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勇者の名前編 32話 王宮譜庫の黒い栞

黒譜術の欠片は、リシアの歌詞帳に触れ、彼女が封じてきた《進軍詩》を呼び起こした。


進軍詩は、戦場で人々を立たせた歌。

その歌で救われた命もあれば、前へ出て帰らなかった人もいた。


リシアは、その歌を完全な救いとも、完全な罪とも決めつけられないと気づく。


そして、進軍詩をただ捨てるのではなく、変えることを選ぶ。


けれど王城の窓には、黒譜の民らしき影が残されていた。


 凱旋式は、中断された。


 王城前広場に集まっていた人々は、衛兵たちの誘導で少しずつ動き始めている。広場の端では王宮の治療師たちが帰還兵の傷を確かめ、商人たちは水桶や布を運んでいた。


 先ほどまで勇者一人へ向かっていた視線が、今は少しだけ分かれている。


 怪我をした騎士へ。

 疲れた馬へ。

 泣き出した子どもへ。

 避難路を確保する衛兵へ。


 王都はまだ不安の中にある。


 けれど、誰か一人の背中へ全部を預けるだけの空気は、少し薄れていた。


 リシアは王城の門の前で、歌詞帳を抱えていた。


 ページには、まだ一文が残っている。


『立て、ではなく』


 その先は白紙のままだ。


 進軍詩は、まだ変わっていない。


 けれど、閉じたままでもなくなった。


 胸の奥に残る痛みは、先ほどよりも生々しい。戦場の泥も、アイシャの背中も、帰還兵の震えた心歌も、消えたわけではない。


 それでもリシアは、その痛みをすぐ歌にしようとは思わなかった。


 まだ足りない。


 自分の過去を見ただけでは、進軍詩の先には届かない。


 この王都で、何が起きているのか。


 誰が讃歌を書き換え、なぜリシアの進軍詩まで狙ったのか。


 そこを確かめなければならない。


「リシアさん」


 レオンが近づいてきた。


 先ほど「休む」と言ったばかりなのに、その顔にはもう責任感が戻りかけている。けれど以前とは違い、無理に平気な顔を作っているわけではなかった。


 疲れている。

 それを隠しきれていない。

 けれど、隠しきれていないことを恥じてはいない。


 その変化が、リシアには少しだけ嬉しかった。


「レオンさん、休んでください」


 リシアが先に言うと、レオンは苦笑した。


「言われると思いました」


「言います」


「ですが、このまま王城内の調査をあなたたちだけに任せるわけには」


「同行しないでください、とは言いません」


 レオンは目を瞬かせた。


 リシアは続ける。


「ただし、全部を引き受ける形ではなく、必要なところだけ一緒にいてください。歩く速度も、休憩も、マルセルさんが決めること」


 隣にいたマルセルが、すぐ頷いた。


「それでいい。というか、それ以外は許可しない」


「マルセル」


「護衛隊長としての命令だ、レオン」


 その呼び方に、レオンの表情が少しだけ緩んだ。


「……分かった」


 マルセルは満足げに頷くと、王宮文官へ向き直った。


「凱旋讃歌の譜面は、どこで管理している」


 文官はまだ顔色が悪かった。


 式典の失敗。


 王都の前で起きた黒譜術の混入。


 王宮としては大問題だろう。


 それでも彼は、責任から逃げるような素振りは見せなかった。


「王宮譜庫です。式典用の古歌、王国儀礼歌、騎士団歌、歌術隊の記録も一部保管されています」


「そこへ案内を」


「分かりました。ただし、閲覧許可には本来、王宮歌術師長の承認が」


「今は緊急事態です」


 声を挟んだのは、エルネアだった。


 彼女は黒譜に汚された楽譜を胸に抱え、険しい顔をしている。


「私が王宮歌術師として同行します。譜庫の閲覧責任は私が負います」


 文官は迷ったが、やがて頷いた。


「では、こちらへ」


 王城の中は、外の広場とは違う静けさに包まれていた。


 高い天井。

 磨かれた白い床。

 壁に飾られた王国の歴史画。

 窓から差し込む夕陽が、長い廊下に金色の帯を落としている。


 かつてリシアは、歌術隊所属として何度かこの城へ来たことがあった。


 けれど今は、あの頃よりも廊下が広く感じる。


 いや、違う。


 自分が小さく感じているのだ。


 戦争の歌を歌っていた頃。

 王国のために、騎士たちのために、必要とされていた頃。

 この城の廊下を歩く時、リシアは迷いながらも、自分の居場所があると思っていた。


 今は、その感覚がない。


