星渡りの石列編 103話 戻りたい場所
星渡りの石列で、リシアたちは石守り見習いのリーネと出会った。
石列では、歩いた足音が遅れて戻り、追いついた者を一番戻りたい場所へ連れていくという。
旅人サージは亡くなった母の足音に引かれ、少年ピオは落とした銀笛と足音を石列に置いてきてしまった。
リシアはピオを眠らせるのではなく、足が今ここにあると確かめるための歌を小さく歌った。
ピオは眠ることができたが、外にはピオの足音、サージの足音、石守りの師匠の足音、そしてリシア自身の足音まで集まり始めていた。
夜が来ると、石守りの小屋は音だけの海に浮かんでいるようだった。壁も扉も厚く、窓には布が掛けられている。それなのに外の足音は、石壁の隙間から染み込む水のように入り込んできた。ざり、ざり、と砂を踏む音が鳴り、そのたびに床の小石がかすかに震える。リーネは小石の列を四つに分け、師匠、ピオ、サージ、リシアの音をそれぞれ数えていたが、さっきまで平坦だった指先には、もう隠しきれない迷いが出ていた。
ピオは物置の毛布の上で浅く眠っている。母親はその手を包み、息子の足が動くたびに唇を噛んだ。サージは壁際に座り込んでいたが、自分の足音らしきものが外で鳴るたび、膝を抱える腕に力を込める。リシアは扉の正面に立ち、鞄の返る鈴が鳴らないよう片手で押さえていた。シルはリシアの足元に座り、鈴型の焼き菓子を食べずに抱えている。いつもなら真っ先にかじるはずの菓子を、今だけは音を出さないための宝物みたいに守っていた。
「師匠、七つ。ピオ、四つ。サージ、二つ。リシア、三つ」
リーネの声は落ち着いていたが、最後の数だけ少し遅れた。リシアはその遅れを聞き逃さなかった。石守りの数は、ただ足音を数えるだけではない。誰の足音がどこにあり、どれだけ本人から離れ、どの音が近づきすぎているかを見張るためのものだ。けれどリーネは見習いで、夜の石列を一人で数える役目ではなかった。師匠が戻らない今、その重さを小さな背中だけで支えている。
「リーネ、無理に一人で全部持たなくていいです」
「持たないとずれます。ずれたら、誰の足音か分からなくなります」
「なら、分けましょう。ピオくんの音はお母さんが分かります。サージさんの音は、サージさん自身が一番知っている。私は、自分の音と歌の返りを聞きます。リーネは師匠さんの音を数えてください」
リーネはすぐには答えなかった。小石を握ったまま、扉を見ている。その奥から、重い足音が二つ鳴った。ざり、ざり。続いて、細い笛の音が一筋混ざる。ピオの銀笛だと分かる音だった。ピオの母親が息を呑み、眠っていたピオの指がぴくりと動く。
「師匠が笛を持っています」
リーネは言った。けれどその声は、願いに近かった。
「本当に師匠さんですか」
「師匠の足音です。左足を少し外へ逃がす癖があります。冬に石段から落ちて、それからずっと」
「足音は真似できますか」
リシアが尋ねると、リーネの顔がこわばった。答えたくないことを聞かれた顔だった。けれど彼女は、嘘をつかなかった。
「できます。完全には無理です。でも、戻りたい場所に近い音ほど似ます。本人が聞きたい音に、石列は近づいてくるから」
その言葉と同時に、外から別の声がした。声と言うには薄く、風に混じった息のようだった。それでもサージは全身を硬くする。リシアには言葉までは聞こえなかったが、サージの心歌が震えるのは分かった。『帰っておいで。もう疲れただろう。母さんのところへ帰っておいで』
サージは耳を塞ごうとしたが、途中で手を止めた。彼は震えながらも、床の一点を見つめて言う。
「違う。母さんは、俺に帰ってこいなんて言わない。あの人はいつも、行けるところまで行ってみろって言ってた。帰ってくる場所は残しておくから、怖がって最初から戻るなって」
