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勇者の名前編 26話 立たせない歌

夜の街道に、不協和音の余韻が残っている。


称賛の声。

期待の声。

大丈夫だと信じる声。


それらは本来、誰かを支えるための優しさだったはずだ。


けれど、立たせることだけが救いとは限らない。


冷たい夜風の中で、リシアは「歌わないための歌」に耳を澄ませる。


 黒譜術の影を斬ったあとも、夜はすぐには静かにならなかった。


 魔物の襲撃ではない。


 誰かが倒れたわけでもない。


 けれど、隊列に残ったものは、戦闘の疲労よりも重かった。


 勇者様なら大丈夫。


 勇者様なら勝てる。


 勇者様なら休まない。


 その声が、黒譜術によって歪められた時、騎士たちは初めて気づいたのだ。


 自分たちもまた、知らず知らずのうちにレオン一人へ重さを預けていたのではないかと。


 街道脇の休憩地で、騎士たちは交代で火を囲んでいた。


 夜風は冷たい。

 林の奥は暗く、まだどこかに黒譜の残り香が潜んでいるように思えた。


 リシアは少し離れた場所で、膝の上に歌詞帳を置いていた。


 けれど、開いてはいない。


 開けば、言葉が浮かぶかもしれない。


 歌が形になりかけているかもしれない。


 それが怖かった。


 黒い譜面が残した言葉が、まだ耳の奥にある。


『称賛もまた歌である』


『勇者を殺すのは、敵ではない』


『救ってほしいと願う声だ』


 リシアは指先を握りしめた。


 歌は人を救えるのか。


 その問いは、ずっとリシアの旅の真ん中にあった。


 けれど今は、さらに形を変えている。


 歌だけではない。


 言葉も、願いも、励ましも、称賛も、人を立たせることがある。


 立たせることが、必ずしも救いとは限らない。


 戦場で進軍詩を歌った夜のことが、胸の奥で疼いた。


 震える兵士たち。

 剣を握れない若者。

 故郷の名を呟く誰か。

 その人たちへ、リシアは歌った。


 怖くても立てるように。


 仲間を守れるように。


 明日の朝を迎えられるように。


 けれど、帰らなかった人がいた。


 そしてアイシャも。


 リシアは思わず息を詰める。


 肩の上で丸くなっていたシルが、顔を上げた。


 ちい。


「大丈夫」


 そう答えてから、リシアは苦笑した。


「……今の、大丈夫じゃないね」


 大丈夫。


 その言葉をレオンが何度も自分へ使っていたように、リシアもまた、自分を黙らせるために使っていた。


 シルはリシアの手元へ降り、歌詞帳の上に前足を置いた。


 開け、というようにも見える。


 閉じたままでいい、というようにも見える。


 リシアには、まだ分からなかった。


 その時、火の近くで低い声が上がった。


「俺が、前に出ます」


 リシアは顔を上げた。


 声の主は、若い騎士だった。


 年は二十歳前後だろう。栗色の髪を短く切り、まだ顔立ちに少年の面影が残っている。左腕には包帯が巻かれていた。先ほどの黒譜術による混乱の中で、馬を抑えようとして痛めた騎士だったはずだ。


