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少年と少女

「何なんですの、あの方たちは……!訓練だなんて、よくもそんな見え透いた嘘を……っ!」


少女——ランデュート王国侯爵令嬢ジャミーラ・シャマルは、きゅっと拳を握り締め、ハムザたちが去っていった扉を激しく睨みつけた。胸の奥で燃え盛る怒りのせいで、褐色の肌が熱く火照る。


聖エリュシア学園。

ルシファニア王国の東に居を構えるこの学園は、“優れた知性”と“教養”、“高潔な人格”を校訓に掲げている。王侯貴族の子女、あるいは類稀なる才を認められ特別に入学を許された者のみが門を叩くことを許される、全寮制の名門校である。


そして今日、ジャミーラは入学式典を終えたばかりの新入生だった。


ジャミーラにとって、この学園は憧れと希望の象徴であるはずだった。

身分や出自を越えて優秀な者たちが集い、共に学び、切磋琢磨する場所。心に秘めた夢のために必要な知識と力を身につけられる場所。

そこにはきっと、高潔という校訓に恥じない人々がいるのだと信じていた。


——しかし。胸の奥に抱いていたささやかな期待は、一瞬にして打ち砕かれた。これほど理不尽な暴力が、ここでは平然と許されるというのだろうか。少年への非道な仕打ち。そして何より、ランデュートの民に対するあからさまな侮蔑。