 胸元の旧歌術隊の徽章が、また少し重くなる。


 シルが肩の上でリシアの頬を尻尾で撫でた。


「大丈夫。今は迷子じゃないよ」


 ちい。


「本当に?」


 ちい。


「……シルに確認されると、少し不安になるね」


 シルは心外そうに鳴いた。


 リシアは小さく笑った。


 そのやり取りに、エルネアが少しだけ目元を緩める。


「不思議な相棒ですね」


「はい。リス……だと思います」


「思います?」


「本人がまだ説明してくれないので」


 シルはそっぽを向いた。


 レオンが静かに笑う。


 短い笑いだったが、廊下に張り詰めていた空気がわずかに和らいだ。


 やがて一行は、王城の北側にある古い扉の前へ着いた。


 重厚な木の扉には、王国の紋章と、五線譜に似た金の装飾が彫られている。


 王宮譜庫。


 エルネアが鍵を差し込む。


 扉が開いた瞬間、古い紙と革表紙の匂いが流れてきた。


 中は広い書庫だった。


 壁一面に棚が並び、巻物や楽譜、歌詞帳、儀礼記録が整然と収められている。中央には大きな閲覧机があり、燭台にはすでに灯りがともされていた。


 リシアは一歩足を踏み入れ、すぐに違和感を覚えた。


 静かすぎる。


 本来、古い歌の保管場所には、微かな残響がある。


 歌われた記憶。

 書き写した人の息遣い。

 儀式で響いた音の名残。


 この場所にも、そうしたものはある。


 けれど、その上に薄い布をかぶせられたような感覚があった。


 歌が眠らされている。


「黒譜術ですか」


 レオンが低く尋ねた。


「はい。でも広場のものとは違います。ここでは、歌を暴走させるというより、何かを見えにくくしている感じです」


 エルネアは譜庫の奥へ進み、棚から一冊の分厚い楽譜を取り出した。


「これが凱旋讃歌の原譜です」


 机の上に広げられた楽譜は、古びていたが保存状態は良かった。


 リシアはすぐに第二節を探した。


 あった。


 エルネアが歌った通りの言葉。


『帰りし人よ、剣を置け。

 傷つく手には、水を。

 眠れぬ夜には、灯を。

 名を呼ぶ家へ、足を休めよ』


 文字は古いが、温かい。


 帰還した者へ向けられた歌だ。


 リシアは指先でなぞりかけ、すぐに止めた。


 触れなくても分かる。


 この節は、本物だ。


 誰かを立たせるためではなく、帰ってきた人の足を止めるために書かれた歌。


 エルネアが隣に別の楽譜を置いた。


「こちらが今回配布された改訂譜です」


 第二節は消えていた。


 代わりに誓いの節が繰り返されている。


 問題は、誰が改訂したかだ。


 マルセルが文官を見る。


「承認印は」


 文官は楽譜の最後のページを開いた。


 そこには、王宮式典課の印と、王宮歌術師団の印が押されている。


 さらに、その下に小さな青い印があった。


 リシアの息が止まった。


 歌術隊の旧印。


 王国騎士団直属歌術隊が、戦時中に使っていた印だった。


 今はもう正式には使われていないはずのもの。


 エルネアも目を見開く。


「これは……歌術隊の旧承認印?」


「なぜここに」


 マルセルの声が低くなる。


 リシアは黙って印を見つめていた。


 胸元の徽章が重い。


 旧歌術隊。


 戦争中、リシアが所属していた場所。


 進軍詩を戦場へ運んだ組織。


「この印を使える人間は限られています」


 エルネアが言った。


「戦後に歌術隊は再編されています。旧印は封印管理されているはずです」


「封印管理の責任者は誰だ」


 マルセルが問う。


 文官は答えに詰まった。


 エルネアが代わりに言う。


「戦後処理の時期によって変わっていますが、最終的な封印記録には、旧歌術隊隊長の確認署名が必要だったはずです」


 旧歌術隊隊長。


 リシアの胸が冷たくなる。


 セレナ・アーヴェルト。


 元歌術隊隊長。


 リシアの師。


 もちろん、すぐに彼女が関わっていると決めることはできない。


 印が盗まれたのかもしれない。

 偽造かもしれない。

 黒譜の民が、あえて疑いを向けようとしているのかもしれない。


 それでも、名前が浮かんでしまう。


 リシアは無意識に歌詞帳を握った。


 レオンが静かに言う。


「リシアさん、まだ決めつけないでください」


「……はい」


 その言葉に救われる。


 同時に、自分が決めつけそうになっていたことにも気づく。


 心歌を聞けるからといって、真実を知っているわけではない。