 彼の前にはマルセルが立っている。


「ユーディ。お前は負傷者だ。次の宿駅まで荷馬車で休め」


「でも、俺が弱いからです」


 若い騎士、ユーディは拳を握った。


「俺たちが弱いから、レオン様が一人で背負うんです。だったら、俺がもっと前に出ます。盾になります。せめて一撃くらい、代わりに受けられます」


 マルセルの表情が険しくなる。


「それは勇気ではない」


「でも!」


 ユーディの声が震えた。


「レオン様はいつもそうしているじゃないですか! 俺たちのために前へ出て、傷を受けて、それでも笑っている。なら俺も」


 そこまで言った瞬間、リシアの耳に黒い音が混ざった。


『盾に』


『代わりに』


『役に立て』


『弱いなら、せめて傷つけ』


 リシアは立ち上がった。


 黒譜術の本体は消えた。


 けれど、残響が残っている。


 称賛の声を鎖に変えた黒譜術は、今度は騎士の罪悪感に絡みついていた。


 ユーディの胸元に、細い黒い譜線が見えた。


 本人には見えていない。


 周囲の騎士たちにも見えていない。


 リシアだけが、その線が心の傷へ食い込んでいるのを聞いていた。


 ユーディはリシアに気づくと、縋るような目を向けた。


「歌術師さん」


 リシアの喉が硬くなる。


「俺に、歌ってください」


 その言葉に、胸の奥が冷えた。


「怖くなくなる歌を。前に出られる歌を。レオン様を助けられる歌を」


 火の音が大きく聞こえた。


 薪が弾け、赤い火花が夜へ散る。


 リシアの中で、古い旋律が動きかけた。


 兵士を立たせる歌。


 震える手を剣へ戻す歌。


 怖さを殺さず、しかし前へ進ませる歌。


 あの頃のリシアが、何度も歌った歌。


 進軍詩。


 喉の奥まで、歌詞が上がってきた。


 けれど、リシアは口を閉じた。


 歌わない。


 ここで歌えば、ユーディは立つ。


 きっと立ててしまう。


 怖さも罪悪感も抱えたまま、自分を盾にするために。


 それは救いではない。


「歌えません」


 リシアは言った。


 ユーディの表情が崩れた。


「どうしてですか」


「その歌は、今のあなたを前へ出してしまうからです」


「それでいいんです!」


「よくありません」


 リシアの声が、思ったより強く出た。


 ユーディだけでなく、周囲の騎士たちも息を呑む。


 リシアは一歩近づいた。


「あなたは、レオンさんの代わりに傷つくためにいるんですか」


「俺は騎士です!」


「騎士だから、自分を捨てなければいけないんですか」


「弱いなら、それくらいしか」


「違います」


 リシアは静かに首を横に振った。


「弱いから傷つけ、なんて声は、あなたの本当の声じゃありません」


 ユーディの胸元の黒い譜線が震えた。


『役に立て』


『盾になれ』


『弱いなら』


 リシアは歌詞帳を開かなかった。


 今、必要なのは大きな歌ではない。


 彼を立たせる歌ではない。


 彼の中にまだ残っている、戦場へ向かわない声を探すこと。


「ユーディさん」


 リシアは慎重に尋ねた。


「あなたは、戦いが終わったら何をしたいですか」


 ユーディは戸惑った。


「何を……?」


「騎士としてではなく。誰かの盾としてでもなく。あなた自身は、帰ったら何をしたいですか」


「そんなこと」


 彼は視線を逸らした。


「今、考えることじゃありません」


「考えてください」


 リシアは引かなかった。


 それは優しい問いではない。


 痛い場所へ触れる問いだった。


 だが、黒譜術に絡め取られたまま前へ出させるより、ずっと必要な痛みだと思った。


「あなたが帰る場所を、黒い譜面に奪わせないでください」


 ユーディの唇が震える。


 マルセルは何も言わなかった。


 レオンも少し離れた場所で、こちらを見ていた。


 勇者として命じることも、止めることもできたはずだ。


 けれど今は、リシアとユーディのやり取りを見守っている。


 ユーディは長い沈黙のあと、ぽつりと言った。


「妹がいます」


 黒い譜線が、わずかに緩む。


「木工が好きで。俺が休暇で帰るたびに、剣の形の木彫りを作れって言うんです。でも、下手で」


 彼の声が少しだけ変わる。


「今度帰ったら、ちゃんと教えてやるって言いました。危ないから刃物の持ち方からだぞって」


 リシアは頷いた。


「妹さんの名前は?」


「リリ」


 その名が出た瞬間、黒い譜線が大きく揺らいだ。


「リリさんに、何と約束しましたか」


「帰ったら……木彫りを教えるって」


「もう一度」


「帰ったら、木彫りを教える」


 ユーディの目に、初めて自分自身の光が戻った。


 リシアはその声を受け取り、ほんの短い旋律に乗せた。


 それは人を立たせる歌ではない。


 人を戦場へ押す歌でもない。


 帰る場所を思い出すための、反響歌だった。


『盾になるためではなく、

 帰る手を守るために。


 剣を握るその指は、

 いつか小さな手に木を教える。


 弱いから傷つくのではない。

 怖いから逃げるのでもない。


 帰る約束があるから、

 今日の命を粗末にしない。』


 歌は短かった。


 火の周りにいる者たちへ、そっと届く程度の小さな歌。


 黒譜術を力で払う歌ではない。


 ユーディ自身の言葉を、彼自身へ返す歌。


 胸元の黒い譜線が、細くちぎれた。


 ユーディは膝をついた。


 泣いたわけではない。


 ただ、力が抜けたようだった。


「俺……死ぬつもりだったんでしょうか」


 リシアは答えなかった。


