理論と現実
放課後の生徒会室。
その一角に設けられた自習スペースには、穏やかな静寂が落ちていた。
聞こえるのは、紙を繰る微かな音と、ペンが走る擦過音だけ。
そこに、ライルとジャミーラ、二人の姿があった。
ジャミーラの机の上には、分厚い『対魔学』の教本と、講義内容をびっしりと書き留めたノートが広げられている。ページの端には、彼女が何度も読み返したことを示すような、細かな折れ目や手擦れの跡が残っていた。
「シャマル様は、対魔学を選択されたのですね」
ふと、自らの書類仕事から顔を上げたライルが、ジャミーラの手元の教本に視線を落としながら穏やかな声で尋ねた。
「ええ。聖騎士団の見習いとして必要な学問だと、ルイーズ様に勧められまして」
ジャミーラはペンを置き、姿勢を正して微笑む。
「お聞きしていた通り、とても勉強になりますわ」
「確かに。我々が悪魔を相手にする以上、避けて通れない分野ですから」
ライルは小さく頷き、目を細めた。
「イルハン様も、対魔学を学ばれたのですか?」
「はい。四年時に履修しました。殿下やアルテリスも同じです」
そう付け加えてから、優しく言葉を続ける。
「教本だけでは理解しがたい部分もあるでしょう。分からないことがあれば、遠慮なく仰ってください」
「ありがとうございます」
ジャミーラは丁寧に一礼した。
そして、少し言葉を探すように、視線を再びノートへと落とす。そこには、今日の講義で学んだばかりの、おぞましい“段階”についての記述があった。
「では……ひとつ、お伺いしてもよろしいでしょうか」
「もちろんです」
「本日の授業で、悪魔化の段階について学びました」
ジャミーラは、ノートに記されたインクの文字を指でなぞりながら言う。
「干渉期、侵食期、そして完全憑依期。
完全憑依体というのは——悪魔がただ取り憑いているだけではなく、宿主の魂そのものが悪魔と完全に一体化してしまった状態。
神聖術による浄化は効かないか、効いたとしても宿主の存在そのものまで消え去ってしまう」
一度、小さく息を整える。
「ゆえに、“戻すことはできない”——と」
淀みのない復唱だった。
(魂が、一体化——)
ライルは無意識のうちに、その言葉を脳内でなぞっていた。
理屈としては筋が通っている。だが、その言葉には実感が伴わない。まるで、人の預かり知らぬ高みからすべてを見下ろしている誰かが、無理やり定義付けたかのような——そんな、薄寒い違和感が胸の奥にじわりと広がっていく。
ライルはあえて訂正を挟まず、彼女の次の言葉を待った。
「では——」
ジャミーラが顔を上げる。その瞳には、純粋な学究心とは違う、切実な疑問が浮かんでいた。
「完全憑依体かどうかは……現場では、どのように判断されるのですか?」
ライルは、すぐには答えなかった。
窓の外から聞こえていた生徒たちの喧騒が、急に遠ざかったように感じられた。
「……完全憑依体かどうかを事前に見極める手段は、我々にはありません」
静かに紡がれたライルの声は、先ほどの穏やかなものから一変し、張り詰めた冷気を帯びていた。
「我々が討伐に移行するのは、完全憑依体だからではありません。現場で“救出不能”と判断されたからなんです」
「救出不能……」
「神聖術による浄化が間に合わず、あるいは効かず、宿主を取り戻せる見込みがない場合。
浄化を強行すれば、救えないまま無用な苦痛を与え続けることになる。かといって悪魔を放置すれば、周囲の無関係な命が危険に晒される——」
ライルは、机の上で組んだ手に少しだけ力を込めた。
「討伐以外の手段は存在しない。そう判断された場合、我々は討伐へ移行します」
感情を排した、淡々とした説明。
だが、その一言の裏にある生々しい質量に、ジャミーラは思わず息を呑んだ。
「では……」
声が、わずかに揺れる。彼女の聡明さは、残酷な真実へと辿り着く。
「討伐した相手が、本当は……まだ戻れた段階だったということも……」
言葉が、そこで途切れた。
ライルは目を伏せたまま、残酷な事実を肯定した。
「浄化を試みるための“時間”が、周囲の命を奪う場合もあります。
目の前で暴走が始まっている。被害が刻一刻と拡大している。そしてその場に、自分が守るべき命がある——」
ライルが顔を上げ、まっすぐにジャミーラを見た。
その瞳の奥には、彼自身が過去に見てきたであろう、凄惨な景色の残滓が揺らめいていた。
「そうなれば、どちらかを切り捨てなければならない。それが、我々が現状で取り得る唯一の手順です」
「それでも……」
ジャミーラは、震えそうになる声を必死に絞り出す。
「救出不能だと“判断して”討伐した相手が、もし、そうではなかった場合……その判断を下した騎士は——」
「その重さを、一生背負います」
ライルは、ジャミーラから決して目を逸らさなかった。
剣を握る者が、絶対に逃げてはならない真実だった。
「正しかったかどうかなんて、誰にも分かりません。
分かるのは、自分がその命を絶つことを“選んだ”という事実だけです」
「……」
「救出不能だと判断して討つのは——正解だからではありません」
少し、声が低くなる。
それは祈りのようでもあり、自戒のようでもあった。
「それ以上、犠牲を出さないためです」
深い沈黙が落ちた。
ジャミーラは深く息を吸い込み、そして、ゆっくりと吐き出した。
その場で戻すことが叶わないのなら討伐するしかない。
文字列としてなら、簡単に理解できる。
——だが。
その“判断”を下す瞬間の重さを、剣を振り下ろす手の震えを、自分は想像していただろうか。
人の命を、自分の裁量で区切らなければならないという絶望を。
「……対魔学は」
静かに、ジャミーラが呟く。
その声はもう揺れてはいなかった。
「単に、悪魔の生態を知るための学問ではないのですね」
机上の美しく整った理論と、血と泥と後悔に塗れた現実。
その境界線は、想像していたよりもずっと近くに引かれていた。
そしてその線を、いつか自分も越える日が来るのだと——。
夕陽に染まる教本を見つめながら、ジャミーラははっきりと自覚していた。




