【2-4】ラグナロク=ドラゴニール
連れて行かれたのは、公城の一室だった。
「ちょっと待ってて。支度するから」
そう言ってラナさんは奥の部屋に消えていった。
一人残された私は、ぼんやりと室内を眺めた。質素だが機能的な部屋だ。壁には無数の剣傷が刻まれ、地図が何枚も重なって貼られている。机の上には書類の山。窓の向こうには砂漠が広がっていた。
(……相変わらず、強引な人だな。憎めないけど)
改めて部屋を見渡して、私は気づいた。
(待って。ここ、誰かの私室じゃない? しかもけっこう上の立場の人の……)
嫌な予感が、するすると這い上がってきた。もしかして、もしかしなくても――。
「ふう、さっぱりした」
戻ってきたのは――男だった。
赤い髪に赤い瞳。長い髪を無造作に束ねた、見上げるほど背の高い男。大きな傷跡がいくつも刻まれた、戦士の体だ。
ただ立っているだけで、圧がある。
前の世界でジークたちから聞いた、『大陸最強』という言葉が頭をよぎった。
「あなたは……」
「俺がアンタの探し人だよ。聖女様。俺がラグナロク=ドラゴニール。ローレ大公国の大公だ」
頭の中が真っ白になった。さっきまで一緒にヤクの串焼きを食べていた女性が、今目の前に立つ男と同一人物だと脳が処理しきれない。
「待って。なんであなたが……!それに、私のことを聖女って……」
「アンタが俺に用がありそうだったから、俺のほうからわざわざ出向いたんだよ。この数日、俺にどうにか会おうとして嗅ぎ回ってただろう」
ラグナは壁にもたれ、腕を組んだ。その目は鋭いが、敵意とは違う何かを帯びていた。観察、とでも言うような目だ。
「なのに地団駄を踏んでばかりで、なかなか直接来やしない。このまま放置しとくのも気に障るしな。だから俺本人が問いただしに来たってわけだ」
「う……」
恥ずかしかった。三日間、あれだけ悩んで迷って堂々巡りしていたのに、当の本人にすっかり気づかれていたとは。
「……なんで私が聖女だって分かったの?」
「簡単だよ。俺も聖女召喚の場にいたからな」
「え? あの場は王国の重鎮しか入れないはずじゃ……」
「間者を使えばどうとでもなるだろ。王国はザルだしな。それから間者にアンタの後を追わせたら、行き先が俺の国だって言うじゃないか」
淡々と話すラグナを、私はじっと見つめた。
「……殺そうとしてるとか思わないの? 聖女嫌いの国に、聖女が来たのに」
試すように言った。本当のことを知りたかった。この人がどこまで読んでいるのかを。
「まあ、可能性としてはあった。だが俺は俺の直感を信じた。あの場での行動はすべて演技だってな」
「……! なんで」
「言ってることが至極真っ当だったんだよ」
ラグナの声は、どこか呆れているようでもあった。
「自分の国のことは自分たちでなんとかしろ。それは当たり前のことだろう。聖女なんかに頼ったら、この世界はどんどん弱くなる。あんたはそれを危惧して、あえて大芝居を打った。そうだろう」
ラグナは私の目を見る。
「だが、この世界が危機に瀕しているのは事実だ。だから、こっそり俺に力を貸しにきたんだろう」
「……全部当たってる」
思わず笑ってしまった。
策を練るのに三日かけたのに、会って数分で全部見抜かれた。悔しいのに、どこかほっとしていた。これ以上隠す必要がないことへの、安堵だったかもしれない。
「だが」
ラグナの声が、少しだけ変わった。低く、静かになった。
「魔王討伐は俺たちの問題だ。アンタには関係ない」
突き放された、と思った。やはりそうか、と身構えかけた。
だけど、次の言葉は――。
「だから、アンタが傷つく必要はないんだ」
「……え?」
息が止まった。
「俺の城にアンタの部屋と世話人を用意する。王国の奴らが殺しに来たら絶対に守る。だから、魔王討伐のことなんか忘れて、自由に生きろ」
自由に、生きろ。
その言葉が、胸の奥のどこかに直接刺さった。
召喚されてから今日まで、誰かにそう言われたことは一度もなかった。役に立ってほしい、力を貸してほしい、助けてほしい――そういう言葉ばかりだった。それが当たり前で、それ以外を望む資格など私にはないと、いつの間にか思い込んでいた。
(何もしなくていい。ただ、生きていていい)
目の奥が熱くなった。まずいと思ったが、もう遅かった。
「おい、泣いてるのか」
「だって……何もしなくていいなんて、この世界で初めて言われたから……っ」
声が震えた。手が震えた。涙が出てきた。
この世界に来てから泣くことを我慢していた。泣いてしまったら、全部崩れてしまいそうで、ずっと耐えてきた。それがこんなに簡単にあふれるとは思わなかった。
「あー……やっぱり王国のクソどもが許せないな。だから聖女召喚なんて反対だったんだ」