 黒譜術は、人の疑いも利用する。


 リシアは深く息を吸った。


「旧印の記録を見せてください」


 エルネアは頷き、別の棚へ向かった。


 その間、シルが机の上へ飛び降りた。


 シルは改訂譜の端をくんくんと嗅ぎ、急に鼻に皺を寄せる。


「変な匂い?」


 ちい。


 シルは前足でページの隅を叩いた。


 そこには、薄い黒い染みがあった。


 インクの汚れに見える。


 だが、リシアが近づくと、歌詞帳が震えた。


「黒譜の栞……?」


 ページの間に、細い紙片が挟まっていた。


 黒い栞のようなものだ。


 リシアは触れようとして、シルに止められた。


 ちいっ。


「分かってる。直接は触らない」


 リシアは羽ペンケースから布を取り出し、それ越しに栞を抜いた。


 黒い紙片には、音符のような記号が描かれていた。


 そして裏側に、短い言葉がある。


『帰還の節を削れ』


『誓いを重ねよ』


『勇者の名を、役目へ縫い止めよ』


 マルセルが険しい顔で覗き込む。


「これが仕掛けか」


「おそらく、改訂譜に挟み込まれていた黒譜術の核です」


 リシアは栞を見つめた。


 黒い線は、まだ微かに動いている。


 完全には死んでいない。


 その動きが、まるでこちらを誘っているように見えた。


 触れば、また記憶に引きずり込まれるかもしれない。


 リシアは布越しに栞を机へ置いた。


「封印できますか」


 エルネアが戻ってきて、栞を見るなり顔を強張らせた。


「王宮の封印箱があります。強いものではありませんが、一時的には」


「お願いします」


 エルネアはすぐに小さな銀の箱を取り出し、黒い栞を慎重に納めた。


 箱の蓋が閉じると、譜庫の空気が少し軽くなった。


 けれど、それで終わりではなかった。


 エルネアが持ってきた記録簿を開く。


「旧歌術隊印の封印記録です」


 リシアは息を整えた。


 記録簿には、戦後の処理として、旧歌術隊の印や戦場用楽譜が封印された経緯が記されている。


 そして最後の確認欄。


 そこに署名があった。


 セレナ・アーヴェルト。


 リシアは目を閉じた。


 やはり、名前はあった。


 だが、それは封印した側の署名だ。


 使った証拠ではない。


 問題はその下だった。


 封印記録の端に、後から書き足されたような細い文字がある。


『戦場用歌術記録、一部移管』


 日付は、戦後二年目。


 移管先の欄は黒く塗り潰されている。


「これは?」


 リシアが尋ねると、エルネアも首を傾げた。


「私も見たことがありません。王宮譜庫の通常記録では、移管先が伏せられることはほとんどありません」


 レオンが記録簿を覗き込む。


「戦場用歌術記録とは、進軍詩も含まれるのですか」


 その問いに、リシアの喉が鳴った。


 エルネアは慎重に答える。


「可能性はあります。戦場で使われた歌術の記録、効果、歌詞、運用報告。そうしたものは、戦後に封印されたはずです」


「つまり」


 マルセルが低く言う。


「黒譜の民は、リシア殿の進軍詩を偶然知っていたわけではない。王宮内、または旧歌術隊の記録に触れている可能性がある」


 譜庫の中が静まり返った。


 リシアは歌詞帳を抱きしめた。


 黒譜の民が、リシアの進軍詩を知っている。


 それだけなら、戦場で聞いた者がいたのかもしれない。


 けれど、今回の凱旋讃歌の改訂と、旧歌術隊印、戦場用歌術記録の移管。


 それらが繋がるなら、話はもっと深い。


 王国側の記録。

 戦争中の歌術運用。

 リシアの歌が、どのように使われたのか。


 リシア自身も知らない記録が、どこかにある。


 その時、譜庫の奥で小さな音がした。


 紙が落ちる音だった。


 全員が振り向く。


 棚の奥、灯りの届きにくい場所で、一冊の薄い綴じ冊子が床に落ちていた。


 リシアはゆっくり近づいた。


 シルが肩の上で警戒している。


 冊子の表紙には、古い青い紋章がある。


 旧歌術隊の紋章。


 タイトルはかすれていたが、読めた。


『進軍詩・戦場運用報告』


 リシアの手が震えた。


 マルセルが声を低くする。


「触れるな。罠かもしれない」


「はい」


 リシアは直接触れず、布で表紙を開いた。


 最初のページには、記録文が並んでいる。


 進軍詩の効果。

 士気上昇。

 恐怖反応の一時低下。

 撤退防止。

 防衛線維持。


