邂逅
「あなた方、何をなさっているの?」
凛とした声音が、体育館の静寂を切り裂いた。
床に倒れ伏したまま、少年はわずかに視線だけを入り口へと向ける。
西日を背に受けて立つ一つの影があった。逆光に遮られ、その姿は判然としない。だが、その一声だけで場を支配するほどの圧倒的な存在感がそこにはあった。
「……誰だ、お前」
少年の頭上から、ハムザの苛立った声が降ってくる。
「“お前”とは失礼ですわね。他人に名を問うなら、まず己が名乗るべきでしょう?」
見知らぬ少女は、その場の空気を押し潰すような威圧を前にしても、まったく臆する様子がなかった。
涼やかなその声に、少年は微かな驚きを覚える。力関係が明白な凄惨な場に、自ら割って入ろうとする生徒など、これまで一人としていなかったからだ。
「何だと。よく聞けよ。このお方は、ルシファニア王国ハウゼン伯爵家の次男——ハムザ・ハウゼン様だ。分をわきまえろ」
取り巻きの一人が、主人の威光を傘に着て誇らしげに喚き散らす。
しかし少女は小さく溜息をつくと、静かに、だがはっきりと告げた。
「まあ。お初にお目にかかります、ハムザ・ハウゼン様。
わたくしは——ランデュート王国シャマル侯爵の娘、ジャミーラ・シャマルと申しますわ」
瞬間、少年を取り囲んでいた空気が、あからさまに凍りついた。
「ラン……デュート……」
傾いた夕陽が室内に差し込み、入り口に立つ少女の姿を鮮明に照らし出す。
長い漆黒の髪。そして、吸い込まれそうなほどに深い、紅の瞳。
少年は静かに瞬きをした。
その少女は、探していた肖像画の少女、その人で——
「……悪魔の民族だ」
取り巻きの一人が、恐怖に顔を歪めて低く呟いた。
“悪魔の民族”——それはランデュートの民につけられた、心無い蔑称だ。
遥か昔、神々が悪魔を識別するために施したとされる特徴——闇より深い黒い髪と、血のように赤い瞳。
不運にも、その特徴と酷似しているというだけの理由で、彼らは長く不当に忌避されてきた。
「その呼び名は、おやめくださる?わたくし達も、同じジャルダンの民ですわ」
蔑まれれば、傷つくか、あるいは怒りに我を忘れるのが普通だろう。しかし、少女は俯くどころか、不快感を隠そうともせず凛と顔を上げていた。
偏見の視線を真っ向から撥ね退ける、傲慢なほどの気高さ。少年はその堂々たる姿から、どうしても目を離すことができなかった。
「何がジャルダンの民だ。悪魔と同じ顔をして……目障りなんだよ」
「——やめろ」
「……ハムザ様?」
予想外にも、取り巻きの罵声を制止したのはハムザ本人だった。
取り巻きが目を丸くする中、彼は一歩前に進み出ると、右足を後ろに引いて優雅に上体を傾ける。普段の粗野な振る舞いからは信じられないほど、丁寧な礼だった。
「お初にお目にかかります、シャマル様。ハムザ・ハウゼンです。先程は大変失礼をいたしました」
「いえ。……それで、あなた方はここで何を?」
「訓練ですよ」
「訓練、ですって?」
淡々と言い放つハムザの白々しい嘘に、少女の声音が明確に震えた。
少年は信じられない思いで少女を見つめた。
(怒っている……?)
彼女は、見ず知らずの、床に這いつくばっている惨めな自分のために、本気で憤っているのだ。危ういほどの真っ直ぐな正義感。誰かに庇われることなどとうに諦めていた少年の凍りついた胸の奥で、微かなさざ波が立った。
「そうです。近々武術試験がありますので、彼に付き合ってもらっていました。——そうだよな?」
頭上から、ハムザの底冷えのする視線が突き刺さった。逆らえば後でどうなるか分かっているな、という無言の脅迫だった。
少年は、少女の紅い瞳を見た。彼女は今にもハムザに掴みかからんばかりの、強い光を宿している。
だが、これ以上は危険だ。侯爵令嬢とはいえ、悪魔の民である以上、向けられる視線は決して優しくはない。余計な憶測の種を増やす必要などなかった。
もっとも——今の彼にとって、それは優先すべき問題ではない。
この場で無為に時間を費やしていること。その事実の方が、よほど看過し難かった。
「ハウゼン様の仰る通りでございます」
少年は、泥をすする方を選んだ。助けようとしてくれた彼女の義憤を、踏みにじるような嘘。
少女の視線が、突き刺さるように自分へと向いたのが分かった。
彼女の綺麗な唇が、悔しそうに、きつく噛み締められる。
当事者である少年自身が肯定してしまった以上、いくら高潔な彼女であっても、これ以上踏み込む大義名分を失う。彼女の瞳に、失望と、やり場のない怒りが混ざり合うのを、少年はただじっと見つめていた。
「では、訓練も済みましたので失礼いたします」
少女が引き留める間もなく、ハムザは軽く一礼すると、少年に一瞥すらくれずに身を翻した。
「お、待ちくださいハムザ様ぁ!」
取り巻きの二人が慌ててその後を追いかける。
静まり返った体育館には、少女と少年だけが取り残された。




