零れた涙
少女を腕に強く抱きしめたまま、ジャミーラは息を呑んで硬直した。
自分たちを押し潰すはずだった崩れた梁。その下で、アルテリスが瓦礫を押しのけ、震える腕で重い身体を起こそうとしている。破れた制服越しに見える彼の肩と背中からは、無惨にも赤黒い血がどくどくと滲み出していた。
心臓が跳ね、全身の血の気が一気に引いていく。手足が氷のように冷たくなり、焦燥と恐怖で指先が制御を失ったように震え始めた。
「……ア、アルテリスさん!」
少女を腕に庇いながら、ジャミーラは這うようにして彼の傍へと擦り寄った。震える指先が、血に濡れた制服の端に触れる。熱い。信じられないほどの血の熱さと、今まさに失われようとしている命の重みがそこにあり、ジャミーラの胸を鷲掴みにした。
「アルテリスさん……!早く治療を……!」
視界が歪む。今すぐ治癒の詠唱を紡がなければ。このままでは彼が死んでしまう。
震える唇をこじ開けようとした、その時だった。
血に汚れたアルテリスの手が、ジャミーラの腕を強く掴んだ。
「そんなことより……お二人とも……早く外へ……!」
「……でもっ……!」
「また崩れたら……どうするのですか!」
鼓膜を突き刺したのは、普段の温厚な彼からは想像もつかないほど、鋭く苛烈な叱責だった。
ジャミーラは弾かれたように肩を震わせる。
ここで自分が躊躇すれば、アルテリスが決死の思いで庇ってくれた意味がない。腕の中の少女まで、再び危険に晒してしまう。
目の前で苦しむ彼を置いていくなんて心臓を引き裂かれるような思いだったが、ジャミーラは血の滲むような覚悟で迷いを振り切り、頷いた。
少女を強く抱え直し、崩れゆく家屋の隙間から外へと駆け出す。
「ミーナ!!」
「お母さん!!」
外へ飛び出すと同時に、待っていた母親と少女が泣きながら抱き合った。
その無事を確認し、すぐさまアルテリスの元へ戻ろうとジャミーラが踵を返した、その瞬間だった。
土埃の舞う崩壊口から、嫌なほど重い音が響く。
弾かれたように視線を向けると、自力で瓦礫を抜け出してきたアルテリスが、力なく膝から崩れ落ちるところだった。
「アルテリスさん……!今すぐ治療を……!」
悲鳴を上げて駆け寄ると、彼の足元にはおびただしい血が滴り落ちていた。
ジャミーラは血に塗れた彼の身体の傍らにすがりつき、震える両手を痛いほど強く組み合わせた。必死の思いで、祈りの詠唱を紡ぐ。
「《女神アウロラさま……
どうか、この者の傷を癒したまえ……》」
淡く柔らかな光が溢れ、アルテリスの身体を包み込む。光が傷口に染み渡ると、凄惨に流れていた血がゆっくりと止まっていった。
やがて、浅く荒かった彼の呼吸がわずかに整った。けれど、辛うじて開いた彼の口からこぼれたのは、自身の痛みを訴える言葉ではなかった。
「シャマル様……申し訳ございません」
あまりにも場違いな謝罪。ジャミーラは胸の奥から込み上げる激しい感情を堪えるように、きつく唇を噛みしめた。
「どうして……」
絞り出した声が、自分でも情けないほどに震えているのがわかる。
「……どうして庇ったの!」
血の気が失せた青白い顔で、アルテリスは痛む身体を庇いながらも、かすかに微笑んでみせた。
「シャマル様に……お怪我を負わせるわけには、参りませんから」
「そんな……理由で……!」
どうしてこの人は、いつだって己よりも他人を優先するのだろうか。その自己犠牲とも言える献身が、どれほどジャミーラの心を抉るのか、彼は少しも分かっていない。
「あなたが……怪我をしていい理由にはならないのよ……!」
苦しそうな息の合間に、アルテリスはあろうことか冗談めかして笑う。
「こう見えて……案外、頑丈なのです」
「そういう問題ではないわ!」
たまらず、ジャミーラは叫んでいた。
「もっと……もっと自分を大切にして……!」
自身の切実な願いが、驚くほどの大声となって空に響き渡った。
⚜️⚜️⚜️
慌ただしい足音が近づき、少女の母親が青ざめた顔で駆け寄ってくる。
「人を、人を呼んできます……!」
だが、アルテリスは静かに首を振ってそれを制した。
「応急処置は済んでおりますので、大丈夫です。お嬢様がご無事で何よりです」
彼は一度深く呼吸を整え、痛みを押し殺していつもの穏やかな声を取り繕うように言った。
「どうか、教会でお休みください」