リシアは小さく頷いた。サージの声は震えていたが、それは逃げる声ではなかった。足音に追われた彼が、自分の記憶を足音へ渡さないために踏みとどまっている。リシアが歌で完全に支えるのではなく、サージ自身が母の記憶を選び直していた。
しかし、石列は一人だけを呼んでいるわけではなかった。物置の中でピオがうなされ、寝言のように小さく「笛……」と呟く。母親は慌てて手を握り直したが、ピオの足先が毛布の下で動き始める。リーネは小石を一つ動かし、「ピオ、五つ」と言った。その声に母親が青ざめる。
「ピオ。笛はあとで探すから。今はここにいて」
「ぼくの……音……」
ピオは目を閉じたまま呟いた。心歌が薄く流れる。『ぼくの足音だけ置いてきた。笛も置いてきた。母さんに怒られる。みんなに迷惑をかけた。取りに行かなきゃ』
リシアは喉に力が入りそうになるのを抑えた。ここで強く歌えば、ピオの足は止められるかもしれない。けれど、それでは彼の「取りに行かなきゃ」という恐怖を歌で押さえつけるだけになる。さっき眠りを守るために歌った時も、歌は完全には小屋の中に留まらなかった。なら今度は、歌ではなく言葉を先に置くべきだった。
「ピオくん。聞こえていたら、指だけで返事をして」
ピオの指が、母親の手の中でわずかに動いた。
「笛を大事にしているんだね。でも、笛を取りに行く役目は、今は眠っているピオくんじゃない。起きている私たちが考える。だから、今のあなたの仕事は、足をここに置いたまま朝まで眠ることです」
ピオの眉が寄る。母親が涙声で続けた。
「怒らないよ。銀笛より、あなたがここにいる方が大事。だから戻らなくていいの」
母親の言葉に、ピオの足先が少しだけ止まった。外の軽い足音も、入口の前で迷うように弱まる。リシアはそこでようやく、小さく息を吐いた。歌うことだけが責任ではない。歌う前に、誰の声を本人へ届かせるかを選ぶことも、歌術師の仕事なのだと感じた。
その時、扉が一度だけ叩かれた。
こつん、と乾いた音だった。小屋の全員が凍りつく。シルが焼き菓子を抱えたまま尻尾を膨らませ、リーネは小石を握る手を止めた。もう一度、こつん。続いて、低い声が扉の向こうから聞こえる。
「リーネ、開けなさい」
リーネの顔から血の気が引いた。
「師匠……」
彼女は立ち上がりかけた。リシアはその腕を掴まない。無理に止めれば、リーネの足はかえって扉へ向かう。だから腕ではなく、声を先に置いた。
「合図はありますか。師匠さんが本当に戻った時の合図です」
リーネの足が止まる。扉の向こうでは、また声がする。
「リーネ、数はもういい。開けなさい」
その言葉に、リーネの唇が震えた。心歌が細く揺れる。『もう数えなくていい。そう言ってほしかった。ずっと、誰かに代わってほしかった。師匠に戻ってきてほしかった』
リシアは胸が痛んだ。石列は残酷だ。ただ死者や過去を見せるだけではない。本人が一番欲しい言葉に寄せてくる。リーネにとっての戻りたい場所は、師匠の隣で、数を間違えても叱られるだけで済んだ時間なのだろう。だが、今扉の向こうにいるものは、その優しさを使っている。
「リーネ」
リシアは静かに呼んだ。
「本物の師匠さんなら、数をもういいとは言いますか」
リーネは答えない。けれど、握った小石が音を立てるほど強く閉じられていた。扉の向こうの声は、さらにやわらかくなる。
「疲れただろう。もういい。お前はよくやった」
リーネの目に涙が滲んだ。
「……師匠なら、そんな言い方はしません」
声は小さかったが、はっきりしていた。
「師匠なら、先に足音を聞けと言います。泣くのは数えてからにしろって。ひどい人だから」
サージが思わず小さく笑った。ピオの母親も、泣きながら口元を押さえる。リシアはリーネの手元を見た。少女は小石を一つ、扉の列から外へ弾いた。
「今のは、師匠ではありません」
その瞬間、扉の向こうの声が途切れた。代わりに、砂を踏む音が何重にも重なる。ざり、ざり、ざり。サージの音、ピオの音、リシアの音、そして師匠らしき重い音。小屋の外に集まっていた足音が、同じ場所で円を描くように回り始めた。
