【幸せの迷宮編】エーレントが憑りついている あの子
「ロベルトは、貴女を失って苦しむ僕を幸せにしようとして、
【怨霊祭】が、最終的には自分も僕も死ぬことになる儀式とも知らずにエーレントを【復活祭】で復活させたのか。馬鹿者め……
それで…」
僕は、顔を開いてリヒトさんを見た。
「エーレントは今、どこに…」
リヒトさんは、秘儀書の一頁を静かに開いた。
「……この部分を見てください」
差し出された紙には、円がいくつも重なり合う奇妙な図が描かれている。
そのうちの一つだけが、かすかに“人の形”を帯びていた。
僕は無言で目を凝らす。
「……読めるところだけですが」
リヒトさんが指でなぞる。
「“儀の初めに、柱来たりて——魂を贄に、身体を棲み処とす”……」
「……棲み処、か」
喉の奥で、言葉が重く落ちた。
「はい。つまり……」
リヒトさんは、そこで一度言葉を切った。
「エーレントは、“誰かの身体に憑りついている”可能性があります」
部屋の空気が、わずかに張り詰める。
僕は図を見たまま、動かない。
円は、十二。
——十二支。
そのうちの一つだけが、“器”として描かれている。
「大王様」
リヒトさんが静かに続ける。
「――私が大神殿を去った三年前から、
十二支の王の中で……変わった方はいませんか。」
三年前――
——リヒトさんが大神殿を去り
——神犬クロエが暗殺され
そして、
州独立運動が活発になった頃だ。
僕は、視線を図から外さない。
だが、もう見ているのは図ではなかった。
脳裏に浮かんでいるのは、別の光景。
三年前までは
幼くて、いつも誰かを求める不安定な少年。
その少年は、三年前から、奇妙におとなしく、
州政も学業も見事に治めるようになった。
そう……十二支会議のときも、
誰とも深く関わらなくなった――
「――いるな。」
思わず、言葉が漏れた。
「え……?」
リヒトさんが顔を上げる。
僕は、ようやく視線を彼女に向けた。
「一人だけ、思い当たる。」
「それは……?」
僕は唇を噛みしめる。
「――確証はない。」
僕は、また彼女から目を逸らし、ゆっくりと立ち上がった。
「だが——」
窓の外は、もう夜だった。
夜空には煌々と満月が輝いている。
「神兎ユーリ・トモナリ」
*******
リヒトさんは息を飲む。
「近日中に、この調査結果を十二支に報告する緊急会議を招集する。
その時に…オスカーを呼んで、僕から話を聞く。
本人に聞くよりも確実で、動きやすい。」
リヒトさんは頷いて、心配そうにソロリと僕の手に、指を添えた。
たまらずに、僕はその指を額の刻印に持って行く。
「ロベルトは、【復活祭】でユーリの魂を奪い、
クロエを殺して…テオも殺そうとして…」
僕の瞼に、再びロベルトの面影が浮かんだ。
今度は幼いころから共に過ごしたロベルトの穏やかな笑顔だった。
しかし、それを振り払う。
「いずれにせよ、結局、ロベルトが死んで、
神鼠を倒すための、【怨霊祭】は頓挫しただろう?』
「はい、エーレントとしては、
【怨霊祭】を自分で継続するか、
別の手段を選ぶかしなければなりません。
あるいは、神鼠を倒すことを諦めるか…」
「…エーレントは、我が国の煙草産業の始祖。
実際、エーレントの作った技法書や道具は今でも使われている。
猫族を守るために産業を興し、さらにこの秘儀書まで作っていた人物…
処刑のときも誇り高さを失わず、遺体から自然と炎が上がったとか、
テレシウスの方が恐れおののいて、髪が真っ白になったとか伝わっている…
簡単に神鼠とツヴェルフェト王国を倒すことを諦めるとは思えない。
神鼠を倒すための別の手段を考えるように思えるな。」
「はい…」
窓に目を向けた僕は、すっかり夜も更けていることに気付いた。
「さあ、もう遅い。
今日の報告会は終わりにする。」
「はい!」
僕はチラリとリヒトさんを見て、ちょっと咳払いした。
もう、普通に話していいだろうか?
僕が、机に準備された菓子をすすめると、
リヒトさんはパッと顔を輝かせて「何味かな?」と言いながら口に入れる。
彼女の口の動きを隣に見て、急に胸が高鳴る。
僕は、慌てて秘儀書に目を落としてページをめくり始めた。
が、ふいに一つのページで手を止めた。
僕が、「これは?」とそのページを指さすと、リヒトさんは菓子を頬に詰めたまま固まった。
「こ…これは…」
リヒトさんは菓子をモグモグする。
僕は笑いをこらえる。
実は、僕も古代語の素養があるのだが、これは…
リヒトさんは懸命に言葉を選ぶ。
「夜…その…エーレントが…あの…」
とうとう僕が吹き出して、
「いや、ごめんなさい。言わなくていいですよ。
エーレントが、秘儀を使って女性と楽しもうとしていたんでしょう?」
と言うと、リヒトさんは猛然とプリプリし始めた。
「なによ!古代語読めるんじゃないの、やっぱり!」
僕が顔を寄せて「では、今度一緒に読みましょう。」と言うと、
さらにプリプリして、そっぽを向いて憤然と菓子を頬張っている。
あまりにも可愛い。
結婚したら、絶対に一緒に読もう。
絶対に。
*********
ふと、僕は秘儀書の最後のページに書かれた古代語を読み上げた。
『【怨霊祭】…
これにより…
ゴテスベルクが…開放され…
神通力の路が…閉ざされる…』
突然、僕の目の前が真っ暗になった。
僕の悍ましい記憶がガリガリと爪を立てて露わになる。
【ゴテスベルクの開放】…
どこかで聞いた、どころじゃない。
聞かされ続けたのだ。
誘拐戦争の2年間、暗い穴の中で蹴り回され、穢されながら。
「ゴテスベルクを開放しろ…」
「ゴテスベルクを開放しろ…」
「ゴテスベルクを開放しろ…」
「ゴテスベルクを開放しろ…」
「ゴテスベルクを開放しろ…」
「ゴテスベルクを開放しろ…」
「ゴテスベルクを開放しろ…」
…
息が苦しい…胸が弾けそうに圧迫される…苦しい…
「どうしたの?大丈夫?…大丈夫じゃないんだね!」
リヒトさんは僕を腕一杯に抱き締めて、背中を強くさする。
「またテレシウス?心臓が痛い?…楽にして…
どこをさすってほしい?胸?」
リヒトさんは背中も胸もさすってくれる。
「大丈夫だからね…楽になるまでここにいるから…」
リヒトさんはさすり続ける。
しばらくして、ようやく、僕の息苦しさは遠のいていく。
しかし、奇妙な不安が僕の心に残る。
【楽になっても、ならなくても、
ずっと、僕のそばにいて】
そう思いかけたが、また息苦しくなりそうだったから、
僕は身を起こして、リヒトさんに笑い掛けた。
「もう大丈夫です…」




