シリウスは マシュマロのように柔らかい口と野獣のような力を持つ美青年
「しっかり僕につかまってください。」
横座りの私は、シリウスのパリッとしたワイシャツにしがみついたが、
ボタンが大きく開いていたので、
彼の胸元や、首の傷が露わに見えてしまった。
鍛え上げられた身体に驚いて、思わず手を離す。
大きく体勢を崩してしまったが、即座にシリウスが片手で私を抱えなおす。
「大丈夫…リヒトさんのつかまりやすいようにしてくれれば…
僕はどこでも支えられますから。」
私はそろそろとシリウスの首に手を回した。
「もう一度、身体を見たい」などという欲望に向き合う勇気はなかったから。
ああ…3年前と違う。
朝昼晩と思い出し、何度も何度も夢に見たあの少年は、
こんなにも逞しく、大きく成長したんだ。
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シリウスは黙っている。
私も黙っている。
たくさん、聞かなければいけないことがある。
でも、一つでも聞くと、また、別離が訪れる気がする。
それなら、永遠に黙って、彼の腕に包まれていたい。
シリウスは、何かから逃れるように、馬の脚をどんどん早める。
私は思わず、彼の首に強くしがみついた。
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白馬は町の外に走り出た。
沈黙の均衡を破ったのは、シリウスだった。
「僕は、今、貴女に対して、神通力を最小化して、封殺しています。」
私はよく分からずにシリウスを見上げた。
「これだけ僕と密接していても、貴女にはほとんど僕への憎悪や食欲がないはずです。
どうですか…?」
「あ…確かに…ない…」
シリウスは私の方にパッと顔を向けた。
「本当ですか?」
「あ、うん…」
「やったあ!!!!!」
私が吃驚してシリウスを見ると、彼は片手を空に突き上げている。
「やった…!やった…!!」
今度は馬上で、私を器用に抱えたまま、前傾姿勢で拳を握りしめている。
「どうしたの?大丈夫?…大丈夫?」
泡を食った私は、シリウスの頬に手をやった。
「降りましょう!リヒトさん!!」
と言うなり、シリウスは馬を止めた。
そこは、昨日私が「馬鹿シリウス」と叫んだ小高い丘。
シリウスは飛び降りると、私に手を差し伸べた。
と思うと、私の腰を両手で抱えて、くるくる回り始めた。
「やった!やった!!リヒトさん!!!やりましたよ!!!」
「ちょっ!!!
シ…シリウス!!!シリウスーー!!!!!」
「アハハハハ!!!」
シリウスは満面の笑みで私をようやく地上に降ろす。
シリウスが笑うと、大人びた雰囲気が消えて、愛らしい天使が来たみたいだ。
でも、私は目が回って、腰からストンと座り込んだ。
ぐらりと地面に倒れそうな瞬間に、隣に座ったシリウスが、私を膝の上で抱きかかえた。
このわけのわからない状況を恨みがましく思って目を開けると、
シリウスが心配そうに私の顔を覗き込んでいる。
あまりの顔の近さと、見慣れない美貌に恥ずかしくなって、私は横を向いた。
「ごめんなさい、リヒトさん。
…僕、この3年間、ずっと訓練してきたんです。
神鼠と猫族が、属性から解放される方法を…」
私はピクリと固まった。
「すごく難しくて…神通力を、
一つの、意思のある動く対象には最小化して、封殺して、
その他には最大化したり、並行して発動したり…」
私は、膝に抱かれたまま、シリウスの方に顔を向けた。
シリウスは遠くの町に目を向けている。
これまでの3年間に呼び掛けるように。
私は手をついて起き上がった。
そんな話を、寝転がったまま聞けるはずがない。
「昨日は…それを…してなかったの…?」
「はい…貴女が泣いているのを見て、心配になって、忘れてしまって…」
私は、自分がひどく恥ずかしくなった。
「ああ…でも…」
シリウスは急にゴロリと仰向けになり、アクアマリンの瞳をゆっくり閉じる。
「実際にリヒトさんにやってみると…力が要る…
まだ、もう少し…訓練しないと…」
シリウスの、目を閉じた美しい顔の静けさに、私は不安になった。
この超人的な体力の持ち主が疲労を覚えるほど、
神通力の最小化や封殺は負担なのか…?
