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旅路小休止編 108話 鈴型焼き菓子をもう一度

星渡りの石列で、リシアたちは帰る場所を失った足音の集まりと向き合った。


石列の中心にあったのは、誰かを害そうとする悪意ではなく、戻れなかった者、帰る先を失った者、選ぶことができなかった者たちの音だった。


リシアは足音を消すのでも、誰かの足へ押し戻すのでもなく、誰のものでもないまま朝を待てる場所を作ろうとする。


黒譜の民らしき人物に妨害されながらも、リーネの数える声、ハルヴァの判断、サージやピオたちの選択、シルの小さな音に支えられ、リシアは自分の責任で歌った。


こうしてリシアは、進む道を命じるのではなく、立ち止まる場所を見失わないための「星の断章」を正式に手に入れた。



 星渡りの石列を離れてから半日ほど、シルは一度も木の実を食べなかった。


 それだけで、リシアには彼がどれほど深く傷ついているのか分かった。石列の夜を無事に越えたことより、黒譜の民らしき人物を退けたことより、最後まで大事にしていた鈴型焼き菓子を失ったことの方が、今のシルにとっては重大らしい。


 道の端にある平らな岩の上で昼休憩を取っても、シルは干し果物へ前足を伸ばさなかった。木の実を二つ並べてみても、横目で一度見ただけで顔を背ける。いつもならリシアが荷物を開くより先に食べ物の場所を突き止めるのに、今日は大きな尻尾を体へ巻きつけ、肩の上で丸くなったままだった。


「シル」


 声をかけても、返事はない。


「焼き菓子のこと、まだ気にしてる?」


 シルは顔を上げなかったが、尻尾の先だけがわずかに動いた。否定するならもっと大きく振るはずなので、これはほぼ肯定だろう。


「ピオくんを助けてくれたんだよ。銀笛を止めるために使ったんだから、無駄になったわけじゃない」


 シルの耳がわずかに伏せられる。


「分かってるけど、悲しいの?」


 尻尾がもう一度動く。


 リシアは苦笑しながら、肩の上の小さな背中を指先で撫でた。シルは食いしん坊だが、ただ食べ物を惜しんでいるわけではないのかもしれない。あの焼き菓子は、星写しの町を離れる朝にセイの弟からもらったものだった。返る鈴の形をした、小さくて甘い旅の記憶。それを自分の意思で壊したからこそ、シルの中にも石列で選んだ責任が残っているのだろう。


「次の町で、似たものを探そう」


 リシアが言うと、シルはようやく顔を上げた。


「同じ鈴型があるかは分からないけど」


 シルの目が細くなる。


「なるべく似てるものを探します」


 さらに細くなる。


「私が作るのは……駄目?」


 シルはすぐに首を横へ振った。


「そこまで強く否定しなくてもいいと思うんだけど」


 以前、宿の厨房を借りて木の実入りの焼き菓子を作ったことがある。味そのものは悪くなかったはずだが、火加減を間違え、表面は硬く、中だけ妙に柔らかいものになった。シルは食べきったものの、それからしばらくリシアが厨房へ近づくたび警戒していた。


 あの時のことを、まだ覚えているらしい。


「でも、売ってなかったら作るしかないよ」


 シルは肩の上で立ち上がり、街道の先を見つめた。まるで焼き菓子を売っている店を今すぐ見つけなければならない、と決意した顔だった。


 その途端、腹の辺りから小さな音が鳴る。


 きゅう。


 シルは固まった。


 リシアも何も言わず、肩の上を見る。


 シルはゆっくりこちらへ顔を向けたあと、何事もなかったように空を見上げた。


「お腹、空いてるよね」


 ちい。


「今の返事は、空いてないって意味?」


 ちい。


「二回鳴くと余計に怪しいよ」


 シルは不満そうに尻尾でリシアの頬を叩いた。けれど、差し出した干し果物は受け取り、両前足で抱えて少しずつかじり始める。鈴型の焼き菓子を失った悲しみと、空腹は別のものとして扱うことにしたらしい。


 リシアも岩へ腰を下ろし、固いパンをちぎった。喉にはまだ石列で歌った時の痛みが残っている。声を出せないほどではないが、大きく歌えば咳き込むだろう。歌詞帳の星の断章も、昨夜ほど強くは光っていなかった。ページを開けば細い星の線が静かに浮かび、その中央に新しい歌詞が記されている。


