星渡りの石列編 104話 帰り道を知る音
夜の石守りの小屋では、師匠、ピオ、サージ、リシアの足音が外で鳴り続けていた。
リーネは師匠の足音を数えようとするが、石列は師匠の声を真似し、「もう数えなくていい」と彼女が一番欲しかった言葉で扉を開けさせようとした。
リシアは、師匠本人なら先に足音を聞けと言うはずだと問いかけ、リーネは偽物の声を見抜いた。
その後、リシアとリーネは小屋の外へ出て、本物の師匠の足音を探し始める。
石列の中には銀笛を持った師匠らしき老人が見えたが、同時に眠っていたピオも足音に引かれて動き出した。
シルの鈴型焼き菓子の音と、リシアたちの呼びかけでピオは一度止まるが、石列の奥ではさらに多くの足音が目を覚まし始めていた。
石列の奥で目を覚ました足音は、夜の砂を少しずつ揺らしていた。ざり、ざり、と一定ではない歩幅が重なり、速いもの、遅いもの、迷うように回るもの、まっすぐこちらへ近づいてくるものが混ざっている。小屋の明かりはまだ背後にあり、リシアとリーネの足元をかろうじて照らしていたが、その先の白い石柱の間は月明かりに青く沈み、まるで夜そのものが道の形をしているようだった。
銀笛を持った老人は、石列の中ほどに立っている。遠すぎて顔までははっきり見えないが、肩の傾きや杖の持ち方はリーネの師匠そのものらしい。リーネは細い棒を握り、唇を噛みしめていた。泣けば数がずれると自分に言い聞かせているのだろう。けれど、泣かないことと平気でいることは違う。彼女の心歌は、リシアの耳に小さく震えて届いていた。『戻って。師匠、戻って。私が数えるから。間違えないから。だから、帰ってきて』
リシアはその心歌を聞きながらも、すぐに歌へ変えなかった。今ここでリーネの願いをそのまま歌えば、石列は「戻って」という言葉だけを拾うかもしれない。戻ってほしい相手が、どこへ戻るのか。小屋へなのか、過去へなのか、死者の足跡へなのか。その向きを間違えた瞬間、歌は人を助ける灯ではなく、足を引く鎖になってしまう。
「リーネ、師匠さんの名前は?」
リシアが尋ねると、リーネは一瞬だけ目を見開いた。こんな時に名前を聞くのか、という顔だった。けれど、すぐに答える。
「ハルヴァ。ハルヴァ・エイン。石守りです」
「ハルヴァさんは、あなたに何と呼ばせていましたか」
「師匠です。名前で呼ぶと怒ります。見習いが調子に乗るなって」
その言い方に、リーネの声がほんの少しだけ柔らかくなった。怖い記憶だけではないのだろう。厳しく、ひどく、不器用で、それでも彼女にとって帰ってきてほしい人。リシアはその声の温度を覚え、石列の中の老人へ視線を戻した。
「では、名前ではなく、あなたの呼び方で呼んでください。ただし、戻ってとは言わないで」
「どうしてですか」
「石列は、戻るという言葉が好きすぎる気がします」
リーネは息を詰めた。小屋の前に落ちている銀笛が月明かりを受けて光り、その向こうで老人が一歩動く。ざり、と本物らしき重い足音が鳴った直後、左右の石柱の間から同じ重さの音が二つ返る。リーネは素早く棒で地面を叩いた。
「師匠、四つ。本物は中央。偽物、右と左」
「そのまま数えてください」
「はい」
リシアは鞄の返る鈴を押さえたまま、足元に意識を落とした。自分の足音も外にいる。さっきから何度か、石列の端で似た音が鳴っていた。リシア自身もまた、戻りたい場所を持っている。王都、慰霊の丘、アイシャの石碑、歌術隊の宿舎、まだ進軍詩を疑う前の自分。石列がそれらに近い音を返してきたら、自分は本当に聞き分けられるのか。
考えた瞬間、風の中に懐かしい音が混じった。
石畳を踏む軽い足音だった。乾いた砂ではない。王都の訓練場に敷かれた石の上を、誰かが跳ねるように歩く音。次いで、明るい声が聞こえた気がした。
「リシア、早く。置いてくよ」
喉が詰まる。
アイシャの声に似ていた。
似ている、というだけで胸の奥が引き寄せられる。違うと分かっているのに、足が半歩だけ前へ動きそうになる。肩の上でシルが鋭く鳴き、鈴型の焼き菓子をリシアの頬に押しつけた。ぱり、と小さな欠片が割れる音で、リシアは我に返った。
「……ありがとう、シル」