術を解除しないと、休めないのでは…
もしかすると、これが原因で…
「…あの、私、遠くに行くから、術を解除したら…」
「ダメです、絶対に。」
シリウスはパッと目を開けて、私の手首をつかんだ。
「お願いですから、何も考えないで。
僕が心配なら…
…今は、ただ、ここにいると、約束してください。」
「わかった…」
シリウスはまたスッと目を閉じる。
私は、成長した、彫像のような美しい顔をまじまじと見つめた。
青空には雲が流れ、日差しの中で、風がさやさやと草の上を滑っていく。
その風は、シリウスの銀髪も透き通るように揺らしていく。
(前髪…ちょっと分け目がついてる…)
何をしてもそれが一番であるかのように似合う、
憎らしいほどの美しさに見惚れる。
風で流れる前髪の隙間から、神鼠の刻印が見え隠れする。
規則正しい呼吸…シリウスは眠ってしまったようだ。
私は、シリウスに顔を近づけ、
勇気を出して、自分がつけた口元の大きな傷を見つめた。
…痛々しい。
近くで見ると、本当に痛々しい。
これは、あの夜、私が、
肉を食いちぎり、血を舐め回して、つけた傷だ。
どれほど痛かったろう。
もう痛くはないんだろうか…
私はおそるおそる手を伸ばして、その傷跡にそっと触れた。
「気になりますか?」
シリウスが薄目を開けて、私の指を優しく握った。
「あの…ごめんなさい…こんな…傷をつけて」
「これは名誉の傷跡です。」
「…もう痛くないの…?」
「もう全然…」
とシリウスは言いかけて、ふと思いついたような顔になると、
「ああ、まだ少し痛むかもしれません…」
と、自分の口を押えるような仕草をした。
「リヒトさんが、またここに口をつけてくれたら、治るかも…」
噴火が起きたかと思うほど、顔が熱くなり、
頭はぐらぐら煮え立つのを感じた。
シリウスは、なぜか寂しそうに…虚空を見つめるように目を伏せると、
「冗談ですよ、リヒトさん…」
と言いながら、グッと上体を起こした。
でも、その横顔を見ている私の頭は、まだ茹っているようだ。
私は、シリウスににじり寄ると、彼の肩に手を掛けて、顔を寄せた。
シリウスは、目を大きく見開いて固まっている。
私の眼前に、これ以上ないほどシリウスの顔が広がると、
私は目を閉じて、
その痛々しい口の傷に、そっと私の唇をつけた。
私の唇が少しでも柔らかいならば、
その柔らかい部分で、私自身がつけた彼の痛みを上書きできるように、
唇の柔らかさが集中するように、押し付けた。
彫像のようだ、といつも思うシリウスの口は、
思いのほか柔らかく、マシュマロのようだった。
手と口の震えが伝わってしまいそうになったときに、
私は、ようやく、彼の傷から唇を離した。
「リヒトさん…」
シリウスは、まばたきを忘れたかのように、
熱を帯びたアクアマリンの瞳で、私を見つめる。
「…痛くなくなった…?」
私が尋ねた瞬間、シリウスは野獣のように私を押し倒した。
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押し倒された私が、はしたなくも悦びに戦慄いた次の瞬間、
シリウスの背中をかすめて、何かが地面に幾つも突き刺さった。
弓矢だ。
シリウスは、私と共に地面に伏したまま、その弓矢を片手で引き抜き、周囲を探っている。
「喋るな。ここにいろ。」
聞き取れるかどうかという低い声で私に言うと、今度は大声を出した。
「何の用だ?」
すると、いかにも人相が悪い5、6人の男が木や岩の陰から出てくる。
リーダー格と見られる男が、
「こんなところで大王様が女と乳繰り合ってるなんざ」
ヒュッ ヒュッ
「ガァッ」
「ゲッ」
リーダー格とその後ろの男の片目に、先ほどの弓矢が刺さっている。
それを見た他の男たちが、ほんの一瞬ひるんだときに、
シリウスは身を低くして一気に走り出し、
狙っていたらしい砂利を両手いっぱいに掴んで、猛然と彼らの顔に投げつける。
「あ゛!!!」
ここで倒れた二人には見向きもせず、残る男たち総出の攻撃を軽々とかわすと、
腰に引っ掛けていた残る弓矢を、的確に彼らの片目に突き刺していく。
最後に、砂利で倒れた男たちが立ち上がろうとしたところを、
シリウスは、強烈な回し蹴りとかかと落としで沈没させた。
…瞬く間の出来事だった。
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「おい、君」
シリウスは、回し蹴りで沈没した男の髪を、片手で引き掴んで持ち上げる。
「クロエの殺害に関係しているのか?」
「ハッ…誰がイキッたお坊ちゃんに…」
シリウスは、その片頬にドスッと弓矢を刺した。
「すまない。今は事情があって神通力が使えない。
だから、スマートに質問できないんだ。
悪いが、次は股間だ。」
「クロエ…クロエ様は、俺たちの女王様だ!殺すわけ…あるか!
あんただろう!クロエ様を殺したのは…」
「…笑えるな。君たちと僕、お互いでクロエの敵討ちか?」
シリウスは静かに立ち上がった。
「調査に協力するなら、これ以上罪は問うまい。
傷を癒したら、君たちはもう、君たちのために生きるんだ。
クロエの死は僕が引き取る。
それが大王としての、友人としての、僕の責任だ。」
男たちは完全に戦意喪失した。
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この時を見計らっていたようなタイミングで、
遠くから、コルデール衛兵の一隊が、私たちの方向へ駆け向かって来るのが見えた。




