決意の灯
生徒会室には、すでに夜の気配が満ち始めていた。
窓の外は深い群青に沈み、中庭の輪郭もじわじわと闇に溶けていく。灯されたランプの光だけが、この室内をかろうじて現実につなぎ留めているようだった。
朝、ムスタファから投げかけられた「俺も行く」という言葉。
それから丸一日、アルテリスは答えを口にすることができずにいた。
机の上には、ライルからの手紙が置かれたままだ。内容は、すでに嫌というほど頭に刻み込まれている。
だからこそ——決めなければならなかった。
主君への絶対的な忠誠と、ジャミーラを助けたいという個人的な願い。二つの思いを天秤にかける。
本当は、最初から答えなど決まっているのだ。側近である自分が選ぶべき道は、主の安全以外にない。だが、それを選べば、彼女を完全に見捨てることになる。
言葉にできぬまま、重苦しい時間だけが静かに流れていった。
沈黙を破ったのは、窓の外を見つめていたムスタファだった。
「——夜になるな」
独り言のような呟き。彼は視線を外に向けたまま、言葉を続ける。
「来たばかりの頃は、この静けさが異様に感じられたが……今は、当たり前にさえ思っている」
誰に向けた言葉でもない。それでも、アルテリスは一言も聞き漏らさぬよう耳を澄ませた。
「慣れとは、恐ろしいものだ」
それだけだった。だが、アルテリスの胸を穿つには十分すぎる言葉だった。
主は多くを語らない。母を理不尽に失ったことも、あの血塗られた王宮に居場所がなかったことも。語らず、すべてをその背に背負い、耐え忍んでここに立っている。
そんな主を、再びあの忌まわしい過去の渦中へと引きずり戻すわけにはいかない。
冷徹なまでの義務感が、アルテリスの胸の迷いを強引に断ち切った。
「殿下、やはり——」
「やはり行くのはやめよう、か」
図星だった。主には、すべて見透かされている。
アルテリスは言葉に詰まり、すぐには頷けなかった。喉の奥が、苦く熱いもので塞がれたような感覚になる。ジャミーラのことを思えば、今すぐにでもランデュートへ飛ぶべきなのに。
それでも、優先すべきは誰か。答えはとうに決まっている。
アルテリスは痛みを堪えるように、ゆっくりと頷いた。
「お前は、そういうやつだ」
ムスタファが苦く笑う。
「誰よりも、俺を優先する。……自分自身の願いを、どれほど押し殺してでもな」
否定はできなかった。自分の胸の奥にあるジャミーラへの執着まで見透かされたようで、心臓がわずかに跳ねる。
「アル。俺はな」
ムスタファがゆっくりと振り返った。その鮮烈な赤い瞳が、まっすぐにアルテリスを射抜く。
「お前に、そんな顔をさせたくはない」
決めたはずの選択を、なお揺らがせるような主の優しさ。それがかえって、アルテリスの胸を締め付けた。
「それから——」
ムスタファは一拍置き、確固たる響きを伴って続けた。
「彼女を聖騎士見習いに推薦したのは、俺だ。その時点で、責任は俺にある。王子として戻るつもりはない。責任を負う者として行く」
視線を逸らさず、覚悟を告げる主の姿に、アルテリスの胸が小さく震えた。
「ですが……!」
アルテリスは、なおも懇願するように視線を伏せた。主の強さは知っている。決して弱くなどない。ただ——
「お命を——狙われるかもしれません」
答えの代わりに、最も恐れていた懸念を口にした。ランデュートへ向かうということは、主を再び暗殺や陰謀の危地へ連れていくことに他ならないからだ。
「俺達は、昔ほど無力じゃない」
ムスタファの声は静かだったが、底知れぬ力強さがあった。
「過信はしない。だが——黙って奪われるつもりもない」
その言葉が、アルテリスの最後の躊躇いを消し去った。
主は逃げているのではない。立ち向かおうとしているのだ。ならば、側近である自分がすべきことは、危険から遠ざけることではない。主の剣となり、盾となり、すべてを護り抜くことだけだ。
アルテリスはゆっくりと顔を上げた。その瞳からは、すでに迷いは消えていた。
「……お供いたします」
声に、明確な意志を乗せる。
「私自身も、そうしたいのです」
わずかに、ムスタファの目が細められた。アルテリスは引き締まった表情のまま、真っ直ぐに主を見つめ返す。
「私は——殿下と、シャマル様。お二人の幸せを願っております」
彼女の名を口にするとき、ほんのわずかだけ、声に熱が混じった。個人的な祈りを隠し通せなかった自覚はある。それでも、これが自分の本心だった。
一瞬の沈黙の後、ムスタファはふっと柔らかく微笑んだ。
「傲慢だな」
ぶっきらぼうな言葉だったが、その声には確かな温度があった。拒絶ではなく、絶対的な信頼の温度。
生徒会室のランプが、風もないのに小さく揺れる。
そのささやかな灯のように——二人の胸に宿った決意もまた、静かに、そして決して消えない熱を持って燃え始めていた。




