鐘継ぎの宿場編 109話 鳴らしていない鐘の歌
星渡りの石列を離れたリシアとシルは、街道沿いで菓子と薬草を売る旅商人マルタと出会った。
石列で失った鈴型焼き菓子をもう一度作ることになり、リシアはマルタに教わりながら、新しい焼き菓子を焼き上げる。
シルは再び鈴型の菓子を手に入れ、リシアはいつか会うかもしれないアイシャのためにも二つを残した。
過去に戻ることはできなくても、今の自分が想いを持って歩くことはできる。
マルタから、夜になると鳴らしていない鐘から歌が聞こえ、その歌詞が聞いた人によって異なるという「鐘継ぎの宿場」の噂を聞いたリシアは、西へ向かった。
鐘継ぎの宿場ベルハルトへ近づくと、街道の左右に鐘が増えていった。
最初に見つけたのは、草原の中へ半分埋もれた小さな鐘だった。緑青に覆われ、表面に刻まれた文字はほとんど読めない。少し先には荷車ほどの大きさの鐘が横倒しにされ、その亀裂へ新しい金属が流し込まれていた。さらに歩けば、屋根のある作業場で職人たちが細い鐘を磨き、古い鐘と新しい金属を繋ぎ合わせている。
金槌が金属を打つたび、澄んだ音や鈍い音が街道へ飛んだ。けれど、不思議なことに完成した鐘を鳴らす者はいない。鐘の中にあるはずの舌は革紐で固定され、いくつもの鐘には厚い布が掛けられていた。
鐘を直す宿場なのに、鐘の音だけが禁じられている。
シルも違和感を覚えたらしく、リシアの肩の上で耳を何度も動かしていた。鈴型焼き菓子をかじる音も、町が近づいてからは控えている。前足に抱えたまま、周囲の職人が打つ金属音へ意識を向けているようだった。
「食べても大丈夫だと思うよ」
リシアが小声で言うと、シルは菓子と鐘を見比べたあと、慎重に端をかじった。
ぱり。
近くの作業場で金槌を振っていた男が、驚いたようにこちらを振り向いた。音の正体が焼き菓子だと分かると、胸を撫で下ろして作業へ戻る。
「そこまで警戒してるんだ……」
宿場の入口には、鐘楼を模した石門が立っていた。かつては門の上にも鐘があったらしいが、今は空の金具だけが残っている。その下には、新しい木札が掲げられていた。
『日没後、鐘に触れることを禁ずる。歌が聞こえても、歌詞を口にしてはならない』
最後の一文だけ、何度も墨を重ねたように濃い。
リシアは木札を見上げた。
「歌詞を口にしてはいけない……」
鳴らしていない鐘から歌が聞こえるだけなら、耳を塞げば済むかもしれない。しかし、歌詞を口にすることまで禁じている。聞いた歌を誰かに伝えること自体が、異変を広げるのだろうか。
石門の脇に置かれた机から、若い男性が立ち上がった。二十代半ばほどで、焦げ茶色の髪を短く切り、片耳に小さな金属板を下げている。鐘職人らしく、厚い革の前掛けには細かな金属粉が付着していた。
「旅の方ですか。今夜、宿場へ泊まる予定なら、名前と目的をお願いします」
「リシアです。旅の歌魔術師をしています。こちらはシル。西へ向かう途中ですが、鐘から人によって違う歌が聞こえるという噂を聞きました」
歌魔術師という言葉を聞いた途端、男性の表情が険しくなる。拒絶というより、警戒だった。
「歌術師が、噂を調べに来たんですか」
「何か分かるかもしれないと思いました。ただ、宿場の方が望まないなら、無理に鐘へ近づくつもりはありません」
「近づかなくても聞こえます。ここ三日ほどは、町のどこにいても」
男性は宿場の奥へ視線を向けた。通りには旅人や職人の姿があるが、活気に乏しい。日没までまだ時間があるにもかかわらず、店先では商品を片づけ始め、鐘を運ぶ荷車は次々と屋根のある倉庫へ入っている。