 代わりに、マルセルが片膝をついた。


「死なせないために、俺たちは隊を組んでいる」


 ユーディはマルセルを見る。


「でも、俺は」


「怖いなら怖いと言え。悔しいなら悔しいと言え。だが、自分を捨てる理由を騎士の誇りにするな」


 マルセルの声は厳しかった。


 けれど、突き放すものではなかった。


「レオンを一人にしないために、お前が死ぬ必要はない。生きて支えろ」


 ユーディは唇を噛んだ。


「はい」


 その返事は震えていた。


 だが、先ほどのような黒い響きはない。


 レオンが静かに歩いてきた。


 ユーディは慌てて立ち上がろうとしたが、レオンは手で制した。


「そのままでいい」


「レオン様、申し訳ありません。俺は」


「謝るのは私の方だ」


 ユーディが目を見開く。


 レオンは少しだけ目を伏せた。


「私がいつも一人で前に出るから、君たちにそう思わせたのかもしれない」


「そんなことは」


「ある」


 レオンは穏やかに、しかしはっきりと言った。


「私は守りたいと思って前に出ていた。だが、それが君たちから役目を奪うこともあるのだと、今分かった」


 マルセルが静かにレオンを見る。


 騎士たちも黙っていた。


「だから、次からは頼る」


 レオンはユーディに言った。


「君にも。皆にも」


 ユーディの顔が歪んだ。


「はい」


「ただし、死ぬためではない。生きて道をつなぐために」


「はい!」


 今度の返事には、力があった。


 けれどそれは、自分を捨てる力ではない。


 帰るために立つ力。


 リシアは静かに息を吐いた。


 歌った。


 けれど、立たせなかった。


 少なくとも、戦場へ送り出す歌ではない。


 それでも怖さは残っている。


 今の歌だって、使い方を間違えれば「帰るために戦え」という鎖になるかもしれない。


 歌は、いつも危うい。


 だからこそ、怖いままで歌わなければならない。


 火のそばから離れると、リシアは少し暗い場所で歌詞帳を開いた。


 ページには、先ほどの歌の名残が淡く残っている。


『立つためだけの歌ではなく、

 帰るために立ち止まる歌を。』


 リシアはその一文を見つめた。


「……立ち止まる歌」


 隣に来たシルが、小さく鳴いた。


 ちい。


「うん。まだ、答えじゃない」


 でも、道ではある。


 その時、背後から足音がした。


 振り返ると、レオンが立っていた。


「先ほどの歌」


「はい」


「怖くありませんでしたか」


 リシアは少し笑った。


「怖かったです」


「そうですか」


「でも、歌わない方が怖い時もあります」


 レオンは静かに頷いた。


「私は、あなたの歌を聞いていて思いました」


「何をですか」


「私は誰かに、帰ってこいと言われたかったのかもしれません」


 リシアの胸が小さく鳴る。


「勝てではなく?」


「はい」


 レオンは夜の空を見上げた。


「守れでもなく、倒せでもなく。ただ、帰ってこいと」


 リシアは何も言わなかった。


 その言葉を急いで歌にしてはいけない。


 今は、レオン自身が見つけた言葉だから。


 レオンはリシアへ視線を戻した。


「でも、まだ受け取るのは怖い」


「はい」


「帰ることを考えると、負けることを考えているようで」


「そう感じるのですね」


「ええ」


 リシアは頷いた。


「それなら、今はまだそのままでいいと思います」


「あなたは、本当に急がない」


「急ぐと、歌が命令になりますから」


 レオンは少しだけ笑った。


 その笑みに、先ほどより柔らかい疲れがあった。


「では、いつか」


「はい」


「いつか、私が受け取れる時が来たら」


 リシアは静かに答えた。


「その時は、歌います」


 風が夜の林を揺らした。


 黒譜術の気配は、完全には消えていない。


 王都へ近づけば近づくほど、きっと強くなる。


 けれど今夜、ひとつだけ分かったことがある。


 歌は人を立たせる。


 だからこそ、立たせない歌も必要なのだ。


 戦うためではなく。


 死ぬためではなく。


 帰るために、自分の命を手放さない歌。


 リシアは歌詞帳を閉じた。


 ページの奥で、まだ形にならない旋律が静かに息づいている。


 それは、勇者を讃える歌ではなかった。


 勇者を休ませる歌でもなかった。


 レオンがいつか、自分の足で帰る場所を選ぶための歌。


 その歌の最初の音が、ようやく見え始めていた。



ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


今回は、黒譜術の余波によって、若い騎士ユーディが「自分を盾にしよう」としてしまう回でした。


誰かを支えたい。

役に立ちたい。

弱い自分を変えたい。


その想い自体は悪いものではありません。

けれど、それが「自分を傷つける理由」になってしまうと、黒譜術に利用されてしまいます。


リシアは今回、ユーディを前に進ませる歌ではなく、帰る場所を思い出させる歌を歌いました。


立たせるためではなく、命を手放さないための歌。

それが、今回リシアが見つけた新しい道です。


そしてレオンもまた、「帰ってこい」と言われたかったのかもしれないと気づき始めます。


次話では、王都へ近づく中で、レオンの中にある“帰る場所”と、リシアの歌がさらに形を持ち始めます。


続きも読んでいただけたら嬉しいです。


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