これから始まる日々を思うと、ジャミーラの心は早くも鉛のように重く沈んでいく。


けれど——足元から聞こえた微かな衣擦れの音が、彼女を現実に引き戻した。


「——そうだわ、あなた!」


怒りに囚われていた思考が、一気に跳ね上がる。

ジャミーラは焦燥に駆られるまま、床に這いつくばる少年のもとへ駆け寄った。

少年の制服は擦り切れ、薄汚れている。陶器のように白い肌のあちこちには、生々しい擦り傷と、じわりと滲む赤い血が浮かんでいた。


「あなた……大丈夫ですの!?」


居ても立ってもいられず、ジャミーラは少年の前に膝をつき、必死の面持ちで手を差し伸べた。

ふと、脳裏に不安がよぎる。この国で“悪魔の民族”と忌み嫌われる自分からの施しなど、拒絶されるかもしれない、と。

それでも、目の前の傷ついた命を見捨てることなど、彼女の誇りが、そして何よりその正義感が許さなかった。


少年が、ゆっくりと顔を上げる。

その瞬間、ジャミーラは思わず息を呑み、そのまま凍りついた。


ふわりと揺れる金糸の髪の隙間から覗くのは、息を呑むほどに整った、美しい顔立ち。

けれど、彼女が衝撃を受けたのは、その容姿のせいだけではない。

少年のつぶらな琥珀色の瞳には——感情の揺らぎが、何一つとして存在しなかったのだ。


これほど理不尽に踏みにじられ、痛めつけられたというのに。

怒りも、悔しさも、惨めさへの涙も、あるいは見知らぬ他者への恐怖すらも、彼の瞳の奥には微塵も見当たらない。


喜怒哀楽がそのまま顔や態度に出てしまうジャミーラにとって、そのあまりの静寂は、背筋が寒くなるほど異質だった。

まるで、痛みという感覚すら持たない、精巧に造り込まれた“陶器人形”を目の前にしているかのような、底知れない違和感が胸を刺す。


「あの……」


「え?ひゃっ、はい」


あまりの美しさと、それ以上に得体の知れない静けさに圧倒され、ジャミーラは情けない声を上げてしまった。


「大変申し上げにくいのですが……お手を汚してしまいますので、自分で起き上がります」


慌てふためくジャミーラをよそに、少年の声には一切の揺らぎがなかった。彼は痛むはずの身体を平然と押し上げ、何事もなかったかのようにゆっくりと立ち上がる。

差し出されたままのジャミーラの手は、行き場を失い、所在なげに引っ込められた。


少年は、深く、淀みのない動作で頭を下げる。


「お初にお目にかかります、ジャミーラ・シャマル様。先程はお助けいただき、誠に感謝申し上げます。私は、アルテリスと申します」


絹のように柔らかく、鈴のように澄んだ声だった。


「お初にお目にかかります、アルテリスさん。

……礼など、どうぞお気になさらないで」


引き込まれるように、ジャミーラの声にも自然と柔らかさが宿る。

先程まで蹂躙されていた少年とは思えない、洗練された美しい身のこなし。そして何より——彼が自分を“悪魔の民族”としての偏見に満ちた目で見ることなく、一人の人間として、対等に扱ってくれたことが素直に嬉しかった。


(姓を名乗らない……持っていないのかしら)


聖エリュシア学園には、特別枠での入学者もいるという。アルテリスは貴族ではないのだろう。だからこそ、あの傲慢な者たちの標的にされたのだ。

改めて見ると、彼の身体にはまだ痛々しい傷が残っている。


「わたくし、多少の治癒術なら使えますの。

よろしければ……治療させていただけますか?」


アルテリスは、僅かにその琥珀色の目を見開き、こくりと頷いた。

ジャミーラは目を閉じ、胸の前で手を組んで静かに祈りを捧げる。


「《女神アウロラ様。

どうか、彼の者の傷を癒したまえ》」


ジャミーラの身体から、彼女の情熱を体現したような、温かく眩い金色の光が溢れ出した。光はふたりを優しく包み込み、アルテリスの傷をみるみるうちに塞いでいく。

ふとジャミーラがそっと目を開けると、アルテリスがはっきりと目を見開いて彼女の手元を凝視していた。だが、それもほんの一瞬のことで、彼はすぐにいつもの平坦な瞳に戻ってしまう。


「……良かった。上手くいったようですわ」


ほっと胸をなでおろし、ジャミーラは満面の笑みを浮かべた。


「ありがとうございます」


「いいえ。ただ、その……」


ジャミーラはアルテリスの服装に視線を落とし、言いにくそうに眉をひそめた。


「制服がひどく汚れてしまっていますわ。

よろしければ、新しいものをお持ちいたしましょうか?」


「いいえ。人目のない道を行きますので。

お気遣い、痛み入ります」


礼儀正しくも、これ以上は踏み込ませないという、静かな拒絶。


「そうですの」


ジャミーラは、それ以上無理に踏み込もうとはしなかった。彼には彼の事情があるのだろう。


「では、わたくしはお先に失礼いたしますわ」


「はい。誠にありがとうございました」


「こちらこそ、普通に接していただけて、嬉しかったですわ。

あの方々には、どうかお気をつけになって。

何かありましたら、いつでもわたくしのところへいらしてね」


そう言い残し、アルテリスの丁寧な礼に見送られながら、ジャミーラは心残りを抱えつつも、その場を後にした。


⚜️⚜️⚜️


静まり返った体育館に、ぽつりと少女の名が残された。


「……ジャミーラ・シャマル様」


アルテリスは小さくその名を呟き、彼女が去っていった扉を静かに見つめる。


漆黒の髪、宝石のように輝く深紅の瞳、そして美しい褐色の肌。それは彼がずっと探していた、ある肖像画に描かれた少女の姿そのものだった。

図らずも傷を負ったことで、最初の目的にたどり着くことができたのだ。


溢れんばかりの感情を宿した、熱い瞳。

虐げられる者を放っておけない、愚直なまでの優しさ。

ほんのひととき交わしただけでも、彼女の人柄は十分に伝わってきた。

これでようやく、自分に与えられた役目を果たすことができる。


アルテリスの唇の端が、微かに持ち上がる。

しかしそれは、目的を達成した喜びや満足といった、人間らしい感情の弾みではなかった。

ただ、課せられた義務を正しく遂行できるという確信からくる——どこか機械的で、哀しいほどに完璧な、温度のない微笑みだった。


アルテリスは、その冷たい微笑みを纏ったまま、静かに闇へと溶けるようにその場を後にした。

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