リヒトには、大神殿に行く理由も資格もない?
衛兵たちに暴漢どもを任せると、僕はリヒトさんと共に馬に乗り、ゆっくりと街に戻り始めた。
まだ、十分に日は高い。
少し風が強まって、青い空を流れる雲も急ぎ足だ。
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リヒトさんは青ざめて、僕のワイシャツに頼りなくつかまっている。
僕は、胸の辺りを内側から針で刺されている気がした。
「僕が、怖いですか。」
「え?」
「さっきのようなことを平気でやる、僕です。」
リヒトさんは、僕を見上げると強い声で言った。
「そんなことを考えているの?馬鹿シリウス!」
「ばっ…?」
意表を突かれて、綱を引っ張ったから、愛馬の足が乱れる。
僕は慌てて整える。
「多数の、武器を持った男たちから急襲を受けて、
神通力が使えない中で、戦えない私を守りつつ、
相手も殺さずに、短時間で倒す。」
リヒトさんは、夕日色の瞳で僕を見据えている。
「あの一瞬で戦略を立てて、確実に成功する。
しかも、聞くべきことを聞き出して、心も救う。」
リヒトさんは、キッパリと言い切った。
「さっきのこと、君を尊敬している。
私が君を怖がったと思うなら、私への冒涜よ。」
僕は顔をそむけた。
なぜか、泣きそうになったのだ。
「…痛いの?」
リヒトさんは、僕のワイシャツに手を差し入れ、首元の傷に手を当てた。
そして、僕の首元の傷に、
彼女の溶けそうな唇をゆっくりと押し当てた。
それからその唇は、僕の鎖骨を超えて、
胸元に滑り降りて、またゆっくりと押し当てられる。
「さっきは、あれが最善策だった。
でも、痛いんでしょう?心が…」
話し続ける彼女の吐息が、僕の胸の素肌にかかる。
心臓が激しく鳴り響き、耳元でガンガンと銅鑼を打ち鳴らされているようだ。
「リヒト…さん…」
僕はもう爆発しそうだ。
馬を止めて、彼女を引きずり降ろそうと思ったところで、
リヒトさんがパッと口を離し、僕を見上げて微笑んだ。
「痛くなくなった?」
「…え?」
「ほら、私が口を当てると、痛くなくなるんでしょう?」
一瞬ポカンとしたが、
「ああ…もう!僕はもう子供じゃ…!!ハァ…」
僕は色々とがっかりした。
が、同時に、この聡明で優しい女性が、愛おしくてたまらなくなった。
僕は、リヒトさんの黒い髪に頬を寄せた。
「この後、リヒトさんをハードウィック商会にお送りします。
僕は、コルデール宮に戻って、夕方、ディモイゼに出発します。」
リヒトさんがピクリと固まった。
僕は、ずっと…ずっと…あの日から、彼女に言いたかった言葉を、絞り出した。
「リヒトさん、僕と共に大神殿に帰ってください。」
しかし、リヒトさんはうつむいたまま動かない。
僕は心底焦った。
もうすぐ街に入る。
人が増えてくる。
それもそうだが、承諾を得られない未来を予想していなかったことも、
僕の焦りを加速させる。
「リヒトさん…?駄目…ですか?」
リヒトさんは苦しそうに何か言おうとして、唇を噛んでいる。
もう街に入り、僕への歓声と、リヒトさんに驚く声が溢れ始めた。
「リヒトさん…何か言ってください!」
焦燥に駆られた僕は、とにかくリヒトさんを促した。
リヒトさんはポツリと呟いた。
「私には、大神殿に行く理由も、資格も、ないわ。」
僕は言葉を継ごうとしたが、ハードウィック商会に到着してしまい、人々が転がり出てきた。
「大王様!」
「シーリン!」
リヒトさんを見下ろすと、こっそりと涙を拭っていた。
どうして?
もう既に想い人がいる?
さっきの口づけは?
理由と…資格?どういう意味だ?
僕は混乱した。
僕は彼女を馬から降ろすとき、急いでささやいた。
「夕方までに、コルデール宮に来てください。
一緒に大神殿に…」
しかし、僕の言葉は、周囲の大歓声にかき消された。
僕は、背筋を伸ばして馬を進め始めた。
ほんの少し振り返ったが、
ハードウィックの使用人に揉みくちゃにされているリヒトさんが見えただけだった。
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シリウス様は、「お一人で」コルデール宮に戻ってこられた。
首都ディモイゼへのご出立の準備が整う中、
シリウス様はお支度をするとおっしゃって、客間に籠っておられる。
門衛に、誰かがご自分に会いに来たら、すぐに、必ず通すように厳命された模様だ。
私は、各所への指示を一通り済ませると、シリウス様のもとに向かった。
「お帰りなさいませ。
…例の暴漢の件については、いったん、私オスカーにお任せください。」
シリウス様は小さく頷かれる。
既にお支度を済ませ、空色の生地に銀の刺繍が入ったマントに身を包んでいる。
「ところで…」
と私が言いかけると、シリウス様は「分かっている」というように、手を少しお上げになった。
「伝えたんだ。一緒に大神殿に帰ってほしいと。
でも…『大神殿に行く理由も資格もない』って…こ…」
シリウス様は握りこぶしで口を押さえつけながら、苦しそうに呟かれた。
「これは…断られ…たのか?」
チラとこちらを見る切なそうなアクアマリンの光が、私の胸を刺した。
「それで、どうされたんです?」
「『夕方までにコルデール宮に来てほしい』とは…何とか伝えた…」
「零点ですね。」
私にまで、この方の焦燥が伝播する。
「お話を聞く限り、貴方は肝心なことを全部すっ飛ばしているんでしょう。
やれやれ…リヒトさんからすれば、
屋根も床もない場所を『貴女の家』と言われるようなものです。」
「オスカー」
アクアマリンの光に怒りが混じる。
「お前の悪い癖だ。分かりにくいたとえ話はやめろ。」
「ほう?」
私は、遠慮なくシリウス様に近寄った。
「明確に回答しろとのご命令ですか?
シリウス様とリヒトさんのことなのに…
第三者の回答に従って、結局、お二人は幸せになるんですか?」
アクアマリンの光がフイと下に向く。
「それに、何事ですか…女性を呼びつけるとは!
しかも、命を懸けて、貴方の感情を取り戻し、
3年間も名前も素性も隠して生き抜いた女性を!」
私は、飲みかけのラムのグラスがあることに気付いた。
酒に逃げることなど決してしない我々の大王様が…
私は、そのラムの残りを一気にあおった。
「当然ではないですか…お二人が、お互いを分からないのは…!
分からないことが、なぜいけないんですか?
どうして、何もかも、今すぐに片をつけようとするんです!」
アクアマリンの光が、私をピタリと捕えて固まっている。
それを振り切って、私は扉に向かった。
「ご出立まで、あと半刻ほどですから、お好きになさい。」
急に背後で風が起こり、シリウス様が走って私の前に回り込んだ。
「半刻だな。それまでに戻る。」
私は思わず目を細めた。
と、次の瞬間、パッと私を抱き締め、
「大好きだよ、オスカー!」
と優しく言いながら、風のように出て行かれた。
残された私は、この無駄遣いがあの女性に申し訳なくて、天井を仰いだ。
…我々の大王様は、聡明で、決断が早くて、不器用な御方なのだ。




