嘘の重み
教会の天幕の外で、ジャミーラは焦燥に急かされるように何度も指先を動かしていた。
(アルテリスさん……まだ出てこないわ……)
やがて、デュシャン隊長への報告を済ませたらしい彼が天幕から姿を現した。
ジャミーラの視線は、吸い寄せられるように彼の背中へと落ちる。
物資配布の際に脱いでいた外套が、今はきちんと羽織られていた。姿勢は真っ直ぐで、何事もなかったかのように平然としている。
しかし、ジャミーラの脳裏には、先ほど見たばかりの鮮血がこびりついて離れなかった。
あれだけの血が流れていたのだ。外套一枚で隠しきれるはずがない。その下にある制服は、今もどす黒く濡れているに違いない。想像するだけで、ジャミーラの胸の奥がひりつくように痛んだ。
しかしアルテリスは、彼女の痛切な視線に気づかぬふりをして、いつも通りの穏やかな微笑を向けてきた。
「隊長への報告は済みました。今回の任務もこれにて終了だそうです。学園に戻る準備をいたしましょう」
そう言って歩き出す。重傷を負っているはずなのに、その足取りは静かで、少しの乱れもなかった。それがかえって、ジャミーラの心を締め付ける。
帰り道の荷馬車の中、ジャミーラは膝の上で両手をきつく組み、ただ視線を落としていた。
胸を塞ぐような息苦しさに耐える。口を開けば、再び、堪えていた涙と一緒に自分の身を全く省みない彼への怒りが溢れてしまいそうだったからだ。
対面に座るアルテリスも何も言わない。重く揺れる車内には、ただ冷たい沈黙だけが降り積もっていた。
⚜️⚜️⚜️
学園に戻ってきた頃には、午後の光はすでに弱まり、石畳に長い影が落ちていた。
聖騎士団の建物から離れ、周囲から人影が完全に消えたのを見計らって、ジャミーラはようやく顔を上げた。
「……アルテリスさん。今すぐ治療師のところへ行きましょう。背中の傷を診ていただかなくては」
絞り出すように言ったのに、アルテリスは痛みを隠すような、あの穏やかな笑みを崩さない。
「大丈夫です。先にシャマル様を寮までお送りいたします」
その落ち着き払った態度に、ジャミーラの中で張り詰めていた糸がふつりと切れた。
「そんな場合ではありませんわ!あなたは今——」
震える声を上げたジャミーラを、アルテリスは静かに遮った。
「お願いです。先にシャマル様を寮までお送りさせてください。その後で、治療師のところへ向かいます」
ジャミーラは言葉を失った。さらにアルテリスは、少しだけ目を伏せて言った。
「……それから。どうか殿下には、今回の件を内密にしていただけませんか」
ジャミーラは息を呑んだ。
「どうして……?あの方なら、あなたのことを——」
「殿下にご心配をおかけしたくありません」
その声は静かだったが、決して揺らぐことのない頑なな響きを持っていた。
ジャミーラは奥歯を噛み締める。
(この人は……どうしていつも、自分のことを後回しにするの……)
ひどく胸が痛む。けれど、静かにこちらを見つめてくる琥珀の瞳を前にすると、それ以上強く否定することはできなかった。
「……分かりましたわ」
小さく息を吐き出し、ジャミーラは一歩だけ距離を詰める。
「殿下には申し上げません。でも、わたくしを寮まで送ったら、すぐ治療を受けると約束して」
アルテリスは静かに頷いた。その言葉を信じるしか、今のジャミーラにはできなかった。
⚜️⚜️⚜️
ジャミーラの姿が寮の扉の向こうへ消えていくのを、アルテリスは最後まで見送り続けた。
重い扉が完全に閉まり、彼女の気配が遠ざかったのを確認して、ようやく、深くひび割れた息を吐き出す。
(……申し訳ございません、シャマル様)
背中の傷口よりも、胸の奥がじわりと痛んだ。
彼女の痛切な思いやりと、震える声が耳に残っている。その優しさを裏切る形で、アルテリスは彼女に嘘をついた。
踵を返し、学園の奥へと足を向ける。
彼が向かったのは治療院ではなく、学園の裏手にある部活動用の浴室棟だった。
夕闇が降り始め、建物はすでに静まり返っている。扉を押し開けると、人の気配のない冷たい空気が彼を出迎えた。
アルテリスは重い足取りで奥のロッカールームへ進む。一角にある自分専用のロッカーの鍵を開けると、そこには丁寧に畳まれた新品の制服が数着用意されていた。
いつもの備え。そして、隠し通さねばならない秘密の証。
タオルを手に取り、シャワー室へ入る。
冷たい鏡に映った自分の背中は、制服が裂け、乾いた血が黒く張り付いた見るも無惨な姿だった。
アルテリスは自身の胸元に手を置いた。
掌に、ふっと赤い光が生まれる。静かに灯る小さな火。それは彼の身体を柔らかく包み込み、血に塗れた衣だけを音もなく空気へと溶かしていった。
証拠は消えた。
「……さて」
かすれた声で呟き、再び掌に光を生み出す。
今度の色は赤ではない。まばゆく輝く黄金色だ。
その光がゆっくりと身体へ染み渡っていくと、鏡に映る背中から、深い傷跡が何事もなかったかのように塞がり、消え去った。
——その瞬間。胸の奥で、何かが“ぞわり”と嫌な音を立てて蠢いた。
「……っ」
呼吸が浅くなり、視界が一瞬、きらりと白く揺れる。
アルテリスはたまらず冷たいタイル張りの壁に手をつき、ずるりとうずくまった。自身のマナの根源が、何かに激しく拒絶されているようなひどい違和感。
歯を食いしばり、深く、ゆっくりと息をして、その波が過ぎ去るのをじっと待つ。
やがて呼吸が落ち着きを取り戻すと、アルテリスは震える手で水栓をひねった。
鉄臭い血の匂いと、戦いの埃が、熱い湯と共に排水溝へと流れ落ちていく。
身体を拭き、ロッカーから新品の制服を取り出して袖を通した。真新しい布地の冷たさが、彼に再び仮面を被ることを強要し、背筋を正させる。
鏡の前に立ち、乱れた髪を指で梳き、外套をきちんと肩に掛けた。そこに映っているのは、傷ひとつない、いつもの“アルテリス”だった。
「——参りましょう」
誰もいない空間に短く告げ、扉を閉じる。
ムスタファの元へ向かう彼の足取りは、先ほどと同じように静かで、揺るぎなかった。
しかしその背には——誰にも見せることのできない痛みと、孤独な嘘の重みが、ひっそりと影を落としていた。