ラグナは大きくため息をついた。それは怒りを含んだため息だった。私にではなく、この理不尽な状況に向けられた怒りだと、なぜか分かった。
しばらく沈黙があった。ラグナは何も言わなかった。急かすことも、慰めることも、どちらもしなかった。ただ、私が泣き止むのをじっと待っていた。
やがて、ラグナが深々と頭を下げた。
「俺の謝罪なんか、なんにもならねえ。それでも謝らせてくれ。俺たちが不甲斐ないばっかりに、アンタにつらい思いをさせちまった。挙げ句の果てに殺そうとするなんて、本当に馬鹿げてる」
そんなふうに言ってもらえたのは、この世界に来て初めてだった。
私は涙を拭いて、息を整えた。
泣いてしまったことは少し恥ずかしかった。でも不思議と、後悔はなかった。泣いた後に残ったのは、不思議な軽さだった。
「……でも、やっぱり協力させてほしい。これは私の問題でもあるの」
ラグナが顔を上げ、私を見た。
「女神との契約で、魔王を倒したら元の世界に帰してもらえる。だから、魔王討伐は私にとっても無関係じゃない。だから、私に力を貸してほしいの」
嘘だ。
本当は帰れるはずはない。その権利は、一度目の世界で使ってしまった。
どうか、どうかこの嘘がバレませんように。
「……なるほどな」
ラグナはしばらく黙っていた。腕を組んで、じっと何かを考えているようだった。私は口を挟まなかった。この人が何を考えているのか、急かして崩したくなかった。
やがて、ラグナが口を開いた。
「ひとつ、間違いを訂正させてもらう。お前に力を貸すんじゃない」
その言葉に、一瞬どきりとした。断られたのかと思った。
だがラグナはそのまま、私に手を差し出した。
「魔王を倒すために、一緒に戦おう。リナ」
胸の奥で、何かがゆっくりとほどける感覚があった。
この世界に来てから、誰かにこんなふうに手を差し伸べられたことはなかった。頼まれたことはあった。すがられたことも、命令されたことも、懇願されたことも、あった。でも、こんなふうに――対等に、互いの意志として頼まれたのは、初めてだった。
「……うん。よろしく、ラグナ……さん?」
語尾が疑問形になってしまったのは、まだ名前の呼び方が決まっていなかったからだ。
「ラグナでいい」
あっさりと言われた。さん付けを軽く払いのけるような、気の置けない口調だった。
「……うん。よろしく、ラグナ」
今度は迷わず言えた。
ラグナはそれを聞いて、少し表情を緩めた。厳しい顔のまま、目元だけがわずかに和らいだ――そういう笑い方をする人だと分かった。
「しかし驚いたな」
ラグナが腕を組んだまま、こちらを見た。値踏みとは違う。観察、とも少し違う。どちらかというと、面白がっているような目だった。
「聖女召喚の場では、えらい怖ぇ女だと思ったが、まさかこんなやつだったとはな」
「こんなやつって……」
「俺に会いに来るのに、数日もふらふら悩みやがって。城の前でうんうん唸ってただろ」
「な……っ!」
「あと、食べ歩きを満喫しすぎだろ。こんなやつが俺を殺しに来たなんて言われても、説得力がねぇ。観光客の方がまだ分かる」
「な、な、な……!」
見られていたのか、と思ったら急に恥ずかしくなった。三日間、この街をうろついては考えて、うろついては考えて、結局何の決断もできずにいたところを、当の本人に全部見られていたとは。
そしてローレのグルメをこっそり楽しんでいたことも。
「……あの場では悪女を演じていただけで、こっちのほうが素だよ」
少しだけ開き直って、言った。
「優柔不断で、すぐ悩んで、すぐ迷う。それが本当の私」
言ってしまってから、少し後悔した。こんなに正直に話す必要はなかったかもしれない。でも、この人に嘘をついてもすぐ見抜かれる気がした。だったら最初から、本当のことだけ言おうと思った。
「それに、私だってびっくりしたわよ。世界最強のローレ大公が、まさか女の人だったなんて……」
「はぁ!? 逆だ逆!」
ラグナが低い声を上げた。眉間に皺が寄っている。本気で心外そうだった。
「この姿を見て女だって信じるほうがおかしいだろ。まあ確かに俺の女装姿は美しいが……」
仕返し成功。
「ふふっ」
笑いが漏れた。抑えようとしたが、無駄だった。
ラグナが少し間を置いた。何かを言いかけて、止めたような間だった。
それから、ほんの少しだけ声を落として、言った。
「……でも、悪女なんかより、そうやって笑ってるほうが、お前らしくていいな。リナ」
「……!」
私らしい。聖女ではなく、私自身を見てくれた人が、この世界にいただろうか。
思わず目尻が熱くなる。
(ああ、この人とはきっと、いい仲間になれそうだ)
そう思った。
だからこそ、隠し通さなければならない。
――私が、前の世界で彼を殺したことを。