「私はカイル・ベルグ。鐘継ぎ組合で、宿場の出入りを見ています。詳しい話は組合長から聞いてください。ただし、歌術を使う時は必ず事前に知らせてください」
「分かりました」
「それと、聞こえた歌詞をそのまま口にしないでください。紙に書くのも避けてください」
「歌詞帳にも?」
カイルの目が、リシアの鞄へ向く。
「特に歌詞帳には書かないでください。ここで聞こえる言葉は、書いた者の声を覚えます」
リシアは歌詞帳の上から鞄へ触れた。
音が人の声を覚える。
石列では歌や足音が覚えられたが、ここでは歌詞そのものが聞いた者へ結びつくらしい。似ているようで、仕組みは異なる。
「誰かが歌詞を書いたことで、何か起きたんですか」
カイルは答えようとして、口を閉じた。代わりに、宿場の奥にある鐘楼を見上げる。
「組合長に聞いてください。私は、その話をする役目ではありません」
通行証代わりの小さな金属札を受け取り、リシアたちは石門をくぐった。
宿場の中には、大小さまざまな工房が並んでいた。鐘を鋳造する大きな炉、割れた部分を削る作業場、音を確かめるための細長い部屋。金属と炭の匂いが通りを満たし、軒下には鐘の形をした看板が揺れている。
しかし、どの看板にも舌がなかった。
風が吹いても、鐘の音は鳴らない。
人々は話し声まで抑えていた。子どもが走ろうとすると親が腕を掴み、荷車から金具が落ちれば周囲の全員が息を止める。音を恐れているというより、何かが音へ続くことを恐れているように見えた。
中央広場には大きな鐘が置かれていた。
鐘楼に吊られているのではない。石造りの台の上へ横向きに寝かされ、周囲を太い鎖で囲まれている。高さはリシアの背丈を大きく超え、表面には銀色の継ぎ目がいくつも走っていた。割れた鐘を何度も修復した結果、古い青銅と新しい金属が星座のような模様を作っている。
鐘の内側に舌はなかった。
それどころか、音を鳴らす部品はすべて外されている。
それでも、広場を通る人々は鐘を見ないようにして歩いていた。
シルが肩の上で身を低くする。リシアにも、鐘の奥に何かが残っているのを感じた。残響歌で触れれば、過去の音を拾えるかもしれない。だが、カイルから歌術を使う時は知らせるよう言われたばかりだ。
何より、鐘から何かを探る前に、宿場の者から話を聞くべきだった。
「歌術師さん?」
背後から少女の声がした。
振り返ると、十五、六歳ほどの少女が立っていた。短く切った赤銅色の髪に、煤の付いた頬。小柄だが腕には職人らしい筋肉がつき、革の手袋を片方だけ着けている。
少女はリシアよりも、肩の上のシルを見ていた。
「銀色のリス……本当にいた」
「私たちのことを知っているんですか」
「石門の人が、歌術師と銀色のリスが来たって伝えに来ました。噂が広がるの、早いから」
少女は胸元の金属札を見せた。鐘を二つ繋いだ印が刻まれている。
「私はユノ。あの鐘を直してる工房の見習い」
彼女が指したのは、中央広場に置かれた大鐘だった。
「鳴らしていないのに歌う鐘ですか」
「まだ、あれが歌ってるって決まったわけじゃない」
ユノの返事は強かった。否定というより、誰かに鐘を責められることを恐れているようだった。
「ごめんなさい。決めつけるつもりはありません」
「歌術師なら、鐘を眠らせられる?」
「何が起きているか分からないうちは、できるとは言えません」
「歌を止める歌もあるんでしょう」
「一時的に音や感情の動きを止める歌術はあります。でも、止めれば解決するとは限りません」
ユノの眉が寄る。
「みんな、そう言う。何が起きてるか調べる、鐘のせいと決まったわけじゃない、壊すのは最後だって。でも、その間にも聞こえる」
