泣いている私を、 早く抱き締めて 連れ去って
シリウスから逃げ帰った夜、
私は、髪から空色のリボンを、
首から銀色のロケットを外した。
シリウスの命を奪わないよう、彼から離れていたのに、
成長したシリウスは、
突然目の前に現れて、
徒に猫族の憎悪と食欲を呼び起こし、
彼自身の命を危険にさらした挙句、
追いかけて来すらしなかった。
私は、テオ様のプロポーズの言葉をぼんやりと思い出した……
「僕は、今、リヒトにとって一番やない。
でも、これから一緒に生きていけば、総合点で一番になれるやろ?」
もう完全に終わりにしよう。
これからは、シリウス以外の誰かと、
日常を、苦楽を共にして、生きていこう。
同じ場所に帰る喜びを分かち合おう。
もう、何でもいい…
何もかも、どうでもいい…
********
翌日、私は必死に仕事をしていた。
忙しければ忙しいほどいい。
無理な笑顔を作るのは疲れるから、
なるべく誰とも話さないように、書類の山に埋もれていた。
「シーリン?シーリン?」
メアリの声が聞こえる。私は小さくため息をついた。
「早く!早く!」
いきなり、メアリに腕を取られて、連れて行かれる。
私は面食らい、「え?どうしたの?何?」と尋ねながら、引きずられるように歩く。
「いいこと、いいこと!内緒、内緒!」
メアリは笑っている。
行き過ぎる使用人が笑顔で見送っているところをみると、
どうも皆は知っているようだが、さっぱり思い当たらない。
「はい、どうぞ!」
パッと開かれた部屋を覗くと、そこには可憐な空色のワンピースが飾られていた。
通常の平民服よりも遥かに華やかな、ドレスに近いお出かけ用のワンピースだ。
メアリは私の背中を押し、他のメイドが私の手を引っ張る。
扉が閉まると、皆がさっさと着替えをさせようとする。
「どうしたの?今日、何かあった?」
と私がすっかり混乱していると、メアリは胸を張った。
「ジェイクが来るわ!」
「…ジェイクさん?」
「シーリン、ジェイクのこと好きなんでしょ?
それなのにもだもだしているから…私が今日、デートをセッティングしてあげたの!」
「え?なに、それ?ちょ、ちょっと!!!
私、ジェイクさんのこと、別に好きじゃないって!
だから、ずっと…」
「自分で気づいてないの?
前、ジェイクの話をしたとき、シーリン、真っ赤になってたじゃないの。」
「ええ…?」
その間にも、私の支度は進んでいく。
「本当に、シーリンって奥手よね…
今日、ジェイクとデートに行って、前に進めてらっしゃい!!!」
「前に…進む…」
私はぼんやりして、もうなされるがままになった。
昨晩、私自身が考えた「シリウス以外の誰か」はジェイクさんということなのか…
…
「あら?今日は空色のリボンとロケットをしていないのね。」
メアリは意外そうに言った。
「ここに来てから、毎日つけているから…
あの色が好きなんだと思って、このワンピースの色にしたのよ!」
私はぼんやりとワンピースを見下ろした。
光沢のある生地のため、空色というより…アクアマリンという色合いだ。
私は唇を噛み、拳を握りしめた。
メイドが、猫族の刻印を隠すための黒いチョーカーを取ろうとする。
ハッとして、取らないようお願いすると、
メアリが、「いいわ!このチョーカーの上からつけましょう!」と機嫌よくメイドに言って…
「さあ、完成よ!ほら、シーリン、鏡を見て!!!」
鏡を見ると、飾られた自分がいる。
似合っているとも、似合っていないとも特に思わない。
でも、首につけられた、ワンピースと同じ生地で作られたアクアマリンのリボンが目に入ると、
耐え切れずに鏡から目を逸らした。
その間、メアリは扉を開けて、
「完成よ!みんな来て!」と他の使用人を呼び寄せている。
「シーリン、すごく可愛い!」
「似合っているわ!」
「なんだかお姫様みたいね!」
お姫様…?