シルは焼き菓子を抱えたまま、怒ったように尻尾を膨らませている。食べ物を割ってまで止めてくれたのだと分かり、リシアは申し訳なさと温かさを同時に感じた。石列は、サージやピオやリーネだけを呼んでいるのではない。ここに立った者すべてへ、それぞれの戻りたい場所を鳴らしてくる。
リーネが横目でリシアを見た。
「今の、あなたの足音ですか」
「足音というより、声でした」
「声も道になります。聞きたい声は、足より早く戻ります」
「……怖い場所ですね」
「はい。でも、全部が悪い場所ではありません」
リーネは意外なことを言った。リシアが見ると、彼女は石列から目を逸らさないまま続ける。
「迷って戻れなくなった旅人の足音を、入口まで返してくれることもあります。亡くなった人の足音を一度だけ聞いて、それで進める人もいます。石列は、戻りたい場所を見せます。でも、戻るかどうかを決められなくなった人を連れていくんです」
リシアはその言葉を胸に留めた。石列をただの悪意にしてはいけない。ここには、救われた人もいる。だからこそ危うい。優しいものほど、人は無防備に近づいてしまう。
石列の老人がまた一歩進んだ。リーネが数える。
「師匠、五つ。本物、中央。偽物、奥に三つ」
小屋の中から、サージの声が飛んだ。
「俺の音、近づいてる! 入口から二歩!」
その直後、ピオの母親が泣きそうな声で叫ぶ。
「ピオの足も動いてます!」
リシアは振り返りそうになったが、踏みとどまった。ここで全員が小屋の内側へ意識を戻せば、ハルヴァを見失う。だが小屋の中を放っておけば、ピオがまた歩き出す。リシアは喉の奥に歌を感じた。歌うなら、全員を一つの場所に縛るのではなく、それぞれが自分の足を数えられるだけの間を作る歌が必要だった。
「リーネ。石守りの数え歌はありますか」
「あります。でも見習いは夜には歌いません。間違えると、石列が逆に覚えます」
「歌詞を変えずに、私が支えます。あなたは言葉ではなく数だけを言ってください」
リーネは迷った。けれど、小屋の中でまたピオの母親が名を呼び、サージが自分の足音を必死に数えているのを聞くと、唇を引き結んだ。
「分かりました。数だけなら」
リシアは頷き、小屋の方へ半身を向けた。声を遠くへ飛ばしすぎないように、けれど小屋の内と外の全員へ届くように。石列に奪われにくい言葉を選ぶ。戻る、帰る、進む。そうした向きの強い言葉を避け、ただ「今」を数える歌へする。
リシアは短く息を吸った。
〔一つは、今の足。
二つは、握る手。
三つは、灯る火。
四つは、呼ぶ声。
数えた音は、数えた者へ。〕
歌は薄く広がり、小屋の入口と石列の境目に落ちた。リーネがすぐに棒を鳴らす。
「師匠、六つ」
小屋の中からサージが続ける。
「サージ、三つ。俺の足音、入口で止まってる」
ピオの母親が涙声で言った。
「ピオ、六つ。でも足は毛布の中です」
リシアは自分の足元を見た。外からリシアの足音が鳴る。ざり。石列はその歌を拾おうとしている。すぐに、同じ旋律の端が返りかけた。〔数えた音は――〕。リシアは声を強めず、次の言葉を重ねる。
〔借りた音は、土へ置け。
真似た声は、風へ解け。
名前を持つ足だけ、数に残れ。〕
今度は少しだけ強かった。喉に痛みが走る。石列の奥で、いくつかの足音が乱れた。偽物の足音は消えないが、輪郭がぼやける。リーネの目が鋭くなった。
「見えます。師匠、七つ。本物、中央から右へ一歩。偽物、奥に二つ、左に一つ」
老人、ハルヴァが確かに近づいていた。銀笛を握る手は震え、肩には無数の影が絡んでいるように見える。足音だけが彼を引いているのではない。石列に眠る誰かの戻りたい場所が、彼の足へ絡みついている。老人は石守りとしてそれをほどこうとしているのかもしれないが、ひとりでは重すぎるのだ。
リシアはもう一度歌おうとした。だが、ハルヴァが先に声を出した。
「リーネ」
今度の声は、さっき扉の向こうから聞こえた甘い声ではなかった。低く、かすれ、ひどく不機嫌そうな声だった。
「数を……止めるな」
リーネの顔がくしゃりと歪んだ。
「師匠……!」
「泣くな。数がずれる」
「泣いてません!」
「嘘をつくな。声が濡れてる」
そのやり取りに、リシアは思わず胸が熱くなった。ひどい言い方なのに、確かに本物だと思えた。リーネも同じだったのだろう。彼女は涙をこぼしながら、それでも棒を鳴らす。