最後の言葉だけが小さくなった。
リシアは少女の顔を見た。心歌を意識して探ろうとしたわけではない。けれど、張り詰めた感情の隙間から、鋭い断片が触れてくる。
『あの夜も、私が鳴らした。今度こそ直さなきゃ。姉さんが戻れない』
リシアは表情を変えないよう息を整えた。
姉。
鐘を鳴らした夜。
聞こえたのは断片だけだ。鐘の異変と関係があるとは限らないし、ユノ本人が認めていない記憶かもしれない。
「ユノさんは、どんな歌を聞いたんですか」
少女の顔が強張る。
「言っちゃいけない」
「そのままの歌詞でなくても構いません。どんな気持ちになったかだけでも」
「聞いた人によって違うなら、私のを話しても意味ない」
ユノは大鐘へ背を向けた。
「組合長のところへ案内する。日が沈む前に話を終わらせた方がいいから」
組合の建物は、広場の北側にあった。厚い石壁と鉄の扉を持つ、工房と倉庫を兼ねた建物である。内部には修理途中の鐘が並び、それぞれの表面へ、製造地、年代、割れ方、以前の音階が書かれた札が結びつけられていた。
案内された奥の部屋では、白い髭を短く整えた女性が書類を広げていた。六十歳前後だろう。片目に金属製の細い眼鏡を掛け、指先には長年の火傷の跡が残っている。
「歌魔術師のリシアさんだね。私は鐘継ぎ組合長のオルガ・リンド。事情はカイルから聞いたよ」
オルガは椅子を勧めたが、ユノには座るよう言わなかった。少女も慣れているらしく、壁際へ立つ。
「先に確認する。あなたは、聞いた歌を別の歌へ作り直す術を持っているそうだね」
「共鳴詩のことでしたら、誰かの人生や想いから新しい言葉を紡ぐ歌術です。ただ、聞いた歌を都合よく書き換えるものではありません」
「なら、あの鐘から聞こえる歌を完成させることもできない?」
「今の段階では、何とも言えません。完成させる必要がある歌なのかも分かりませんから」
オルガは満足とも不満とも取れない顔で頷いた。
「それでいい。ここへ来た歌術師の中には、すぐに続きを歌えば静まると言った者もいた。実際に歌った者もいる」
「何が起きたんですか」
「鐘が、その歌術師の声で歌うようになった」
部屋の空気が冷えた。
オルガは机の引き出しから、何枚かの紙を取り出した。紙には文字が書かれているが、歌詞と思われる部分だけ黒い線で消されている。
「始まりは十日前。修理を終えた鐘を試しに鳴らした夜、宿場にいた者の何人かが、鐘の余韻に歌声が混ざっていると言い出した。だが、聞こえた歌詞は全員違っていた。亡くした子の名を呼ばれた者もいれば、故郷へ帰れと言われた者、罪を告白しろと言われた者もいる」
「同じ鐘の音から、別々の歌詞を聞いたんですね」
「翌日から鐘の舌を外し、鳴らさないようにした。それでも日没後になると歌は聞こえた。三日前、旅の歌術師が静めようと歌い、その声を鐘に取られた。今ではその者が宿場を離れても、夜になるとあの声で歌う」
「歌術師本人は?」
「生きている。だが声が出なくなった」
リシアは自分の喉へ手を当てた。
声を覚えるだけではない。
奪っている。
「その方は今どこに?」
「東の療養所へ送った。宿場にいると、夜ごと自分の声を聞かされるからね」
「鐘を壊すことは考えなかったんですか」
オルガの視線が、壁際に立つユノへ一瞬だけ向く。
「考えた。今も意見は割れている。あれは各地の鐘を繋ぐための親鐘だ。割れた鐘を修復した後、最後にあの鐘のそばで音を整える。壊せば、この宿場の仕事そのものが終わるかもしれない」
「仕事と人の安全なら、人の安全を優先するべきです」