 足もとに星を置く。


 それは進む道を命じる光ではなく、立ち止まる場所を見失わないための灯。


 リシアはその言葉を、声に出さず目で追った。


 これまで得た断章には、それぞれ誰かの顔があった。消えかけた炉を前にした者、声を失った少女、名前を奪われた村人、悲しみを春へ急がされた人々、人と魔族の境界で同じ子守唄を抱えた者たち、過去を記録することに傷ついた者たち。


 星の断章にも、リーネやハルヴァ、サージ、ピオたちの選択が残っている。


 けれど同時に、これはこれまでよりリシア自身に近い断章だった。


 戻りたい場所をいくつも持ち、どこへ足を置くべきか分からなくなること。過去を捨てたくはないが、過去へ戻ることもできないこと。歌うことが怖く、それでも必要な時に歌わなければ、誰かの足が奪われてしまうこと。


 石列でリシアは、聞くだけでは間に合わなかった。


 サージの足が動き始めた時、歌うまでに一拍遅れた。その事実は、歌詞帳へ断章が増えても消えない。


 それでも、あの遅れがあったから、次には自分で歌うと決められた。失敗しない歌術師になるのではなく、間違いや遅れの後で何を選ぶか。その責任を引き受けることが、今の自分に必要なのかもしれない。


 リシアが考え込んでいると、シルが干し果物の欠片を目の前へ差し出していた。


「くれるの?」


 シルは前足を伸ばしたまま動かない。


 干し果物は、シルが抱えているものの中では一番大きな欠片だった。食べ物を分ける時は、たいてい自分が食べ終えたあとか、味が気に入らなかった時だけである。


 リシアは受け取って、一口かじった。


「甘いね」


 シルも残りをかじる。


 同じものを分けただけなのに、不思議と胸が少し軽くなった。昨夜、シルは何度もリシアを止め、音を貸し、最後には焼き菓子まで犠牲にした。言葉を話さなくても、彼が選んだものは伝わっている。


「私も、あなたを置いていかないようにするね」


 何気なく言ったつもりだった。


 しかし、シルは干し果物を食べる手を止め、リシアをじっと見た。


「石列に入る時、置いていったから怒ってる?」


 シルは目を逸らさない。


「あれは、あなたの足音まで石列に取られないようにするためで……」


 シルの尻尾が一度、岩を叩いた。


「はい。心配をかけました」


 もう一度、尻尾が岩を叩く。


「次からは、置いていく前にちゃんと相談します」


 シルは首を傾げる。相談すると言われても、自分は喋れないと思っているのだろう。


「首を振ったり、頬を叩いたり、焼き菓子を守ったり。返事はいろいろできるでしょう?」


 シルは少し考えたあと、前足でリシアの頬をぺし、と叩いた。


「それは賛成?」


 今度は反対側の頬も叩かれた。


「二回だから、強く賛成ということにします」


 シルは納得していない顔だったが、再び肩へ登って丸くなった。


 休憩を終えて歩き出すと、午後の街道には行商人の姿が増えていた。星渡りの石列を避ける旅人たちは、石列の南側を大きく迂回する道を使う。そのため、少し遠回りになるこの街道には小さな露店や休憩所が点在していた。


 しばらく進んだ先で、道端に赤い屋根の荷車が止まっているのが見えた。車輪の横には簡素な卓が置かれ、瓶詰めの果実、干した薬草、焼き菓子が並べられている。荷車の持ち主は、ふくよかな中年女性だった。縞模様の布を頭に巻き、椅子に座りながら編み物をしている。


 シルの耳が立った。


 焼き菓子の匂いを見つけたらしい。


「まだ鈴型とは決まってないよ」


 リシアが釘を刺した時には、シルはすでに肩の上で身を乗り出していた。


「いらっしゃい」


 女性はリシアたちを見ると、編み物を膝へ置いた。


「石渡りから来たのかい? そのローブの裾、星砂がついてるよ」


 リシアが裾を見ると、淡く光る細かな砂が残っていた。手で払うとすぐ消えたが、女性は感心したように頷く。


「無事に越えたなら何よりだ。最近は足音に追われて、荷物を全部置いてくる旅人も多いからね」


「石列の近くで、黒い外套の人を見ませんでしたか」


 女性は眉を上げた。


「黒い外套なんて旅人には珍しくないけど、石渡りの周りで妙な譜面を持ってる連中なら、何日か前に二人見たよ」


「二人?」


「ああ。一人は石列の北側へ。もう一人は西へ行った。仲間には見えなかったね。同じ黒い譜面を持ってるのに、目も合わせなかった」


 黒譜の民は一枚岩ではない。


 リュネアでも、記録派、破譜派、封譜派の違いを見てきた。今回の人物がどの派閥なのかは分からないが、「帰れなかった音は、帰れないままでいい」という言葉には明確な思想があった。救うためではなく、傷を固定することで歌から守ろうとする考え方にも思える。


