リヒトさん、僕と一緒に大神殿に帰りましょう
僕は、裏手の門に行くと、そこにいた馬を借り受けて、慌ただしく駆け出した。
空っぽの頭が「リヒトさん」という言葉に埋め尽くされていく。
あの日、あの時、僕は、血だらけの僕自身を鏡で見ながら、誓ったじゃないか。
必ず、リヒトさんを「迎えに行く」と!
急に飛び出したどこかの使者を慌てて避けたとき、
僕は気を引き締めなおした。
僕は一心不乱に、ハードウィック家に向けて馬を駆け始めた。
*********
ハードウィック家に着くと、そこにいた馬車の隣に馬をとめる。
さざ波のように僕の名前が館の中に伝播していき、
執事や使用人が即座に何人も飛び出してくる。
僕は、機械的に挨拶しながらも、足を止めず、顔も向けず、大股で館に入った。
「リヒトさんはいますか。」
「は、はい!」
「どこですか。僕が迎えに行くので、教えてください。」
「あ、あの…」
と、使用人の一人がサーキュラー階段の上の方を指し示す。
階段の上では、メイドの一人が、目を横にやって「こちらです」と合図をしてくれている。
僕がそちらを見ると、確かに、壁の陰に黒い人影がある。
「リヒトさん!」
僕は立ち止まり、上を向いて大声で呼んだ。
「僕は分からないんです!
貴女が何を聞きたいのか!
僕が何を伝えればいいのか!」
僕の心は張り裂けそうだ。
「僕は…貴女に会うために、この3年を過ごしてきた!
貴女を迎えに行って、貴女と大神殿に帰りたかったから!
でも、そればっかりで…僕は…」
僕はいったん黙った。
込み上げるものを飲み込むため。
「ああ、何を言えばいいのかな…」
僕は髪を掻き回した。
「僕だって、貴女に聞きたいことがあるんだ。
貴女には、もう心に決めた人がいて…」
僕はもう一度黙った。
「…そういう人がいて、だから…」
僕は顎の下が激しく震えるのを必死でこらえた。
黒い人影が揺れる。
「…分からないことだらけです!
何が分からないか、分からないくらい!」
僕はもう声の震えが止められない。
黒い人影がそっと出てくる。
僕は必死で呼びかける。
「僕は忙しい。この国の大王だから!
でも、なんとか時間を作って、答えます。
貴女が聞きたいことに!」
とうとう、僕の目から涙がボタボタと落ちた。
「鈍感な僕が、違うことを答えたら、
噛みついてくれたっていい。
貴女に噛みつかれたくらいじゃ傷つかないほど、鍛えたんだ!」
僕は腕をまくって、上に掲げて見せた。
でも、涙で黒い人影はかすんでいる。
「貴女が結論を出すのは、それからでいいでしょう?
僕に、時間をください!」
僕はまくった腕で涙を拭った。
でも、もう腕から顔が上げられなかった。
僕はそのまま、力を振り絞って叫んだ。
「リヒトさん、僕と一緒に大神殿に帰りましょう!!!!!」
…
恐ろしいような一瞬の沈黙が訪れたが、
それはほんの一瞬で、
かすれた声が僕を呼んだ。
「シリウス…」
僕は頭が真っ白なまま、声の方を見上げた。
そこには、
大神殿の官吏のローブを着て、
大きなフードをかぶり、
小さな鞄を両手に下げたリヒトさんが立っていた。
僕は何かを言おうとしたが、声にはならなかった。
「私…今から、コルデール宮に行こうとしてたの…」
僕は、もう一度、腕で自分の涙を拭った。
「私、何してるんだろうって。
シリウスに真正面から聞く勇気もないくせに、
自分の望む答えをただ待って…
望んだ答えが聞けなかったら、勝手に傷ついて…」
リヒトさんは話しながら、怖気づいたような足取りで、それでも、一歩階段を降りた。
「自分でも、何が聞きたいのか分からない…
シリウスに何を話せばいいのかも…
3年前に…答えられなかったこともあるのに…」
僕は、階段を一歩上がった。
「もう呆れられたかな…って思ったけど…急いで…荷物をまとめたの…
みんなにお別れをしたり…謝ったり…」
リヒトさんは立ちすくんだ。
僕はゆっくり階段を上り始めた。
リヒトさんは懸命に話し続ける。
「どうしても時間がかかってしまって…
だから、『必ず行きます』って…使者も出して…
馬車も呼んでもらったの…」
僕は、自分が避けた使者や玄関前の馬車のことをハッと思い出し、
思わず足を止めた。
「さっき、シリウスが来たとき、怖かった…
もう一緒に帰らないって…言いに来たのかと…」
僕はかすれた声で「そんなわけ…」と言いながら、
階段を一歩、二歩と上った。
すっぽりとかぶったリヒトさんのフードが震えている。
「ア――――ッッ!!!」
突然僕は、上を向いて叫ぶと、足を止めて、右手で僕の頭をガチンと殴った。
リヒトさんはハッとしたように僕を見た。
ようやく、僕とリヒトさんの目が合った。
「リヒトさん…
僕と一緒に、
大神殿に、
帰ってください。」
リヒトさんの夕日色の瞳から涙がこぼれ落ちて、
口は何か言いたげに微かに動くが、
足が階段に縫い付けられたようになっている。
僕はもう、何もかもかなぐり捨てた。
両手を大きく広げると、力一杯叫んだ。
「リヒトさん!!!ここに、飛んで来い!!!!!」
リヒトさんは大きく目を見開いたが、
次の瞬間、しなやかな身体で羽ばたくように、
僕の腕の中に飛んで来た。
僕は、腕の中に飛んで来た小鳥のような猫を包み込んで、
思い切り、
思い切り、
思い切り、
抱き締めた。
もう言葉は浮かばなかった。
この瞬間、この国が滅んだとしても、
僕は気付かなかったろう。
リヒトさんが身体を動かした。
僕は、猫が逃げ出さないかと慎重に腕を緩める。
リヒトさんは僕を見上げた。
「私も、
シリウスと一緒に、
大神殿に帰りたいです…」
僕はいきなり、彼女の顔を、頭ごと両手で抱えて覗き込んだ。
言葉の存在自体が頭から吹っ飛んで、
僕は、まばたきばかりして彼女の顔を見つめる。
リヒトさんは、生真面目な表情で僕を見上げている。
僕は、リヒトさんの顔を抱えたまま、指で前髪を少しかき分け、
ゆっくりと、彼女の滑らかな額に口づけをした。
周囲から嗚咽の声が聞こえてきた。
そっと周りを見渡すと、ハードウィック家の使用人たちが、
ある者はハンカチを取り出し、ある者は互いに肩を抱き合って泣いている。
僕は、半刻以内にコルデール宮に戻らなければならないことを、思い出した。
僕は背筋を伸ばし、胸を張ると、改めて周りを見渡して一礼をした。
リヒトさんを抱き上げると、そのまま、馬の方に向かった。