リシアが言うと、ユノが壁際で拳を握った。
オルガは静かに答える。
「当然だ。だから鐘を鳴らしていない。夜は外出も制限している。だが、壊せば終わるという保証もない。鐘の歌が別の鐘へ移っていたら、親鐘を壊すことで、宿場中に散る可能性もある」
簡単に壊せない理由は、伝統や利益だけではなかった。
「何か、鐘に異変が起きる前の出来事はありませんでしたか」
「親鐘の大規模な修復を終えた」
オルガは机の上へ図面を広げる。大鐘の表面に走っていた銀色の継ぎ目が細かく描かれている。
「古い亀裂を削り、各地から集めた鐘の欠片を溶かして繋いだ。戦で壊れた鐘、火事で落ちた鐘、廃村から運ばれた鐘。全部で三十二の欠片を使っている」
「それぞれの鐘に、過去の音が残っていた可能性は?」
「残響歌なら分かるかい」
「調べられるかもしれません。ただ、今すぐ触れるのは危険です。欠片ごとの音が混ざっているなら、一度に拾うことで私自身が引き込まれる可能性があります」
「慎重で助かるよ」
オルガの言葉に、ユノが苛立ったように顔を上げた。
「慎重にしてる間に、また夜になる」
「ユノ」
「今日だって聞こえる。明日も聞こえる。いつまで調べるんですか」
「焦って鐘へ触れた結果、前の歌術師は声を失った」
「だからって、何もしないの?」
ユノの声が大きくなった。
直後、建物の外で金属が落ちる音がした。
からん。
部屋にいた全員が動きを止める。
オルガが窓の外を見る。太陽は西の屋根へ触れかけていた。日没まで、まだわずかに時間がある。
「今日は早い」
オルガが立ち上がる。
遠くから、鐘の音がした。
ごうん。
深く、低い音だった。
建物の壁が震え、棚に並んだ金属板が細かく鳴る。けれど中央広場の親鐘には、音を出す舌がない。誰も鳴らせるはずがなかった。
シルがリシアの肩へ飛び乗り、爪を立てる。
二度目の音は鳴らない。
代わりに、歌が聞こえた。
それは遠くから響く声ではなく、耳のすぐ内側で始まった。声の持ち主は分からない。男にも女にも、幼い子どもにも聞こえる。
リシアには、こう聞こえた。
まだ間に合う。
あの歌を完成させれば、彼女を連れ戻せる。
胸が強く打った。
彼女。
誰のことか、考えるまでもない。
アイシャを連れ戻せる。
死んだと思っていた幼なじみ。魔王になったかもしれない少女。敵として立つことになるかもしれない人。それでも、あの頃の彼女を取り戻せるなら。
リシアの足が、扉へ向かいかける。
肩の上でシルが鋭く鳴いた。
ちいっ。
同時に、オルガが机を強く叩く。
「聞こえた歌詞を口にするな! 自分が聞いた言葉を追うな!」
リシアは手の中へ爪を立てた。
今の声は心歌ではない。
アイシャの想いでもない。
鐘が、リシアの中にある願いを言葉にしただけだ。
壁際にいたユノが部屋を飛び出した。
「ユノ!」
オルガが叫ぶが、少女は止まらない。
リシアはすぐに後を追った。通りでは工房の扉が閉められ、職人たちが互いの腕を掴んでいる。耳を塞いでいる者もいるが、歌は耳から入ってくるわけではないらしい。何人かは呆然と広場を見つめ、それぞれ違う言葉を呟きかけては、周囲に口を塞がれていた。
ユノは中央広場へ走っている。
「ユノさん、止まって!」
呼びかけても、少女は振り向かない。
心歌が、今度ははっきりとリシアへ触れた。
『姉さんが待ってる。私が鐘を鳴らせば、あの夜の続きを聞ける。今度こそ、最後まで』
ユノは親鐘を囲む鎖を乗り越えた。
舌のない鐘の内側から、淡い光が漏れている。鐘の表面を走る銀色の継ぎ目が、一つずつ明滅し、三十二の欠片が別々の呼吸をしているように見えた。