 まるで人の心を、戦場の道具として記録しているようだった。


 リシアの呼吸が浅くなる。


 その下に、赤い印で書かれた一文があった。


『歌唱者本人への詳細開示は不要。精神負荷を考慮し、効果測定のみ隊長級で管理』


 リシアの視界が揺れた。


「私には……知らされていなかった」


 声がかすれる。


 レオンが隣に来る。


「リシアさん」


「私の歌が、どう使われたのか。どんな効果があったのか。誰が、どこまで知っていたのか」


 ページの端に、また署名欄がある。


 そこには複数の名があった。


 王国軍令部。

 歌術隊管理官。

 そして。


 セレナ・アーヴェルト。


 リシアは息を止めた。


 師の名が、そこにあった。


 ただし、彼女の署名の横には、小さく手書きの注記がある。


『使用制限を要求。歌唱者への過負荷、および兵士の自発判断への干渉危険あり』


 リシアはその文字を見つめた。


 セレナは、知っていた。


 でも、止めようともしていた。


 それでも進軍詩は使われ続けている。


 その事実が、リシアの胸に重く落ちる。


 セレナを責めればいいのか。

 王国を責めればいいのか。

 自分の歌を責めればいいのか。


 すぐには答えが出ない。


 だが、今は答えよりも先に、事実を受け止める必要があった。


 その時、冊子の最後のページが勝手にめくれた。


 そこに、一枚の黒い紙片が貼り付いていた。


 封印箱に入れたものとは別の黒譜の栞。


 リシアが身構えるより早く、紙片の文字が浮かぶ。


『あなたの歌は、王国にも使われた』


『黒譜の民だけが、歌を歪めると思いましたか』


『次に会う時、選びなさい』


『王国の歌術師でいるのか』


『それとも、人の想いを聞く旅人でいるのか』


 文字が消える。


 同時に、譜庫の奥の窓がかすかに開いた。


 冷たい風が入り込む。


 カーテンが揺れる。


 そこに、一瞬だけ黒い外套の裾が見えた。


 マルセルが走る。


「待て!」


 しかし窓の外には、もう誰もいなかった。


 ただ、石枠に小さな黒い音符の印が残されているだけ。


 リシアは窓の方を見つめた。


 逃げられた。


 でも、何も残らなかったわけではない。


 進軍詩の記録。

 旧歌術隊印。

 セレナの署名。

 黒譜の民の問い。


 勇者編の問題は、レオンだけのものではなくなっていた。


 リシア自身の過去と、王国が歌をどう扱ってきたかへ繋がった。


 レオンが静かに言った。


「リシアさん。これは、あなた一人で抱えるものではありません」


 リシアは歌詞帳を抱え直した。


「はい」


 以前なら、頷けなかったかもしれない。


 でも今は、少しだけ違う。


「一人では抱えません。でも、目を逸らしません」


 歌詞帳が淡く光る。


『立て、ではなく』


 その下に、もう一行が浮かんだ。


『選べるように、声を残す』


 リシアはその言葉を見つめた。


 まだ歌には遠い。


 けれど、進軍詩は少しずつ変わり始めている。


 立てと命じる歌から。


 恐怖の中でも、誰かの命令ではなく、自分の選択を失わないための歌へ。


 その先に進むには、もう一人、会わなければならない人がいる。


 リシアは譜庫の窓を見つめた。


「セレナさんに、会わないといけません」


 その名を口にした瞬間、胸の奥が痛んだ。


 師に聞かなければならない。


 進軍詩が、王国で何に使われていたのか。


 なぜリシアに黙っていたのか。


 そして、アイシャの最後について、何を知っているのか。


 王宮譜庫の灯りが揺れる。


 古い歌たちが、沈黙の中でリシアを見ているようだった。



ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


今回は、王宮譜庫で凱旋讃歌の改訂記録を調べる回でした。


黒譜術は、王都の不安だけでなく、王宮に残された古い歌術記録も利用していました。

さらに、リシアの《進軍詩》が戦場でどのように扱われていたのか、その記録の一部も明らかになります。


そして、そこにはセレナの署名も残されていました。


セレナが何を知り、何を止めようとし、何をリシアに黙っていたのか。

次話以降、リシアは師と向き合う必要が出てきます。


続きも読んでいただけたら嬉しいです。


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