「西へ向かった人について、何か覚えていますか」


「背が低かった。外套から灰色の髪が少し見えてたね。それと、変わった箱を持っていたよ。楽器箱みたいだったけど、音はしなかった」


 リシアは胸の中で情報を整理した。


 西。


 灰色の髪。


 音のしない楽器箱。


 それだけでは誰かを特定できない。すぐ追いかけるべきかも分からなかった。黒譜の民が見つかったからといって、毎回リシアが追跡する必要があるわけではない。石列で現れた人物も、こちらを試すような言葉を残しただけで、直接追う手がかりはほとんどなかった。


 女性は考え込むリシアを見たあと、肩の上のシルへ視線を向けた。


「ところで、その子はさっきから何を見てるんだい?」


 シルは卓上の焼き菓子から目を離していなかった。


 丸いもの。


 四角いもの。


 木の葉の形。


 鳥の形。


 どれも美味しそうだが、鈴型は見当たらない。


 シルの耳が少しずつ伏せられていく。


「鈴の形をした焼き菓子はありませんか」


 リシアが尋ねると、女性は首を傾げた。


「鈴型? 今並べてる中にはないね」


 シルの尻尾が力なく下がった。


「でも、型ならあるよ」


 女性は荷車の奥を探り、小さな金属の型を取り出した。丸い胴に細い持ち手がついた、確かに鈴の形をしている。


 シルの尻尾が勢いよく立った。


「昔、星渡りの祭りで使ってた型さ。この辺じゃ、無事に足音が帰ってきた旅人へ鈴型の菓子を渡していたんだよ。最近は祭りもやらなくなって、作らなくなったけどね」


「作っていただくことはできますか」


「材料はあるけど、あたし一人だと荷車を見ながら焼くのは難しいね」


 女性はリシアを見た。


 次に、荷車の横にある小さな石窯を見る。


 そして、意味ありげにもう一度リシアを見た。


「手伝ってくれるなら作れるよ」


 リシアは沈黙した。


 シルが肩の上から顔を近づけてくる。


「前に失敗したの、覚えてるよね」


 シルは顔を近づけたまま動かない。


「今度も硬くなるかもしれないよ」


 さらに近づく。


「分かりました。手伝います」


 シルは勝ち誇ったように胸を張った。


 女性は声を上げて笑い、リシアへ前掛けを渡した。


「私はマルタ。旅人相手に菓子と薬草を売ってる。あんたは?」


「リシアです。旅の歌魔術師をしています」


「歌術師かい。それなら火を見るより、歌った方が得意だろうけど、今日は歌で生地は混ざらないよ」


「分かっています」


「焦がしても歌で元に戻らないからね」


「それも分かっています」


 肩の上でシルが、心配そうに石窯を見た。


「あなたのために作るんだから、少しは信じてくれてもいいと思う」


 シルは一度リシアを見てから、マルタの方へ移動しようとした。


「そっちの方が安全だと思ったでしょう」


 シルは返事をせず、マルタの肩へ乗る。


「賢い子だねえ」


「そういうところだけは、とても賢いです」


 鈴型焼き菓子作りは、思っていたより難しかった。


 生地を練るところまでは問題ない。小麦粉に蜂蜜と砕いた木の実を混ぜ、水を少しずつ加える。マルタの指示通りに進めれば、生地は柔らかくまとまった。


 問題は、型へ詰める量だった。


「入れすぎると膨らんで鈴じゃなくなるよ」


 マルタに言われ、リシアは少し減らす。


「減らしすぎると割れるよ」


 少し足す。


「今度は多い」


「難しいですね」


「歌術より難しいかい?」


「歌術は、少なくとも膨らみません」


「人の期待は膨らむだろう」


 マルタの何気ない返事に、リシアは手を止めた。


 人の期待は膨らむ。


 歌術師だから歌ってほしい。


 歌えば救ってくれる。


 心歌が聞こえるなら、何でも分かる。


 旅を始めた頃から、何度も向けられてきた期待だった。断るだけでは足りず、応えるだけでも危うい。その期待をどこまで受け取り、どこから本人へ返すかを考え続けてきた。


 マルタはリシアの表情を見て、首を傾げる。