ユノは鐘へ手を伸ばす。
リシアは歌おうとして、喉を止めた。
前の歌術師は声を奪われた。
鐘に向けて直接歌えば、同じことになるかもしれない。
しかし、何もしなければユノが鐘へ触れる。
リシアは周囲を見た。広場の端に、鐘を固定するための太い木槌が置かれている。鐘職人たちは音を恐れ、誰も近づけない。だが、鐘の歌が人の願いを使うなら、別の音で意識を戻せる可能性がある。
「シル、しっかり掴まっていて」
リシアは木槌へ駆け寄った。
重い。両手で持ち上げても、まともに振ることはできない。それでも引きずるように親鐘の台へ近づき、鐘そのものではなく、鐘を支える石台へ木槌を打ちつけた。
どん。
澄んだ鐘の音ではない。
鈍く、不格好な衝撃音が広場を揺らす。
ユノの肩が跳ねた。
「ユノさん!」
リシアは木槌を手放し、少女の腕を掴んだ。ユノは強く振りほどこうとする。
「離して! 姉さんが呼んでる!」
「今聞こえているのは、お姉さんの声ではありません!」
「分かってる!」
ユノの叫びに、リシアの手が止まりかける。
「分かってるけど、同じ声なんだ! あの夜、鐘の上から歌ってた姉さんと同じ声で、続きを聞かせてって言ってる!」
鐘の内側の光が強くなる。
ユノの手が、再び伸びる。
リシアは歌詞ではなく、名前を叫んだ。
「ユノ!」
少女の目がリシアへ向く。
「お姉さんが何を言ったかではなく、今のあなたが何をしたいのかを言ってください!」
「姉さんを戻したい!」
「それは願いです。今、あなた自身は何をしようとしているんですか!」
ユノは答えられない。
鐘へ触れる。
歌の続きを聞く。
姉を戻す。
その先で何が起きるかを考えていない。鐘の歌は、願いと行動の間を奪い、聞いた者をそのまま動かしている。
親鐘の銀色の継ぎ目が、一斉に光った。
三十二の声が重なる。
戻って。
許して。
鳴らして。
終わらせて。
歌って。
聞いて。
広場にいた人々が動き出した。老人は閉じられた工房へ向かい、若い職人は鐘を覆う布を外そうとし、子どもは母親の手を振りほどいて広場へ走る。それぞれが、自分にだけ聞こえる歌詞へ従おうとしていた。
このままでは止められない。
リシアは息を吸った。
鐘へ直接歌わない。
人々を操る声を消そうともしない。
今必要なのは、願いと行動の間に、一瞬だけ立ち止まる時間を作ることだった。
リシアは地面へ手をつき、広場の石畳へ歌を落とす。
〔響く言葉よ、消えなくていい。
けれど今は、足を待て。
願いと一歩の間に、
ひとつの息を置かせて。〕
静律結界が広場へ広がった。
鐘の歌は消えない。
人々の願いも恐怖も消えない。
ただ、動き出した足が一瞬だけ止まる。布へ伸びていた手が空中で固まり、走り出した子どもの靴が石畳へ留まる。
リシアの胸へ、止めた感情の重さが返ってきた。
会いたい。
謝りたい。
帰りたい。
やり直したい。
無数の願いが一度に流れ込み、息が詰まる。静律結界は感情を消す術ではない。動きを一瞬留めるだけで、抑えられた想いはいずれ元の勢いで戻ってくる。
長くは保てない。
「オルガさん!」
リシアは歌を保ちながら叫んだ。
「皆さんへ、鐘から離れるよう指示してください! 結界が解ける前に!」
オルガはすぐに鐘職人たちへ声を飛ばした。
「目の前の者を一人ずつ掴め! 歌詞を聞くな、名前を呼べ! 工房へ戻すんだ!」
カイルたちが動く。止まっている者の肩を抱き、名前を呼びながら広場の外へ連れていく。耳を塞げとは言わない。鐘の歌より近い場所から、本人の名前を繰り返している。
リシアはユノの腕を掴んだまま、静律結界を少しだけ弱めた。
