安らかな眠りを
深夜。
聖騎士団の会議室は、闇に沈んでいた。
わずかな燭台の火が、長机を囲む当直の聖騎士と、急遽呼び出された上官たちの険しい貌を、断続的に浮かび上がらせている。
「報告します」
一人の聖騎士が、影から一歩前に出た。
「本日、修道院治療棟・隔離病室にて、患者一名が悪魔化」
室内の空気が、一層張り詰めた。
「修道女二名が負傷。命に別状はありません」
淡々と、事実だけが積み上げられていく。
「現場に駆けつけたジゼル・オリヴィエ副団長殿の指揮のもと、当該区画の封鎖および鎮圧を実施」
報告役は、一拍置いた。
「——対象は、浄化による消滅を確認いたしました」
その言葉に、誰かが小さく息を吐いた。
最悪の事態は免れた。少なくとも、表向きの体裁としては。
だが、それで“終わり”ではないことを、その場にいる全員が肌で感じている。
「……続けろ」
上座からの声に促され、報告役は頷く。
「結界内部での発生という点から、結界石の調査を行った結果——」
報告役は、そこで一度、言葉を飲み込んだ。
「当該区画の結界石が、破壊されておりました」
沈黙が耳を打つ。
「……やはり、か」
「内部で発生した以上、可能性は高いとは思っていたが……」
ざわ、と低い私語が広がった。
予想していた最悪の仮説が、ただの懸念ではなく、冷徹な事実として突きつけられたのだ。
「自然破損ではありません。明確な破壊痕が確認されています」
年嵩の聖騎士が、苦々しく顎に手を当てた。
「魔族、あるいは何者かの仕業か」
「……学園といい、修道院といい。この近辺が狙われているな」
否定の声は、上がらなかった。
「一先ず、全棟の結界石を再点検せよ。夜間巡回の人員を倍に増やし、微細な違和感も見逃すな。以上だ、解散!」
短く、的確な指示が飛ぶ。
張り詰めた空気を引きずったまま、聖騎士たちはそれぞれの持ち場へと散っていった。
部屋の隅で無言を貫いていたジゼル・オリヴィエは、最後に重い扉を開け、廊下へと出た。
彼女の胸には、予想していたはずの事態と、それでも防げなかった無力感が、冷たい澱のように沈んでいた。
⚜️⚜️⚜️
現場へと続く廊下は、嫌に冷え切っていた。
瘴気はすでに浄化され、壊れた結界にも応急処置が施されている。
形式上は、収束済みの現場。
——それでも。
瞼の裏に焼き付いた黄金の残滓だけが、瞬きをするたびに鮮明に蘇る。
ジゼルは足を止め、かつて少年が眠っていた病室の前に立った。
扉は、半分だけ開いたまま。
中には、もう——誰もいない。
乱れた白いベッド。
引き裂かれたようなシーツ。
床に残るかすかなマナの痕跡が、ここで起きた惨劇の、唯一の証言者だった。
そこには、弔うべき亡骸すら残されていない。
(……間に合わなかった)
治療師として、幾多の患者を診てきた。
救えた命もあれば、指の間から零れ落ちていった命も、数えきれないほど見てきた。
だが——
(こんな、終わり方でいいはずがない)
胸の奥が、焼けるように痛む。
少年は、戦士ではなかった。誰かを傷つけるために力を求めたわけでもない。
ただ、苛烈な痛みから解放され、静かに眠りたかっただけなのだ。
ジゼルは、そっと目を閉じる。
すべてを黄金に呑み込んだあの光の感触が、今も掌に生々しく残っている。
遺骸すら残さず消え去ったということは、すでに少年の肉体は完全に悪魔へ成り果てていたという証。
それは聖なる“救済”という名の、あまりにも絶対的な拒絶だった。
癒やすための手で、その存在そのものを無に帰したのだ。
——だからこそ、どうしようもなく吐き気がした。
(せめて、安らかな眠りを)
最後に見た少年の顔は、悪魔化によって醜く歪んでいた。
それでも、消滅する一瞬だけ——
光に溶けていくその刹那だけ、憑き物が落ちたような、穏やかな表情が見えた気がした。
あれを“救い”と呼ぶのは、手を下した者の傲慢だろうか。
ジゼルは深く息を吸い、ゆっくりと吐き出した。
肺の奥に溜まっていた暗い感情を、すべて押し出すように。
「……ごめんなさい」
それが、誰に向けた言葉なのかは、彼女自身にも分からなかった。
救えなかった治療師としての悔恨か。
手を下した聖騎士としての罪か。
あるいは、その両方か。
答えは出ない。
それでもジゼルは、再び前を向いて歩き出した。
同じ結末を迎える者を、一人でも減らすために。
それが——
“生き残った側”に課された、呪いに似た役目なのだと、自分に言い聞かせながら。