リシアの返る鈴が、押さえている手の下で震える。ちりん、と鳴る前に止めたはずなのに、外から先に音が返ってきた。りん。続いて、リシア自身の声に似た歌の端が聞こえる。〔選ぶ足だけ今に残れ〕。それは確かに彼女が歌った言葉だった。けれど、石列から返ってくると、別の意味を持って聞こえる。今に残れ。ここに残れ。扉の内側に閉じこもれ。そんなふうに。
リシアは胸元を押さえた。自分の歌が歪められたのではない。言葉の向きが変えられている。歌った時にはサージの足を本人へ返すためのものだった。だが石列は、その歌を「留まる」ための歌として覚え、返してきている。これを放っておけば、誰かを守る歌が、誰かを閉じ込める音になるかもしれない。
「私の歌です」
リシアは言った。
リーネが振り向く。
「だから、私が数えます。どこで返って、どこで向きが変わったのか、聞きます」
「外へ出る気ですか」
「今すぐ奥へは行きません。でも、扉の前で聞くだけでは、師匠さんの本当の足音まで偽物に混ざります。小屋の外へ一歩出て、音の向きを確かめます」
サージが声を上げた。
「馬鹿か。さっき俺がどうなったか見ただろ」
「見ました。だから一人では出ません」
リシアはリーネを見る。リーネの顔には恐怖があった。だが、その奥に、行かなければ師匠を見失うという焦りもある。リシアは彼女の代わりに決めない。けれど、選ぶための形は作る。
「リーネ、あなたは出ますか。出ないなら、私が外の音を聞いて戻ります。出るなら、あなたが師匠さんの音を数えて、私が歌の返りを数えます」
リーネは小石を握ったまま、扉の前に立った。しばらく何も言わなかったが、やがて壁に掛けられた石札を一枚取る。それを首に下げ、細い棒を持ち直した。
「出ます。師匠の足音は、私が数えます」
「分かりました」
「ただし、歌うなら短く。歌詞を増やしすぎると、石列に拾われます」
「はい」
リシアは頷き、サージとピオの母親へ向き直った。
「サージさんは、扉の内側で自分の足音を数えてください。お母さんはピオくんの足を見ていてください。ピオくんが動いたら、起こすより先に名前を呼んでください。石列が呼ぶ音より、お母さんの声を近くに置いてあげてください」
二人は緊張した面持ちで頷いた。シルは焼き菓子をくわえ、リシアの肩へよじ登る。食べるつもりはないらしい。小さな鈴型の菓子を、まるでお守りのように抱え直している。
リーネが扉の掛け金を外した。外から冷たい風が一気に流れ込む。夜の石列は、昼間とは別の場所のようだった。白い石柱は月明かりを受けて青白く光り、地面の砂は星の欠片を砕いたように淡くきらめいている。その美しさが、かえって恐ろしかった。美しいものが安全とは限らない。優しい音が本物とは限らない。
リシアは扉の外へ一歩だけ出た。
ざり、と自分の足音が鳴る。リーネが続いて出ると、かつん、と石守りの棒が地面を叩いた。二人は小屋の明かりが届くぎりぎりの場所で止まる。すぐ前には、石列へ続く白い道が伸びていた。その道の途中に、銀色の小さなものが落ちている。
「笛……」
リーネが呟いた。
ピオの銀笛だった。だが、昼に落としたという位置にしては近すぎる。誰かが小屋の前まで運んできたように見える。リシアは拾いに行きたい衝動を抑えた。戻りたい場所は、時に手の届きそうな距離に置かれる。
外の足音が一斉に止んだ。
その静けさの中で、重い足音がひとつ鳴る。
ざり。
リーネが息を吸う。
「師匠、一つ」
次に、同じ重さの足音が別の方向から鳴った。
ざり。
リーネの顔が歪む。
「……違う。今のは、似せてるだけ」
さらに、別の足音。今度は、リシア自身の足音に似ていた。ざり。少し遅れて、石列の奥から歌の端が返る。〔今の足よ、ここへ戻れ〕。その歌はリシアを小屋へ戻すようにも、石列の奥へ呼ぶようにも聞こえた。