「ユノさん。今から足が動きます」
少女の目から涙がこぼれる。
「離して」
「離しません」
「姉さんが」
「聞こえていても構いません。でも、鐘へ触れるかは、聞こえた歌ではなく、あなたが決めてください」
結界が揺れる。
ユノの腕へ力が戻る。少女は鐘へ向かおうとして一歩踏み出し、リシアの手に止められた。もう一歩。今度は弱い。
「姉さんは、あの鐘の上で死んだ」
ユノが泣きながら言う。
「鐘を鳴らして、崩れた鐘楼から落ちた。私が鳴らしてって頼んだから。祭りの最後の歌を、もう一回聞きたいって」
リシアは黙って聞いた。
「姉さんは笑ってた。大丈夫って言った。でも、大丈夫じゃなかった。私が頼まなければ、姉さんは鐘楼へ上がらなかった」
心歌が、痛いほど響く。
『私が鳴らした。私が落とした。直せば戻る。直せなければ、姉さんが死んだままになる』
ユノは、鐘を修復することで姉の死まで直そうとしている。
その願いを否定しても、少女は止まらない。
「ユノさん。お姉さんを戻したい気持ちは、消さなくていいです」
「だったら――」
「でも、その鐘に触れて戻ってくるものが、本当にお姉さんなのかを確かめなければいけません」
ユノの動きが止まった。
「今聞こえた声は、あなたが一番聞きたい言葉を知っています。でも、お姉さんが知らないことまで知っていますか」
「知らないこと……?」
「二人だけの思い出ではなく、あなたが知らなかったお姉さんの気持ちです。鐘はそれを歌いましたか」
ユノは唇を開いたが、答えは出なかった。
鐘の声は、ユノの願いを知っている。
罪悪感を知っている。
だが、それはユノの中にあるものだ。
姉本人の心ではない。
その違いに気づいた瞬間、ユノの腕から力が抜けた。
静律結界が崩れる。
止められていた感情が広場へ戻り、人々が泣き、叫び、膝をつく。だが、すでに大半は鐘から離されていた。ユノも鐘へ向かわず、その場に崩れ落ちる。
リシアは支えようとしたが、鐘の歌が突然強くなった。
ごうん。
舌のない親鐘が鳴る。
衝撃でリシアの手がユノから離れた。
鐘の内側から、銀色の線が伸びる。それは音の形をしながらユノの胸元へ向かっていた。少女が口を開く。自分の意思ではない。鐘が、ユノの声を使おうとしている。
リシアは咄嗟にユノの前へ立った。
銀色の音が胸へぶつかる。
耳ではなく、喉の奥へ冷たいものが入り込んだ。リシアの声を探り、歌詞帳へ繋がろうとしている。
頭の中に、再び言葉が響く。
あの歌を完成させれば、アイシャを取り戻せる。
今度は、より甘く、明確だった。
星詠みの歌を完成させれば、すべてを元に戻せる。
戦争も。
別れも。
アイシャが魔王となったことも。
歌術隊で犯した過ちも。
旅で救えなかった人々も。
全部。
リシアの手が歌詞帳へ伸びる。
書けばいい。
聞こえた歌詞を記せば、続きが得られるかもしれない。
カイルは、歌詞帳には書くなと言った。
それでも、もし本当にアイシャを取り戻せるなら。
肩の上で、ぱり、と音がした。
シルが鈴型焼き菓子をかじっていた。
こんな時に食べたのではない。
意図して鳴らしたのだ。
石列の夜と同じ、けれど今は新しく作った焼き菓子の音。過去を元に戻したものではない。失ったあとで、もう一度作ったものの音。
リシアは歌詞帳から手を離した。
「戻すんじゃない」
声に出す。
鐘の歌が揺れる。
「アイシャを、昔の姿へ戻すんじゃない。今のアイシャに会うために、私は歩いてる」
正しいかは分からない。
今のアイシャが何を望んでいるのかも知らない。
それでも、鐘が示す都合のよい過去へ戻すことは、アイシャ本人を見ていない。