「師匠、八つ。本物、中央。小屋まであと九歩!」
ハルヴァは一歩進んだ。ざり。だが、その瞬間、銀笛が彼の手の中で鳴った。ぴい、と細い音が夜へ伸びる。ピオの母親が悲鳴を上げ、物置の中でピオが跳ね起きた。
「ぼくの笛!」
ピオが扉へ向かって走り出そうとする。サージが咄嗟に前へ出て、少年を抱き止めた。だがサージ自身の足も外へ引かれている。二人分の力で扉へ向かう形になり、母親だけでは止めきれない。
「リシア!」
小屋の中からサージが叫ぶ。
リシアは歌うために息を吸った。けれど、ハルヴァが鋭く怒鳴る。
「歌うな! 笛へ乗る!」
リシアは息を止めた。銀笛の音は、歌を拾いやすい。ここで歌えば、石列はリシアの声を笛へ乗せ、ピオの足へ直接届けるかもしれない。歌いたい。止めたい。けれど、今歌えば悪化する可能性がある。
なら、歌わずに何をするか。
リシアは肩のシルを見た。
「シル、鳴らして」
シルは一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに鈴型の焼き菓子を高く掲げた。そして、思いきりかじる。
ぱりん。
銀笛とは違う、軽くて少し間の抜けた音が夜に割れた。ピオの足が止まる。完全ではない。けれど、笛の音に向いていた意識が、一瞬だけ別の音へ逸れる。
リシアは小屋へ向かって叫んだ。
「ピオくん、それはシルの音! あなたの笛はハルヴァさんが持っています。でも、取りに行くのはあなたの足じゃない!」
「ぼくの……」
「そう、あなたの笛です。だからこそ、あなたが起きて、自分で受け取るまで、誰にもあなたの代わりに持っていかせない!」
ピオは泣き出した。サージの腕の中で暴れる力が抜け、母親が覆うように抱きしめる。リシアは歌わなかった。歌えないからではない。ハルヴァの警告を聞き、今は歌わない方が守れると判断したからだ。けれど、それは以前のように安全運転へ逃げる沈黙ではなかった。歌う責任と同じ重さで、歌わない責任を選ぶ沈黙だった。
その間に、ハルヴァはさらに二歩進んでいた。リーネが叫ぶ。
「師匠、十! あと七歩!」
石列の奥から、偽物の足音が一斉に追いすがる。ざり、ざり、ざり。ハルヴァの足に絡む影が濃くなり、彼の膝が沈んだ。銀笛がまた鳴りかける。リーネが棒を握りしめたが、彼女の足も前へ出そうになっていた。
リシアは今度こそ歌う必要を感じた。笛に乗る歌ではなく、笛の音を避ける歌。言葉を遠くへ飛ばさず、リーネの棒の音へ合わせる。歌ではなく、数の後ろへ置く声。
「リーネ、棒を鳴らし続けてください。私の声をその後ろに隠します」
「そんなことできますか」
「やります」
リーネは棒を地面へ打ちつけた。かん。かん。かん。石守りの乾いた音が夜を刻む。リシアはその直後、音の影に声を潜ませた。
〔棒の音、道を切れ。
数える声、影を分けよ。
借りた笛は、子の朝まで黙れ。〕
銀笛が震えた。音を出そうとして、出せない。ハルヴァの手の中で、笛が月明かりを跳ね返す。ピオは母親の腕の中で泣いているが、もう歩いていない。サージも扉の内側で踏みとどまり、歯を食いしばって自分の足を見下ろしていた。
ハルヴァが、また一歩近づく。
リーネの声が震えながらも響く。
「師匠、十一! あと六歩!」
リシアの喉に痛みが走る。歌を短く抑えているのに、石列がその意味を奪おうとまとわりついてくる。だが、今はひとりではない。リーネが数え、サージが踏みとどまり、ピオの母親が名前を呼び、シルが焼き菓子の音で銀笛から意識を逸らしている。リシアの歌だけが道を作っているのではなかった。
ハルヴァが小屋の明かりの届く場所まで来た時、リーネはほとんど叫んでいた。
「師匠、十四! あと三歩!」
老人の顔が見えた。皺だらけで、厳しくて、煤けた石のような顔。その目は半分閉じかけているが、まだ意識はある。彼は銀笛をリシアの方へ投げた。
「受けるな!」
リシアは咄嗟に手を伸ばしかけ、止めた。受ければ、笛の音が自分の歌に繋がるかもしれない。銀笛はリシアの足元へ落ち、乾いた音を立てて転がった。シルが肩から飛び降り、焼き菓子の残りで笛の口を塞ぐように押さえた。
「シル!」
シルは必死の顔で笛を押さえている。鈴型の焼き菓子は粉々になり、欠片が銀笛の穴に詰まった。普段のシルなら、食べ物をそんな使い方にされれば怒るはずだ。だが今は、尻尾を膨らませて笛を押さえ続けている。
