エーレントに完敗
突然、
僕は黒い突風に吹き飛ばされ、地面に叩きつけられた。
誰かがそばに立ったかと思うと、額の刻印に鋭い痛みが走った。
「う…」
「『う』じゃねェよ!!!クソ鼠が!!!!!」
僕は思い切り蹴り飛ばされた。
その人影は…エーレントは、リヒトさんに近づく。
「おい、アンタ、生きてる?」
呪文を唱える、澄んだ声が流れる。
「お、効いた。やれやれ。」
その間、ようやく僕の恐怖が消え、身体が元に戻って行くのを感じた。
僕は転がるようにリヒトさんに近づ…
「来るな、クソ鼠!!!」
ユーリの顔をした……エーレントのオレンジの瞳が、
激しい怒りで強い光を放っている。
僕は覚えず、ピタリと立ち止まった。
エーレントは、僕から守るように、リヒトさんを抱えている。
リヒトさんは、虚空のようなポッカリとした目をうっすらと開けた。
エーレントは彼女の瞳孔を覗き、
僕に押さえつけられた箇所を確認し、脈をとる。
「ヨシ、問題ねェ。」
煙草を咥えると、指から不思議な火を出現させて、吸い始めた。
目を奪われるような仕草だ。
「リヒト……アンタ、火の誓約を迷惑がってんだろ?」
リヒトさんの左手をとって、自分の左手と共に、
彼女の瞳の前に持って行く。
「この誓約はなァ……アンタの居場所でもある。」
エーレントは、リヒトさんに当たらないように、
少し横を向いて煙を吐く。
「アンタ、これまでは逃げる場所がなかったろ?
この誓約で、アンタはいつでも、俺のところに逃げられるんだ。」
僕は、このエーレントの言葉に凍り付いた。
「アンタが、必死にやってることは知ってる。
――でも、最後に、【逃げる】ってことも、スゲェ決断の一つだ。」
エーレントは、リヒトさんの顎を優しくつまんで、
その目を覗き込んだ。
「二百年前に、俺があるゴミ鼠に処刑されたから、
猫族は…特にアンタみたいな純血は、完全に居場所をなくした。
アンタも苦労して生きてきたのに、
十二支に利用されて、頑張っちゃってよォ……」
エーレントはため息のように、天に向かって煙を吐いた。
「ま、アンタのそんなところがイイと思ったのは否定できんな!
ハハハ!!!」
僕はただ立ちすくんでこのやり取りを見ているばかりだ。
足の先から砂のように崩れていきそうだ。
「お?しっかり目が覚めてきたな?
ちょいと秘儀も授けてるから、すぐによくなる。」
リヒトさんの腕が持ち上がり、エーレントの額を指さすようにする。
「ア?ああ、そこのクソ鼠に酒瓶でぶん殴られた傷さ…唾つけて治した。
猫だからなァ!!!ハハハハ!!!」
面白そうに煙草を吹かす。
「さて、そろそろ帰るか…
秘儀【空間旅行】」
ゆっくりと黒い渦がエーレントを取り巻く。
「そうだ、リヒト。
白状しちまうが、俺は二百年前、女を抱きまくってる。
猫族好きのどこかのバカと、女を漁りまくったしな…」
ここでようやく、僕の方を横目で見た。
――暗く、寂しそうな目で。
「嫉妬してくれよ?」
黒い渦が広がって行く。
「そんときは、俺も嫉妬する。
『今、俺とクソ鼠を比べたのか?』ってな…」
そう言うと、煙草を持ったまま、リヒトさんの顔を引き寄せて、
舌で絡めとるように口づけした。
「何をする!!!」
とうとう僕は飛び上がって、
リヒトさんをエーレントから引き離した。
エーレントはほとんど黒い渦に消えている。
「来るの遅くねェ?」
捨て台詞を残し、黒い渦とエーレントは、完全に消えた。
訓練場には、
朦朧としているリヒトさんと
――男として、婚約者として、完全に敗北した僕が残された。
*****
黒い渦の消えた訓練場。
既に、リヒトさんの目ははっきりとしている。
でも、黒い渦が消えた跡を見やったまま、何も言わない。
僕は、リヒトさんを抱き上げて訓練場を出る。
人のいない、大王専用の、
ところどころに蠟燭が灯るだけの暗い廊下を、なるべくゆっくり歩く。
「僕は……もしかして、
貴女の身体を、誰かと比べるような寝言を言ったかもしれません。
でも、僕は、虐待を勘定に入れなければ、
女性と関係を持ったことはありません。
僕が夢の中で比べたのは、
悍ましい記憶の中の汚い身体とか、
パーティでわざわざ見せつけられる身体と、
…貴女の身体です。」
僕の腕の中で、リヒトさんの身体が少し動いた。
僕は、リヒトさんをしっかりと抱え直す。
「貴女の胸の感覚が、あまりにも素晴らしくて、
これまでのうんざりするような記憶と違ったので、夢中になりました。」
リヒトさんは顔を覆ったようだが、
僕はリヒトさんを見ることができない。
僕はさらにゆっくり歩く。
まだ、言うことが終わっていないから。
「目を覚ましたとき、夢だったのかと残念でした…
でも……寝ながら触っていたんですね、僕は。
リヒトさんは、不本意だったと思いますが、
僕は、手に感触が残っていたのが……嬉しくて……」
角を曲がれば、奥にリヒトさんの部屋が見えるところに来た。
「でも、同時に、火の誓約が反応しなかったことにホッとして……
ため息もついたと思います。
残念だからため息をついたわけでは、
絶対にありません…」
リヒトさんの部屋の前に着いた。
僕は、胸がいっぱいのまま、そっと彼女を降ろす。
僕は彼女の顔を見られなかった。
僕はうつむいたまま、「おやすみなさい」と言う。
リヒトさんも、かすれるような声で「おやすみなさい」と返す。
僕は2、3秒、何かを待つように動かなかったが、
彼女は何も言わないし、僕も何も言えない。
……僕はそのまま、自室に向かって、廊下を戻り始めた。
後ろで、静かに扉が閉まる音。
部屋に戻ると、もう、たまらずに、
頭を抱えて近くのソファに突っ伏した。
(次話に続く)




