手紙の裏側
生徒の大半が帰省し、静まり返った学園の生徒会室。
赤く染まり始めた窓の外を一瞥し、ムスタファは重い息を吐き出した。聖騎士団での過酷な訓練を終えたばかりの身体には、まとわりつくような熱と疲労がへばりついている。
鬱陶しい外套を無造作に脱ぎ捨てると、背後に控えていたアルテリスが音もなくそれを受け取った。その淀みない所作と、いつもの変わらぬ従者の存在が、今のムスタファにとっては数少ない心安らぐ要素だった。
執務机の重厚な椅子に身体を沈め、積み上げられた退屈な書簡に目を落とす。その中に混じる、見覚えのある封蝋がムスタファの視線を止めた。
「……ジャミーラか」
低く呟き、ペーパーナイフで無造作に封を切る。契約上の婚約者からの定例報告。本来ならただ目を通すだけの、義務的な作業だ。
『屋敷には来客も多く、相変わらず慌ただしい日々を過ごしております。
実は、家族にわたくしが聖騎士見習いとなったことを知られてしまいました。少々驚かれはしましたが、今は納得してもらえています。
学園での日々を思い返しながら、休暇を過ごしております』
(——短いな)
ムスタファの胸の奥に、かすかな違和感が生まれた。
長期休暇に入ってから、ほぼ毎日のように届いていた彼女からの手紙。いつもなら単なる近況報告だけではなく、そこで得た些細な疑問や答えの出ない悩みが、もう少し書き添えられていたはずだ。
しかし今は、それらが綺麗に削ぎ落とされ、どこか不自然なほど余白が目立っている。
何かあったのか。不本意ながらも、友としての心配がよぎる。しかしそれと同時に、たまらなく厄介な事態を予感して、すぐには手紙を置くことができなかった。
椅子に背をもたれ、腕を組む。思考を巡らせるムスタファの背後から、アルテリスが静かに口を開いた。
「いかがなさいましたか」
ムスタファは、すぐには振り返らなかった。
この手紙を読めば、遠く離れた地で窮地に立たされているかもしれないジャミーラを想い、過保護なこの従者は過剰なまでに心を砕くに違いない。だが、見せずにやり過ごして手遅れになった時、アルテリスが抱えるであろう自責の念を思えば、隠しておくのは得策ではなかった。
わずかな逡巡ののち、彼は手紙を差し出した。
「読んでみろ」
背後で、アルテリスが一瞬、息を呑む気配が伝わってきた。
「ですが——」
「俺が許す」
視線を上げないまま、有無を言わさぬ声で遮る。
戸惑いながらも、アルテリスは両手で恭しくそれを受け取った。
読み進める間、衣擦れの音ひとつ聞こえない。しかし、ムスタファは横目でアルテリスの様子を窺っていた。
端正な横顔から、すっと余裕という名の余白が消え去っていく。便箋を持つ指先に、ほんのわずかに力が込められる。
アルテリスの些細な動揺は、ムスタファの抱いた懸念が的外れではないことを裏付けていた。厄介事が現実味を帯びていくことに、ムスタファはわずかに眉間を寄せた。
「どう思う?」
あえて平坦な声で問う。
「事務的な内容が中心でございますね。シャマル様のご性格を考えますと、心配をおかけしないよう、言葉を選んでおられるように存じます」
やはりな、と胸の奥で呟く。アルテリスもまた、同じ違和感を抱いたようだ。
「聖騎士見習いとなったことをご家族に知られてしまった、とありますが、シャマル様のご実家は、ランデュートの名門です」
——ランデュート。
その名が室内に上った瞬間、ムスタファの脳裏に不快な記憶がよぎり、空気がわずかに冷え込んだ。
「穏やかに受け止められるとは、考えにくいかと存じます」
「……そうだな」
短く返す声に、苦々しさが混じる。
それ以上は語らなかった。語る必要もなかった。あの土地の、凝り固まった古い気質を、ムスタファは誰よりもよく知っている。聖騎士見習い。それだけでも、あの旧態依然とした一族にとっては眉をひそめるべき事態だ。
まして——
「神聖術師の話まで耳に入れば、なおのこと」
アルテリスが静かに補う。伏せられた視線の先、その声には明らかな危惧が滲んでいた。
沈黙が落ちる。
大きな窓から差し込む夕陽が、室内を、そしてアルテリスの憂いを帯びた横顔を容赦なく赤く染め上げていく。
「だが、この手紙には助けを求める言葉がない」
「はい」
アルテリスの短い返答は、ほんのわずかに強張っていた。その指先が、便箋の端をわずかに強く握りしめているのが見える。
「シャマル様は、誰かに縋ることを選ばれない方です」
だからこそ、手遅れになる。
その先を口にしないアルテリスを、ムスタファは冷徹な眼差しで見つめた。いつもなら整いすぎているほど冷静なはずの従者が、今は隠しきれない焦燥を抱え込んでいる。
「……お前」
地を這うような低い声で呼ぶと、アルテリスは弾かれたように姿勢を正した。
「はい」
「気にしているな」
一瞬の沈黙。
「殿下のご婚約者に何かあれば、見過ごすわけには参りません」
非の打ち所のない、模範的な答え。
だが、アルテリスの瞳の奥には、主の婚約者に対する義務感だけではなく、ジャミーラへの個人的な情と憂慮が透けて見えた。
ムスタファは小さく息を吐き出した。
「そういう顔ではない」
指摘され、アルテリスの瞳がわずかに揺れた。
それで、十分だった。
「……ライルを送る」
「理由を、お伺いしても?」
「お前が落ち着かん」
即答だった。
言葉の響きは呆れたようにも聞こえるだろうが、ムスタファにとってはそれが最大の理由だった。アルテリスがいつまでも遠くの空を案じて心を乱しているのは、本意ではない。事態をさっさと収束させ、本来の冷静さを取り戻させる必要があった。
「そのような意味ではなく……」
「学友としての訪問。表向きはそれで十分だ」
戸惑うアルテリスの言葉を遮り、ムスタファは新しい便箋を引き寄せて筆を取った。
「身分も立場もある。あいつなら、門前払いはされん」
筆先が滑らかに走る。迷いはなかった。
「まずは状況を確かめる」
ライルを使って事実を確認し、必要とあらば手を打つ。すべては、自分の足元を固めるための布石でもある。
「……承知いたしました」
アルテリスの静かな承諾の声が落ちて、生徒会室には再び静けさが戻った。
——学園は静かだ。
だが、その静けさの下で、確実に“何か”が動き始めていた。ムスタファは冷たい瞳で、赤く染まる窓の外を見つめた。




