悪魔と宿主
学園は、今日も平穏だ。
生徒たちは笑い、授業を受け、日常を生きている。
嵐は——いつもこうして始まる。
日常の顔をしたまま。
何事もないふりをして。
そして。
気づいた時には、もう引き返せない。
⚜️⚜️⚜️
対魔学の講義室は、いつもより少し賑やかだった。
長期休暇明け。
新学期に入って数週が経ち、
新任の講師にも、生徒たちはすっかり慣れ始めている。
教壇に立つのは、ディーター・ボニファーツ。
柔らかな物腰。
穏やかな声。
常に丁寧語を崩さず、それでいて堅苦しさのない話し方。
「では本日は、悪魔化の段階についてお話ししましょう」
そう前置きすると、何人かの生徒が自然と身を乗り出した。
ディーターが筆をひと振りすると、黒板上に淡い光文字が浮かび上がる。
『悪魔』
「悪魔は、魔界に住む存在です。
この世界——ジャルダンでは、単体で肉体を保つことができません」
さらりとした口調のまま、次の言葉が書き足される。
『宿主』
「そのため彼らは、魂の状態で彷徨い、
自身を受け入れられる“宿主”を探します」
教室は、静まり返っていた。
「悪魔は、いきなり肉体を奪うわけではありません。
まず行われるのは——“契約”です」
ディーターは穏やかに言う。
「不安、恐怖、後悔、渇望——
心に隙がある者ほど、彼らの声を聞きやすい」
黒板に、新たな文字が浮かぶ。
『干渉期』
「契約が成立すると、悪魔は精神への干渉を始めます。
この段階では、宿主の自我はまだ保たれています」
次の文字。
『侵食期』
「やがて干渉は深まり、
思考や感情の一部が、悪魔の影響を受け始める」
生徒たちは、息を潜めて聞き入っている。
そして——
『完全憑依期』
「精神を“完全に”乗っ取られた状態。
これを、完全憑依体と呼びます」
教室に、ざわめきが走る。
「親和性が低い場合——」
筆が、静かに動く。
「肉体は耐えきれず、
手足がただれ、生きものとしての形を保てなくなります」
何人かの生徒が、思わず顔をしかめた。
「ですが」
わずかに間を置き、ディーターは肩をすくめる。
「悪魔と宿主の親和性が高い場合、
あるいは、元々高かった場合——」
にこやかな笑み。
「外見上は、ごく普通の人間と変わりません」
一瞬の沈黙。
「つまり」
視線が、ゆっくりと教室をなぞる。
「皆さんの隣に座っている友人。
あるいは——」
ほんのわずかな間。
「先生が、実は完全憑依体。
なんてことも、理論上はあり得るわけです」
空気が、凍りついた。
——一瞬。
「……冗談ですよ?」
ディーターは軽く両手を軽く広げ、柔らかく笑う。
「怖がらせてしまいましたね。
安心してください。滅多にある話ではありませんから」
張り詰めていた空気が、一気に緩む。
「先生、それ冗談きついですよ!」
「心臓に悪いです!」
「はは、すみません」
笑いが戻る。
だが——
「ただし」
その声だけが、わずかに低く落ちた。
「完全憑依体になった者は、元には戻れません」
冗談ではない一言。
「治療も、対話も、意味を持たない。
可能なのは——」
一拍。
「討伐、のみです」
再び、静寂。
その中で、一人の生徒が恐る恐る手を挙げた。
「先生。
なぜ、完全憑依体になると、元に戻せないのですか?」
「いい質問ですね」
ディーターは、頷く。
「では皆さん。
悪魔化した者を元に戻す方法は、何でしたか?」
短い沈黙。
「……神聖術による浄化です」
「そうです」
彼は満足そうに微笑んだ。
「浄化とは、宿主から悪魔のみを引き剥がす行為です。
完全憑依体になる前であれば、
悪魔と宿主の結びつきは不完全で、これが可能です」
だが、と続ける。
「完全憑依体というのは——
宿主の魂そのものが、
悪魔の存在を前提とした形に変質している」
空気が、さらに重くなる。
「この段階になると、
悪魔を排除するという行為は、
魂そのものを破壊することと同義です」
一拍。
「ゆえに、完全憑依体は戻せないのです」
そして、すぐにいつもの柔らかな笑みへ戻る。
「——と、まあ。
今日のところは知識として覚えておいてください」
鐘が鳴る。
生徒たちはざわめきながら、教室を後にしていった。
「とても分かりやすい講義でしたわね」
「ええ……少々恐ろしゅうございましたけれど、興味深かったですわ」
ジャミーラも、静かにノートを閉じる。
教壇に残ったディーターは、
去っていく生徒たちの背を見送っていた。
——その瞳に宿るものを、
誰一人として、気に留めることはなかった。