リシアは目を閉じずに聞いた。過去へ沈みすぎない。心歌を答えにしない。だが、逃げもしない。石列が自分の歌をどう覚えたのか、その責任を聞き取るために立っている。
その時、遠い石柱の間に人影が見えた。
背の高い老人だった。片手に石守りの棒を持ち、もう片方の手に何かを握っている。月明かりの下で銀笛が小さく光った。リーネが一歩前へ出そうになり、すぐに自分で止まる。
「師匠……?」
老人は答えない。ただ、ゆっくりと銀笛を掲げた。
その背後で、いくつもの足音が彼の影を追っている。まるで老人の足音が、無数の帰り道に絡め取られているようだった。
リシアは喉の奥に歌を用意した。今度は、足を止めるためだけの歌では足りない。老人を引く足音をほどき、リーネが数えられるだけの隙間を作る歌が必要だった。けれど、ここで長く歌えば石列に拾われる。
だから、リシアは息を短く吸った。
〔名を持つ足よ、影から離れよ〕
歌は一節だけだった。
石列の空気が震える。老人の影に絡んでいた足音のいくつかが、砂の上でほどけるように散った。リーネが鋭く棒を鳴らす。
「師匠、二つ。本物、右。偽物、左と奥」
リシアは続けない。歌を増やしたい衝動を抑え、リーネの声を待つ。今はリシアの歌で押し切る場面ではない。石守りが数え、リシアが隙間を作る。役目を分けることで、石列に奪われる意味を減らす。
老人が一歩近づいた。
ざり。
だが、その瞬間、リシアの背後で小屋の鈴が鳴った。
ちりん。
扉の内側から、ピオの母親の悲鳴が上がる。
「ピオ!」
リシアは振り返った。小屋の中で、眠っていたはずのピオが立ち上がっている。目は開いていない。足だけが、扉へ向かって動き出していた。
銀笛は、石列の道に落ちている。
師匠は、まだ石柱の間にいる。
そしてピオの足音は、今、小屋の内側から外へ追いつこうとしていた。
リーネが叫ぶ。
「ピオの数が飛んだ!」
リシアは老人とピオを同時に見た。どちらか一方だけを選べば、もう一方を失うかもしれない。けれど、迷っている時間はない。
シルが肩の上で、くわえていた鈴型の焼き菓子を強く噛んだ。
ぱりん、と澄んだ音が夜に割れる。
その小さな音に、ピオの足が一瞬だけ止まった。銀笛ではない。けれど、鈴に似た、子どもの耳に届く軽い音。リシアはその一瞬を逃さなかった。
「ピオくん!」
リシアは歌ではなく、名前を呼んだ。
「その音は、あなたの笛じゃない。シルのお菓子です。笛はまだ外、あなたの足は中!」
ピオの眉が苦しそうに寄る。母親が後ろから抱きしめ、何度も名前を呼んだ。サージも立ち上がり、扉の前に体を入れる。震えていたはずの足で、彼はそこに立った。
「行くな。俺みたいになるぞ、ピオ!」
その声に、ピオの足がさらに止まる。完全ではない。だが、母親の腕の中で彼の膝が折れた。
リシアは胸を押さえながら前を向き直った。石列の老人は、さっきより少し近づいている。リーネは涙をこぼしながら、それでも棒を鳴らした。
「師匠、三つ。まだ戻れる」
老人の手の銀笛が、月明かりを受けて光る。
その奥で、足音がさらに増えた。
ざり、ざり、ざり。
今度は四人分ではない。もっと多い。石列の奥に眠っていた、誰かの戻りたい場所が、一斉に目を覚ましたようだった。
リシアは唇を引き結んだ。
夜の石列は、ただ足音を返すだけではない。
戻りたい場所そのものを、音にして連れてくる。
そして今、リシアたちはその入口に立っていた。
お読みいただきありがとうございます。
今回は、石列が「本人の戻りたい場所」に似せてくる怖さを書きました。
リーネは師匠の声に揺れ、サージは亡き母の声に揺れ、ピオは銀笛と自分の足音に引かれます。
リシアは歌だけで押し切るのではなく、サージ本人の記憶、ピオの母親の声、リーネの数える力、シルの焼き菓子の音を使いながら動きました。
ただし、師匠はまだ完全には戻っておらず、石列の奥ではさらに多くの足音が目を覚まし始めています。




