少年の願い
夜は、修道院にも平等に訪れる。
祈りの声が消え、廊下を行き交っていた足音もいつしか遠のいた頃、治療施設は昼間とはまるで異なる、冷徹な横顔を見せていた。灯りは落とされ、病室には最低限の防壁たる結界だけが、淡く揺らめいている。
白いベッドの上で、少年はただ、じっと目を閉じていた。
眠っているわけではない。いや、眠れるほど、その心は休まってなどいなかった。
胸の奥が、じくじくと、燻るように痛む。
体内のマナが、また歪な音を立てて軋んでいた。呼吸を繰り返すたび、内側からやすりで削り取られるような、悍ましい感覚。
——痛い。
だが、その悲鳴を口にする力さえ、少年にはもう残されていなかった。
(……いつまで、続くんだろう)
治療という名の行為は、確かに日々行われている。祈りは捧げられ、光が注がれる。けれど、それはすべて——“生かすための延命”に過ぎなかった。
良くなっている実感も、楽になる兆しも、どこにもない。ただ、“今日という苦痛の一日を耐え抜いた”という無慈悲な事実だけが、静かに、重く、積み重なっていく。
(……もう、疲れたよ)
心の糸が切れかけた、その瞬間だった。
——ふ、と。
焼き付くような胸の痛みが、わずかに引いた。
錯覚かと思うほど、ほんの一瞬。だが確かに、マナの軋みがぴたりと止まったのだ。
少年は重い瞼を、ゆっくりと押し上げる。
部屋の隅。結界の放つ光の影が、妙に濃く、まるで生き物のように揺らいでいた。
「……だれ……?」
部屋の隅。結界の放つ光の影が、妙に濃く、まるで生き物のように揺らいでいた。
返事はない。代わりに——
『やぁっと、気づいてくれた』
直接、脳の奥底に響く声があった。
奇妙なことに、恐怖は微塵も湧かなかった。その声は、あまりにも——穏やかで、慈愛に満ちていたからだ。
『ずっと見ていたよ。君が、どれだけ頑張ってきたか』
少年の喉が、ひっく、と小さく鳴る。
『痛かったね。苦しかったね』
その言葉が、乾ききった胸を容赦なく締めつけた。
誰も、そんなふうに自分を労ってなどくれなかった。周囲の大人たちは皆、ただ「生きろ」と生を強要するばかりで——。
『もう、十分だよ』
影が、ゆっくりと形を成していく。
人に近い輪郭。だが、背景との境界線が曖昧に融け落ちた、昏い存在。
『治らない痛みを抱えたまま、生きろと言われ続けるのは、残酷だ。君は間違っていない。ただ、間違った世界で、間違った形を強いられているだけなんだよ』
少年の指先が、感情のままにかすかに震えた。
「……でも……」
『疲れただろう?希望を持つことに。祈ることに。“それでも生きろ”という、呪いのような言葉に』
胸の奥で、張り詰めていた何かが——音を立てて崩壊していく。
『僕は、君を楽にできる』
影が、すうっと距離を詰める。
『もう、痛みに耐えなくていい。救いのない未来に、縛られなくていいんだ』
その囁きは、少年が何よりも欲していた“救済”の形をしていた。
『さあ、選ぶのは君だ』
——拒む理由など、もうどこにも残されていなかった。
少年は、安堵のなかでゆっくりと目を閉じる。
(……もう、いいんだ)
頷くことすらできない。ただ、その心地よい闇を——全身で受け入れた。
その、瞬間。
少年の体内で、マナが完全に反転した。
これまで神聖術で抑え込まれていた歪みが、一気に噴き上がる。
聖なる結界が——悲鳴を上げて軋んだ。白い光が、見る間に禍々しい黒へと染まっていく。
少年の胸から異質なマナが溢れ出し、清浄だった病室の空気は、ねっとりとした濃密な闇へと塗り替えられていった。
⚜️⚜️⚜️
「——何だ、今の揺れは?」
夜間巡回中の騎士が、異様な気配に足を止める。
次の瞬間。
「きゃあああああっ!」
静寂を切り裂く修道女たちの悲鳴が、廊下に響き渡った。
「まさか……!?」
あり得ない。ここは女神の加護に守られているはずの場所だ。最も安全であるべき聖域で——最悪の災厄である“堕人”が、発生した。
聖騎士が即座に剣を抜き、狂ったように走り出す。
その報せは、修道院全体へ、そして——聖騎士団の本部へと、瞬く間に伝播していく。
暗闇のなかで静かに始まった囁きは、ついに最悪の惨劇となって、現実の世界へと姿を現した。