リシアは胸へ入り込んだ銀色の音を、力任せに追い出さなかった。どこから来て、何へ繋がろうとしているのかを感じ取る。
銀色の線は、中央の親鐘だけから伸びているのではなかった。
三十二の継ぎ目。
それぞれの鐘の欠片から、別々の残響が集まっている。
火事を知らせた鐘。
戦の始まりを告げた鐘。
村の葬送で鳴った鐘。
婚礼を祝った鐘。
避難を呼びかけながら、最後まで鳴り続けた鐘。
異なる記憶と願いが、一つの親鐘に繋がれている。
それだけではない。
継ぎ目の一つに、他の欠片とは違う冷たい空白があった。
音が残っていない。
意図的に音を消された欠片。
その周囲から、聞く者の願いを歌詞へ変える力が広がっている。
「オルガさん!」
リシアは鐘から離れずに叫んだ。
「三十二の欠片の中に、由来の分からないものはありませんか!」
オルガが広場の端から答える。
「一つだけある! 西から来た旅人が、修復用に置いていった銀鐘の欠片だ!」
「灰色の髪で、音のしない楽器箱を持っていましたか!」
オルガの顔色が変わる。
「なぜ知っている」
マルタが見た旅人。
黒譜の民と同じ黒い外套かは分からない。だが、音のしない楽器箱に入っていた欠片が、親鐘へ継がれた可能性がある。
リシアは鐘の銀色の線をたどった。
問題の欠片は、鐘の下部にある。大人の手のひらほどの銀白色で、周囲の青銅から不自然に浮いていた。
ユノが顔を上げる。
「あれは、私が継いだ」
「外せますか」
「今すぐは無理。溶接してある。削るなら時間がかかる」
鐘の歌が再び広場へ広がろうとしている。
時間はない。
壊さずに欠片だけを外すこともできない。
なら、欠片と他の鐘の残響を一時的に切り離す必要がある。
リシアはユノへ手を伸ばした。
「鐘継ぎの仕事で、継ぎ目を確かめる時はどうしますか」
「小槌で順番に叩く。音が違う場所を探す」
「問題の欠片だけ、他と違う音にできますか」
「強く叩けば割れるかもしれない」
「割らずに、位置を教えてください。私が音の繋がりだけを止めます」
ユノは迷いながらも立ち上がった。近くに落ちていた小槌を拾い、親鐘の下へ潜り込む。
オルガが叫ぶ。
「ユノ、危険だ!」
「私が継いだ欠片です! 私が場所を示します!」
少女は鐘の表面を順番に叩いた。
こん。
こん。
こん。
古い青銅は低く響き、新しい継ぎ目は少し高い音を返す。
銀白色の欠片へ近づいた瞬間、音が消えた。
小槌は確かに金属へ触れたのに、何も鳴らない。
「ここ!」
ユノが叫ぶ。
リシアはその場所へ意識を集中した。鐘全体を止めれば、残された三十二の音まで傷つける。狙うのは、音のない欠片と周囲の継ぎ目だけ。
短く、正確に。
〔繋がれた音よ、今だけ手を離せ。
消された欠片へ、声を渡すな。
それぞれの響きは、それぞれの鐘へ。〕
歌が銀色の継ぎ目へ走る。
親鐘が激しく震えた。三十二の残響が一斉にリシアへ流れ込み、悲しみや喜び、恐怖、祈りが胸の中で混ざり合う。自分の感情との境目が揺らぎ、足元が崩れそうになる。
それでも、ユノの小槌が音を鳴らし続けていた。
こん。
ここは古い鐘。
こん。
ここは火事を告げた鐘。
こん。
ここは婚礼の鐘。
音が一つずつ違う。
全部を一つにしなくていい。
リシアは歌を細く保ち、銀白色の欠片だけを繋ぎ目から切り離す。
ぱきん。
小さな亀裂が走った。
欠片が鐘の表面から剥がれ、石台の上へ落ちる。
音はしなかった。
だが、親鐘から広がっていた歌が途切れた。
銀色の線が消え、広場へ静寂が戻る。