ハルヴァが最後の一歩を踏み出そうとした。
その時、彼の背後から、無数の足音がひとつの音になって鳴った。
ざり。
老人の体が後ろへ引かれる。リーネが悲鳴に近い声で叫ぶ。
「師匠、十五! あと一歩!」
リシアは歌おうとして、歌だけでは足りないと悟った。ハルヴァの足を引くのは、偽物の足音だけではない。石列に残された多くの戻りたい場所が、彼の背に絡んでいる。なら、必要なのは引き剥がす歌ではなく、それぞれの足音へ一瞬だけ「これはハルヴァの足ではない」と返す歌だ。
リシアは息を吸い、今度ははっきり歌った。
〔名なき足よ、名を返せ。
誰かの帰路を、ひとりに背負わせるな。
ハルヴァの一歩は、ハルヴァへ。
あなたの一歩は、あなたの夜へ。〕
夜の石列が大きく震えた。
返ってきた歌が、リシアの胸を打つ。喉が焼けるように痛み、足元がぐらつく。けれど、背後からリーネの棒の音が重なった。かん、と強い音。続いてサージの声、ピオの母親の声、ピオの泣き声まで重なる。
「師匠、十六!」
「ここだ、こっちだ!」
「ピオはここにいます!」
「笛、返して……でも、ぼくは行かない!」
声と数と歌が、一つの大きな束になった。押しつける歌ではない。誰かの選択を奪う歌でもない。それぞれが、自分の足を自分の場所へ戻そうとする音だった。
ハルヴァの体を引いていた影が、一瞬だけほどける。
老人は最後の一歩を踏んだ。
小屋の明かりの中へ。
ざり。
リーネが棒を落とした。
「師匠、十七。帰着」
ハルヴァはその場に膝をつき、荒い息を吐いた。リーネが駆け寄ろうとしたが、老人は片目だけ開けて怒鳴る。
「走るな。足音が乱れる」
「この状況でそれ言いますか!」
「言う。石守りだろうが」
リーネは泣きながら笑い、今度はゆっくり歩いてハルヴァの前に膝をついた。リシアはその光景を見て、ほっと息を吐きかけた。
だが、石列は終わっていなかった。
小屋の前に置かれた銀笛の周りで、焼き菓子の欠片がさらさらと砂に変わっていく。シルが慌てて前足で押さえるが、もう菓子の形は残っていない。彼は呆然とそれを見つめ、次に銀笛を睨んだ。
リシアは苦笑しかけたが、すぐに表情を引き締めた。
銀笛の穴から、細い星明かりのようなものが漏れていた。
それは黒譜術の黒ではない。ミレネの水鏡とも違う。もっと乾いた、遠い光。歌詞帳が腰のポーチの中で震え、白紙のページが熱を持つ。
ハルヴァが息を整えながら、低く言った。
「歌術師。お前、石列に歌を返されたな」
「はい」
「なら今夜、お前はもう客ではない。石渡りに数えられた者だ」
リシアは歌詞帳へ手を置いた。
「石渡り……?」
ハルヴァは石列の奥を見る。そこでは、まだ無数の足音が遠く鳴っていた。けれど、さっきより少しだけ乱れが減っている。
「この石列は、戻る場所を持つ者を試す。だが本当に危ないのは、戻りたい場所がない者じゃない。戻りたい場所が多すぎる者だ」
その言葉は、リシアの胸に沈んだ。
王都。
歌術隊。
慰霊の丘。
旅で出会った町々。
そして、アイシャ。
戻りたい場所はいくつもある。戻れない場所も、戻ってはいけない場所もある。そのすべてを石列が音に変えたら、自分はどこへ足を置くのだろう。
ハルヴァは続けた。
「夜明けまでに、お前の足音を見つけろ。でなければ、石列はお前の歌を帰り道にしてしまう」
リシアは息を呑んだ。
背後で、返る鈴が鳴る。
ちりん。
少し遅れて、石列の奥からリシアの歌の端が返ってきた。
〔ハルヴァの一歩は、ハルヴァへ〕
けれど次の瞬間、その言葉は形を変えた。
〔リシアの一歩は、どこへ〕
夜の石列が、答えを待つように沈黙した。
お読みいただきありがとうございます。
今回は、石守りの師匠ハルヴァを小屋の明かりまで戻す回でした。
ただし、リシアが一人で救ったのではなく、リーネの数える力、サージの踏みとどまる声、ピオの母親の呼びかけ、ピオ自身の「行かない」という選択、そしてシルの焼き菓子の犠牲が重なっています。
リシアは歌うべき場面と、歌わない方がよい場面をその場で選びながら動きました。
師匠は戻りましたが、石列はリシア自身の足音と歌を問い始めています。




