近くて遠い
その夜——
ムスタファへの報告は、寮の部屋で行われた。
長椅子に腰掛けるムスタファに、
アルテリスはいつも通りの口調で任務の概要を伝える。
ムスタファもまた、いつも通りにそれを受け取った。
互いに余計な言葉はなく、ただ事実だけが淡々と交わされていく。
淡々とした“任務完了”の報告。
何ひとつ、滞りはなかった——
⚜️⚜️⚜️
翌日。
アルテリスは、早朝訓練に来なかった。
それどころか、ムスタファとライルの姿も見えない。
「聖騎士団の会議があるから、訓練は欠席されるそうですわ」
ルイーズの声は落ち着いていた。
けれど——
それでもなお、胸の奥に引っかかるものは消えなかった。
ジャミーラの胸には、かすかな不安が残った。
——そして、放課後。
生徒会室の扉の前で、
ジャミーラは一度だけ小さく息を整えた。
胸の奥に残る違和感を押し込めるように、ゆっくりと息を吐く。
扉を叩く。
「入れ」
短い声が返る。
扉を開けると、
窓際の席にムスタファの姿があった。
漆黒の髪は整えられ、背に流れるひと房の編み下げが静かに揺れる。
書類に落とされた視線の奥で、真紅の瞳がわずかにこちらを捉えた。
机に書類を広げ、
いつも通り背筋を伸ばしている。
その少し奥——
壁際にはアルテリス。
金色の髪が柔らかく光を受け、
ふわりと揺れる毛先が、どこか現実感を薄めて見せる。
琥珀の瞳は静かに伏せられ、書棚の整理に意識を落としていた。
そして、中央の机にはライル。
同じ漆黒の髪に真紅の瞳を持ちながら、
制服は肩から無造作に崩されている。
椅子に半分腰をかけ、気だるげにノートをめくっていた。
——三人、揃っている。
その事実に、
ジャミーラはほんの一瞬、安堵した。
けれどその安堵は、どこか薄く、心の表面をなぞるだけのものだった。
「……失礼いたします」
ジャミーラが声をかけると、
最初に反応したのはライルだった。
「ごきげんよう、シャマル様」
軽く手を挙げる。
「ごきげんよう、イルハン様。殿下。そして、アルテリスさんも」
ムスタファが顔を上げ、短く頷いた。
「ジャミーラ。昨日は任務ご苦労だった」
「はい。ありがとうございます」
そう答えながら——
ジャミーラの視線は、自然とアルテリスへ向いていた。
アルテリスはそれに気づくと、
何事もなかったかのように静かに一礼する。
「ごきげんよう、シャマル様」
いつもと変わらない声音。
昨夜と地続きとは思えない程、
穏やかで、整っていて——
(……いつも通り、なのね……)
昨夜、あれほど血に濡れていた人とは思えない。
まるで、あの時間だけが現実ではなかったかのように。
胸の奥に、
小さな棘のような違和感が残る。
抜こうとすればするほど、わずかに痛みを増すような感覚。
けれど、
それを口にすることは出来なかった。
「皆さま、お揃いでいらっしゃるのですね」
「定期試験が近いので、本日は皆自習です」
ライルが肩をすくめる。
「この時期はしばらくの間、
早朝訓練はあるが学外任務は休止になる。
学業に専念するように、との聖騎士団側の配慮だ」
ムスタファが補足した。
「……そう、ですのね」
ジャミーラは椅子に腰を下ろし、
持ってきた教本を机に置いた。
生徒会室は静かだった。
外の喧騒とは切り離された、
穏やかな空気。
けれど——
ジャミーラにとっては、それは“安らぎ”であると同時に、
アルテリスの背に隠された何かを、
より強く意識させる場所でもあった。
静けさが深まるほどに、その違和感だけが、はっきりと輪郭を帯びていく。
アルテリスは書棚から一冊取り出し、
机の上に置く。
「こちら、次の試験範囲かと存じます。
ご参考に、宜しければ」
「ありがとう」
ジャミーラは、あくまで平静を保った。
「シャマル様も、こちらへどうぞ」
ライルが手招きをする。
ジャミーラは頷き、席に着くと、
静かに本を開いた。
——任務は、ひとまず終わった。
代わりに始まるのは、
机に向かう、静かな日々。
けれどその裏で。
彼女の心はまだ——
“あの夜”を、置き去りに出来ずにいた。