リシアはその場へ膝をついた。喉が焼けるように痛み、胸の中には三十二の鐘の残響がまだ渦巻いている。すぐに心歌や残響歌を使えば、自分の感情との区別を失いかねない。
シルが肩から降り、リシアの膝へ前足を置いた。
「大丈夫……ではないけど、少し休めば平気」
シルはじっとリシアを見る。
「本当に、少し休みます」
ようやく納得したのか、シルは膝の上へ座った。
ユノは落ちた銀白色の欠片を見下ろしている。欠片には、黒い譜面のような細い線が刻まれていた。黒譜術に似ているが、石列で見たものより色が薄い。黒ではなく、音を削り落としたあとの灰色だった。
オルガが布を何重にも重ね、欠片を包む。
「組合の炉では溶かさない。封じられる場所を探す」
「黒譜の民が置いたものかもしれません」
リシアが言うと、オルガは険しい顔で頷いた。
「灰色の髪の旅人だね」
「まだ黒譜の民と決まったわけではありません。でも、少なくともこの欠片が何を起こすか知っていた可能性があります」
ユノは親鐘へ触れようとして、手を止めた。
「歌は、もう聞こえない?」
「今夜は止まったと思います。ただ、鐘には三十二の残響が残っています。欠片を外したことで完全に元へ戻ったとは言えません」
「姉さんの声も?」
リシアはすぐに答えなかった。
ユノが聞いた声は、彼女自身の願いを材料に作られた可能性が高い。けれど、姉が死んだ夜の鐘の音が親鐘のどこかに残っている可能性まで否定できない。
「今聞こえた歌が、お姉さん本人のものだったとは思いません」
ユノの目から涙が落ちる。
「でも、お姉さんが鐘を鳴らした夜に残した音が、どこにもないとは言えません。探すなら、鐘があなたを誘う夜ではなく、あなた自身が聞く準備をした時にしましょう」
「その時、手伝ってくれる?」
「はい。ただし、今夜は休みます」
リシアが答えると、ユノは泣きながら少しだけ笑った。
「歌術師なのに?」
「歌術師なので、休まないと危険なんです」
オルガが深く頷く。
「それが分かっている歌術師なら、こちらも信用できる」
広場では、動きを止められていた人々が家族や仲間と抱き合っていた。誰も自分が聞いた歌詞を口にしない。それでも、どんな願いを使われたのかは表情から伝わってくる。
親鐘は沈黙している。
だが、事件が終わったわけではなかった。
灰色の髪の旅人が持ち込んだ音のない欠片。
鐘の中に残る三十二の過去。
ユノの姉が最後に鳴らした鐘の音。
そして、聞く者の願いを歌詞へ変え、声まで奪う仕組み。
リシアは歌詞帳を鞄から出さなかった。
今ここで書けば、鐘が残した言葉と自分の願いを混同する恐れがある。整理できるまで、白紙へは何も置かない。
西の空へ沈んだ太陽の名残が消え、宿場に本当の夜が訪れる。
鐘は鳴らなかった。
代わりに、ユノが小槌を一度だけ親鐘の古い青銅へ当てた。
こん。
小さく、素朴な音だった。
それは姉を戻す歌でも、罪を許す言葉でもない。
壊れていない場所が、まだここにあると確かめるための音だった。
お読みいただきありがとうございます。
鐘継ぎの宿場編、開幕です。
鐘継ぎの宿場では、鳴らしていない親鐘から、聞いた者によって異なる歌詞が聞こえていました。
リシアには、星詠みの歌を完成させればアイシャを取り戻せるという言葉が聞こえます。しかし、それはアイシャ本人の想いではなく、リシアの願いを利用した言葉でした。
親鐘には、灰色の髪の旅人が持ち込んだ「音のしない鐘の欠片」が継がれていました。欠片は外されましたが、鐘には三十二の異なる残響と、ユノの姉が亡くなった夜の音が残されています。
次回は、ユノの姉が最後に鳴らした鐘と、親鐘に繋がれた三十二の記憶を調べます。