本物のお姫様は、
マリア様のように、シリウスと結婚する。
私がお姫様「みたい」になっても、
全く興味のない男性が寄って来るだけだ。
メアリはどうだとばかりに胸を張っている。
この気のいい友人に悪い気がしたが、それでも説明しようと努力した。
「メアリ、勘違いしてるみたいだけど、私、ジェイクさんのことは、全く…」
その時、窓を覗いたメイドが「あ!ジェイク様が来ましたよ!」と嬉しそうに報告する。
確かに、馬車が止まる音、大声で話す声。
ゾッと悪寒が走った。
「ほら、行きましょう!シーリン!」
私は、笑顔の人々に見送られ、
熊に押さえつけられた獲物のように、無力に廊下を引っ張られて行った。
***
サーキュラー階段の上から見下ろすと、
既にジェイクが玄関に立って、笑顔で私を見上げていた。
「見違えたよ、シーリン。
僕のためにこんなに美しくなってくれて、嬉しい。」
口一杯に砂を突っ込まれている気がする。
「シリウス以外の誰か」と一緒に生きていくということは、
スタート地点ではこうなるものなんだろう。
…私は、口の中の砂を飲み込むように、自分に言い聞かせた。
ジェイクは私の手をとり、ねっとりと口づけをした。
「今日は一日君と過ごせることが楽しみだ。」
その瞬間、私の脳裏に、
テオ様の言葉の…昨日、抜け落ちていた、大事な部分が蘇った。
『僕かて、誰でもええわけちゃうわ。』
でも、皆が私たちを見て喜んでくれている。
逃げ場はない。
ジェイクはなかなか唇を離さない。
力を込めても引き抜けない。
目から涙が流れ落ちた。
ようやくジェイクは、その鬱陶しい唇を私の手から離した。
「涙を流すほど喜んでるの?僕の可愛いシーリン…」
**************
そのとき、外が異様なまでにどよめいていることに、私も含めた皆がハッとした。
「…そう。リヒトさんという名前の…」
「うちにはおりませんが…まずはお入りくださいませ。」
人々のどよめきと共に、涼やかな声が、風が舞い通るように玄関に入ってきた。
「黒い髪で、夕日色の瞳の女性です。
ああ、失礼、ここでは『シーリン』と…」
そこで、涼やかな声の主は、
ジェイクに手を取られている私に気付き、こちらを向いた。
コツ…コツ…
白シャツ、ズボン、皮ベルトという、これ以上ない簡素な服装なのに、
そこだけ光が差し込んでいるかのよう。
コツ…コツ…
誰もが息を飲んで見守る中、青年は美しい足音でジェイクと私の方向に向かってくる。
その輝くアクアマリンの瞳を、私から逸らさない。
「泣いているのですか…?」
「か、か、彼女は、私と出かけることが嬉しいんだ!」
「そうなんですか…リヒトさん?」
私は必死に首を横に振った。
「え…?」というジェイクの声がする。
「失礼、Mr…この女性と今日の約束を?」
「恐れ入ります、あの…サプライズで、ジェイクとデートさせようと…
シーリンを連れてきたんです…」
メアリが、震える声で、切れ切れに説明する。
「なるほど…では、失礼。」
というなり、青年は…シリウスは、
ジェイクが手を握ったままの私を、羽根のように軽々と抱き取った。
「昨日、オスカーに言われたんだ…」
シリウスは、私を抱き上げる腕に力を込めた。
「泣いている女性は、さっさと抱き締めろってね!!!」
輝くような笑顔を浮かべると、そのまま玄関に向かって歩き出す。
誰もが身じろぎ一つできなかったが、シリウスと私が玄関を出ると、
ようやく、この家の執事が「だ、大王様!」と急ぎ足で近寄る。
「お騒がせした。」
白馬の前で立ち止まったシリウスの声が、頭上で響く。
「今日はこの女性を…」
勢いをつけられたかと思うと、いきなり、私は、宙高く放り投げられた。
驚く間も、叫ぶ間もない。
シリウスはひらりと白馬にまたがると、
差し伸べた腕の中に、宙から落ちる私を羽根のようにふわりと抱きとめた。
「僕が連れて行きます!」
晴れやかに言うと、馬に鞭をあて、風のように走り出した。
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誰もが口を開けて見送っていたが、
ようやくメアリが、申し訳なさそうにつぶやいた。
「ごめん、ジェイク…埋め合わせはする…」