「変なこと言ったかい?」


「いいえ。少し、思い当たることがありました」


「菓子も人の期待も、入れすぎれば形が崩れる。少なすぎれば味気ない。ちょうどいい量なんて、焼いてみないと分からないもんさ」


「失敗したら?」


「次は減らす。それでも駄目なら、別の形にする」


 あまりにも単純な答えで、リシアは小さく笑った。


「歌も、そんなふうに作れたらいいんですが」


「作れないのかい?」


「一度歌った言葉は、誰かの中に残ります。焼き直せないこともあります」


「それでも、次の歌は作るんだろう」


 リシアは生地を見た。


「はい」


「なら同じだよ。前の菓子が硬かったからって、もう窯へ入れないなら、次の菓子は一つも焼けない」


 肩の上でシルが何度も頷いている。


「シルは焼き菓子の部分にだけ賛成してるよね」


 シルは知らない顔をした。


 やがて、十個ほどの鈴型が窯へ入った。焼いている間、リシアは火の前を離れず、何度も様子を確認する。マルタは荷車へ来た客の対応をしながら、時折声をかけた。


「まだ開けるなよ」


「はい」


「火を強くするなよ」


「はい」


「歌って早く焼こうとするなよ」


「しません」


 シルは石窯の前へ座り、まるで火を見張る番人のような顔をしている。だが鼻は焼けてくる蜂蜜と木の実の香りを追い、何度もひくひく動いていた。


 焼き上がった菓子は、少しだけ不揃いだった。


 鈴の胴が太いもの。


 持ち手が曲がったもの。


 一つだけ、膨らみすぎて丸い果実のようになったもの。


 けれど、焦げてはいない。表面はきつね色に焼け、指で触れると程よく硬い。マルタが一つ割って確認すると、ぱり、と軽い音が鳴った。


 シルの目が輝く。


「成功ですか」


「悪くないよ。売り物なら形を揃えたいけど、食べる分には十分さ」


 マルタは焼きたてを一つ、シルへ差し出した。


「ただし熱いから、まだ食べるんじゃないよ」


 シルは受け取り、両前足で大切に抱えた。湯気の立つ鈴型を見つめ、少しだけ鼻を近づける。熱さに驚いて顔を離したものの、決して手放そうとはしない。


 リシアはその姿を見て、胸の奥が温かくなった。


「今度は、食べるために鳴らしていいんだよ」


 シルは菓子を見た。


 リシアを見る。


 もう一度、菓子を見る。


 それから、まだ熱いのに端をほんの少しだけかじった。


 ぱり。


 軽い音が街道へ広がる。


 石列で鳴らした時とは違う。誰かを止めるためでも、黒譜術へ対抗するためでもない。ただ、焼き菓子を食べるための音だった。


 シルは目を細め、頬を膨らませながらゆっくり味わう。


「美味しい?」


 ちい。


 今度の鳴き声には迷いがなかった。


 リシアも一つ受け取り、かじる。


 ぱり。


 蜂蜜の甘さと木の実の香ばしさが口に広がった。少し硬いが、前に自分だけで作ったものほどではない。むしろ、旅の途中で食べるにはちょうどいい歯応えだった。


「アイシャにも食べさせたかったな」


 言葉は、考えるより先にこぼれていた。


 マルタは聞こえなかったのか、荷車の客と話している。シルだけが、焼き菓子を抱えたままリシアを見た。


 リシアの記憶に、幼い頃のアイシャが浮かぶ。


 村の祭りで二人分の焼き菓子を買い、どちらが大きいかを見比べていた日のこと。アイシャは自分の方が小さいと気づくと、リシアの菓子を一口かじり、「これで同じ」と笑った。


『同じじゃないよ。私の方が減っただけでしょ』


『細かいなあ。じゃあ、私のも一口食べていいよ』


『最初から半分ずつにすればよかったのに』


『それだと、どっちが大きいか比べられないじゃん』


 意味のないやり取りだった。


 でも、そういう時間ばかりが、今になって胸に残っている。


 もしアイシャがここにいたら、きっと鈴型のうち一番形の悪いものを選び、「これが一番大きいから」と言うだろう。膨らみすぎて果実のようになった菓子を取り、鈴に見えないことには触れないに違いない。


