選べぬままに
早朝の冷たい空気を切り裂くように、アルテリスは足早に廊下を進んでいた。
手には一通の封書。差出人はライル。主に宛てられたものだ。内容には心当たりがあったが、当然開封はしない。アルテリスは封書を携えたまま、まっすぐ主のもとへ向かった。
ムスタファの私室の前に立ち、一度だけ深く呼吸を整える。普段通り、波一つない心を装って静かに扉を開いた。
「戻りました」
室内にいたムスタファが、視線だけをこちらへ向ける。
「……何か来たか」
「ライル様からのお手紙でございます」
一歩進み出て、アルテリスは封書を差し出した。その一言だけで、室内の空気がわずかに引き締まるのを感じる。
ムスタファは封書を受け取ると、無駄のない動作で封を切り、文面に目を走らせた。
沈黙が降りた。
アルテリスは背筋を伸ばし、主の次の言葉を待つ。感情を殺し、ただの忠実な側近として。
やがて、ムスタファは短く告げた。
「読むか」
「よろしいのですか」
「構わん」
差し出された便箋を、アルテリスは両手で恭しく受け取る。
そのまま、静かに視線を落とした。
——読み進めるごとに、指先から急激に体温が奪われていくような錯覚を覚えた。
『社交界で、シャマル様が聖騎士見習いとなられた件が話題となっております。
噂は既にご実家の耳にも入り、ご家族より強く咎められたようです。
現在、シャマル様は屋敷からの外出を許されておらず、事実上の軟禁状態にあります。
直接お会いすることは叶いませんでしたが、ご無事は確認できました。
しかし、状況は決して良いとは言えません』
「……軟禁、でございますか」
声が出た。
自分でも驚くほど、低く、硬い声だった。
手紙を持つ指に、無意識のうちに力がこもる。上質な便箋がわずかにたわみ、小さな音を立てた。
ムスタファは静かに頷く。
「状況は芳しくないな」
主の声音は淡々としていたが、その指先がわずかに机を叩いていた。彼もまた、密かに思考を巡らせている証拠だった。
アルテリスは手紙から目を逸らし、俯いた。
学園からは動けない。側近として、殿下の傍を離れることは許されない。
頭では理解している。自分が行ったところで、事態を好転させられる確証など何もないことも。
分かっている。分かっているはずなのに——憧れを否定され、行き場のない想いを抱えたまま俯いているであろう彼女の姿が脳裏をよぎり、胸の奥が焼けるように疼いた。
常に冷静であるべき己の心が、ひどく波立っているのがわかる。
「ランデュートに、行くか?」
不意に投げかけられた言葉に、アルテリスは弾かれたように顔を上げた。
「殿下をお置きしては参れません」
反射的に、強い拒絶が口をついて出る。
しかし、ムスタファは即座に首を振った。
「置いて行けとは言っていない。——俺も行く」
その瞬間、部屋の空気が凍りついたように張り詰めた。
「ですが……!」
アルテリスの抑揚のない声が、明確な動揺を孕んで揺れる。
確かに、王族であるムスタファが動けば、ジャミーラの状況を変えられるかもしれない。
だが、ランデュートはただの故郷ではない。
王から見放された王子。冤罪で処刑された母。王の寵愛を受ける継母と、その息子。
——誰もが知る、血塗られた噂が渦巻く場所だ。
アルテリスがムスタファに仕え始めたのは、すべてが終わった後だった。
だから、王宮にいた頃の彼が何を経験したのか、正確なところは知らない。
それでも、辺境へ追いやられた幼い主が、何を失い、何を恐れ、何を選び取ってきたのかは、誰よりも近くで見てきた。
夜毎、言葉を飲み込むように沈黙する横顔も。ふとした瞬間に垣間見える、鋭い警戒の色も。
この国への留学は、決して栄誉あるものではない。あの忌まわしい故郷から距離を取り、生き延びるためだけの決断だったはずだ。
「俺のことを思って、躊躇っているなら」
ムスタファは、ゆっくりと立ち上がった。
「問題ない」
静かだが、有無を言わせぬ響きを持った声。
「行きたいのだろう?」
その核心を突く問いに、アルテリスは息を呑んだ。
行きたい。今すぐにでも駆けつけたい。
だが、主をあの暗い過去が待ち受ける地へ引き戻すわけにはいかない。
忠誠と、彼女を案じる個人的な渇望。
相反する感情が胸の中で激しく衝突し、アルテリスは言葉を見失った。表情を取り繕うことすら、今は難しい。
「……少し、お時間をいただけますでしょうか」
絞り出すように告げたその一言が、今の彼にできる精一杯の抵抗だった。
ムスタファは何も言わず、ただ深く頷いた。
窓の外では、朝の淡い光がゆっくりと学園を包み始めていた。
しかし、冷たい静寂に落ちた室内で、アルテリスはただ一人、重すぎる決断の淵に立たされていた。




