは、自分には「帰る場所」が分からないと口にします。


王都は彼を勇者として迎えます。

けれど、それはレオン自身が帰れる場所なのか。


次話では、王都の凱旋鐘に混じった黒譜術の気配が、レオンとリシアをさらに揺さぶっていきます。


続きも読んでいただけたら嬉しいです。


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