 リシアは不格好な一つを手に取った。


「これは取っておこうかな」


 シルの視線がすぐ菓子へ向く。


「シルのじゃないよ」


 シルは菓子を抱えたまま、リシアの手元と見比べる。


「これは、アイシャの分」


 シルの動きが止まった。


「いつ渡せるかは、分からないけど」


 死んだと思っていた幼なじみ。


 今は魔王としてどこかにいるかもしれない人。


 敵として向き合うことになるかもしれない。昔のように焼き菓子を半分にして笑える日は、もう戻らないのかもしれない。


 それでも、戻らないことと、渡せないことは同じではない。


 石列で得た星の断章は、過去へ戻るための歌ではなかった。なら、過去に置いてきた約束や想いを、今の自分が持って歩くことはできる。


「食べられなくなる前に会えるといいね」


 リシアが言うと、シルは少し考えたあと、自分の鈴型焼き菓子を一つ、リシアの手元へ置いた。


「これも?」


 シルは胸を張る。


「アイシャの分にするの?」


 ちい。


 リシアは二つの菓子を見た。一つは形の崩れた大きな鈴。もう一つは、シルが選んだ整った小さな鈴。


「二つも食べるかな」


 シルは迷わず頷いた。


「アイシャを何だと思ってるの」


 返事はない。


 だが、リシアにも否定はできなかった。昔のアイシャなら、二つとも食べるだろう。むしろシルの分まで狙うかもしれない。


 その光景を想像して、リシアは久しぶりに声を上げて笑った。


 マルタが荷車から振り向く。


「何か面白いことでもあったかい?」


「昔の友人を思い出していました」


「大事な人かい」


「はい。とても」


「なら、菓子は早めに渡しな。焼き菓子も言葉も、取っておきすぎると硬くなるよ」


 リシアは二つの鈴型を布で包み、鞄の奥へ大切にしまった。


「そうします」


 夕方が近づく頃、マルタの荷車を離れた。


 焼き菓子代を払おうとすると、マルタは半分しか受け取らなかった。残りは窯を見てくれた手伝い代だと言う。代わりに、街道の先について教えてくれた。


「西へ行くなら、二日ほどで鐘継ぎの宿場に着くよ。名前の通り、昔の鐘を修理して各地へ送る職人が集まる場所さ。ただ、今は妙な噂がある」


「どんな噂ですか」


「鐘を鳴らしていないのに、夜になると誰かの歌が聞こえる。しかも、聞いた人によって歌詞が違うんだとさ」


 リシアは足を止めた。


 石列の怪異に似ているようで、違う。


 足音ではなく、鐘。


 誰かによって歌詞が変わる歌。


「黒譜の民との関係は?」


「分からない。ただ、灰色の髪で楽器箱を持った旅人が向かったのは、その宿場の方だよ」


 次の導線は西にある。


 すぐ追うべきかは、まだ決められない。石列で歌った喉を休め、星の断章を整理する時間も必要だった。けれど、何もせず立ち止まり続けるつもりもない。


 リシアはマルタへ礼を告げ、シルと共に西の道へ歩き出した。


 肩の上では、シルが新しい鈴型焼き菓子を大事そうに抱えている。一口かじるたび、ぱり、と軽い音がする。鞄の返る鈴が、ちりん、とそのあとへ続いた。


 ぱり。


 ちりん。


 今度は、どちらの音も遅れない。


 リシアは歩きながら、歌詞帳の上から鞄へ触れた。


 星の断章は、足もとに置く小さな光。


 その光は、前へ進めと命じない。


 それでも今、リシアは自分の意思で西へ向かっている。


 鞄の奥には、いつか渡すための二つの焼き菓子がある。


 渡せる保証はない。


 受け取ってもらえる保証もない。


 それでも、渡すつもりで持っていく。


 その選択もまた、今のリシアが自分で置いた一歩だった。

お読みいただきありがとうございます。


今回は、星渡りの石列編を終えたあとの小休止回でした。


石列で失った鈴型焼き菓子を、リシアとシルは旅商人マルタと一緒にもう一度作ります。


同じものを元に戻したわけではありません。失った焼き菓子は戻らなくても、その時の選択を抱えたまま、新しいものを作ることはできます。


リシアは、いつか会うかもしれないアイシャのためにも二つの焼き菓子を残しました。


次は、夜になると人によって違う歌が聞こえるという「鐘継ぎの宿場」です。

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