零れた光のあとさき
生徒会室を後にしたジャミーラの足取りは、いつになく重かった。
向かったのは、慣れ親しんだ寮の自室でも、知識の宝庫である図書室でもない。
学園の端にひっそりと佇む、静寂に包まれた礼拝堂だった。
重い扉を押し開けると、冷涼な空気とともに、祭壇の奥に鎮座する女神アウロラの像がジャミーラを迎え入れる。
迷える者に光を指し示す慈愛の女神。大理石の瞳は、不思議な透明感を湛え、静かにこちらを見守っていた。
ジャミーラは無人のベンチに腰掛け、自身の両手を見つめた。
神聖術師の卵として、懸命に祈りの言葉をなぞり、わずかな光を灯すことだけを考えてきた手だ。
傷を塞ぎ、熱を下げ、いつか誰かに安らぎを与える。そんな、教科書通りの“救い”を夢見ていた。
けれど、あの少年の絶望を前に、自分が学んできた術のあまりの空虚さに、言葉を失う。
『……意味も分からないまま……生かされ続ける』
アルテリスの言葉が、冷たい呪文のように耳の奥で反響する。
死なせないことこそが正義だと信じて疑わなかった。神聖術師を目指す者にとって、生命の維持を最優先にするのは当然の摂理だ。
だが、あの少年の瞳に宿っていた、色褪せた絶望に対してはどうだろうか。
『痛みの先に小さな希望を見出すことができていたなら』
その仮定が、鋭い刃となって胸を抉る。
ジャミーラは膝に顔を埋めた。
アルテリスの指摘は、残酷なまでに正論だったのだ。
神聖術で身体を繋ぎ止めることはできても、心がこの世に留まりたいと願わなければ、魂は指の隙間からこぼれ落ちてしまう。
「言葉にするのは簡単よ……。でも、実際にはどうすればいいの……」
独り言は、冷えた夜気に溶けて消えた。
「頑張って」なんて無責任な言葉を投げかければ良かったのか。
明日も地獄のような痛みが続くと知りながら、どんな「希望」を語れば、彼は悪魔の手を取らずに済んだのか。
いいえ——これは、そんな単純な話ではない。
何かを言えば、相手をさらに傷つけるかもしれない。
何も言わなければ、見放したと思われるかもしれない。
正解のない暗闇の中で、沈黙だけが重くのしかかる。
それでも。
(それでも——離れてはいけないのね)
ジゼル・オリヴィエの言葉が、ようやく確かな体温を持って脳裏に響く。
『治せない病もある。寄り添うしかできない痛みもある。
そんな現実の前に立つとね、“自分が何をしているのか”分からなくなりそうになるの』
あの言葉は、弱音などではなかった。
最前線で“救えない命”と対峙し続けてきた者が、日々、己の魂を削りながら絞り出した偽りのない実感だったのだ。
「救いたい」と願うのは、美しい自己満足かもしれない。
「心に寄り添う」と口にするのは、優しい理想論かもしれない。
けれど。
目の前で苦痛にのたうち回る人間を前にして、己の無力さを骨の髄まで突きつけられながら、それでもその人の“今”を否定しない言葉を探し続けること。
「大丈夫」とも「頑張れ」とも言えない絶望の中で、それでもその手を握り続けることが、どれほど孤独で、勇気のいることか。
(オリヴィエ副団長は……いつも、この深淵に立っていらしたのね)
長い沈黙の後、ジャミーラはゆっくりと顔を上げた。
視線の先では、女神アウロラが柔らかな微笑みを浮かべている。その慈悲深さが、今は少しだけ遠い。
「……わからないわ、まだ」
生きる意味を与えるなんて、そんな大層なこと、今の自分には到底できない。
震える手で、自分の腕を強く抱きしめた。
命を奪うことが「救い」だなんて、口が裂けても認めたくない。
けれど、ただ生かすだけの傲慢さが、誰かを絶望の檻に閉じ込めることもあると、知ってしまったから。
「私は……」
祭壇で揺れる小さな灯火を見つめる。
「ただ治療するのではなくて、『生きていてよかった』って、一瞬でも思える何かを、一緒に探せるような、そんな神聖術師になりたい」
恐れず、諦めず、声をかけ続けたい。
たとえそれが、最後には無力な徒労に終わったとしても。
それでも、黙って背を向けるよりは、ずっといいはずだから。
オリヴィエが見ている景色。
救えない現実の前に立ち、己を見失いそうになりながらも、決してその手を離さない“先人”の背中。
ジャミーラは、まだその入口に立ったばかりだ。
その道のりが、どれほど不条理に満ちていようとも。
「目指すって決めたのだから」
自嘲気味に、けれどわずかに微笑んで。
服の裾を握りしめていた手は、もう震えていなかった。