母親は不安げに視線を揺らしたが、彼の気迫に押されたのか深く頭を下げ、少女を連れてその場を去っていった。
そして——村外れの小道に、重い静けさが戻る。
風が草を揺らす音と、ひどく不規則な二人の呼吸だけが残された。
アルテリスはその場に片膝をついたまま、肩で息をしていた。顔色はまだひどく悪い。
ジャミーラは彼を真っ直ぐに見ることができず、土に汚れた地面に膝をつくと、伏せた目元を隠すように深く俯いた。
「……ごめんなさい……わたくし……血を……止めることしか……出来なくて……」
気丈に振る舞おうと奥歯を噛みしめても、声にどうしようもない震えが滲む。
もっと自分に強力な治癒の力があれば。彼の背中に残るひどい痛みを、今すぐ全て取り除いてあげられたのに。己の無力さが口惜しかった。
アルテリスは、まるで彼女の罪悪感を拭い去るかのように、ひときわ優しく微笑んだ。
「シャマル様……本当に、私は大丈夫です。どうか、そのような顔をなさらないでください」
その底なしの優しさが、かえってジャミーラの胸をきつく締め付ける。痛む身体を押してまで自分を慰めようとする彼の姿に、さらなる罪悪感が容赦なく呼び起こされた。
そもそも、彼がこんな大怪我を負うことになったのは、治癒の力がどうこうという問題ではない。
他でもない、彼をこのような危険に晒した元凶は——自分自身なのだ。
胸の奥でどす黒く渦巻く後悔に耐えきれず、ジャミーラは膝の上で両手をぎゅっと握り込んだ。
「本当に……ごめんなさい……」
「シャマル様……?」
「わたくしが……わたくしが軽率でした」
驚くアルテリスを他所に、ジャミーラは血の染みた地面に視線を落としたまま、震える声で続ける。
「あの子のことばかり考えて……周りを見ていなかったの。感情的にならなければ……あなたが傷つくこともなかったのに……」
愚かだった。自分の浅はかで無鉄砲な行動が、大切に思っている人をこんなにも傷つけてしまったのだ。
「シャマル様は、あの少女のためを思って動かれたのです。どうか、ご自身を責めないでください」
アルテリスの静かで温かい声が耳に届く。
その、どこまでも自分を肯定してくれる優しい響きに触れた瞬間——ジャミーラの中でずっと張り詰めていた心の糸が、ふっと切れた。
ぽたり、と。
血塗れの地面に、丸い水滴が落ちた。自分の頬を、熱い涙が伝い落ちたのだと気づくのに数秒かかった。
はっとして、慌てて目元を乱暴に袖で拭う。
「……っ、違うの……泣くつもりなんて……」
「シャマル様……?」
いつも静謐なアルテリスの瞳に、初めてはっきりとした強い動揺が浮かんでいるのがわかる。
見られてはいけない。隠さなければ。そう思うのに、押し殺そうとした声は、堰を切ったように大粒の涙と共に溢れ出した。
「……怖かったの……!倒れてくる天井を見た時……あなたがわたくしを突き飛ばして、血を流して倒れた時……胸が、張り裂けそうなほど……怖かった……!」
震える両手で、不格好に顔を覆う。瞼の裏に、先ほどの凄惨な光景が、むせ返るような血の匂いと共に鮮明に焼き付いて離れない。
「シャマル様……私ごときのために、そのように……」
その自分を貶めるような卑屈な言葉に、ジャミーラは涙に濡れた顔をバッと上げ、きつく彼を睨みつけた。
「“ごとき”なんて……二度と言わないで!」
悲鳴のような声が震えながら、ひときわ高く跳ねる。
「あなたが倒れた時、わたくし……心臓が止まるかと思ったのよ……あんなの……二度と、嫌……」
ジャミーラは、なりふり構わず子供のように泣きじゃくる。
やがて、アルテリスが躊躇いがちに、ゆっくりと手を伸ばしてきた。
男の子にしては華奢な手が、顔を覆うジャミーラの震える指先にそっと触れた。失血のせいか少し冷たかったが、そこには確かな命の熱があった。
「シャマル様がこのような表情をされるとは、思っておりませんでした」
彼の声にも、今まで聞いたことのないような微かな揺れがあった。
「シャマル様がご無事で何よりです」
まただ。こんな状況でも、彼は己より他人のことを言う。
「だから……!そのせいで……あなたが傷つくのは……嫌なのよ……!」
しゃくり上げるような涙混じりの声で、ジャミーラは口答えするように言い返す。
アルテリスは静かに目を伏せた。
その横顔はひどく困ったように見えて——けれど、どこか優しく、胸の奥の温かな痛みを堪えているかのようにも見えた。
触れ合った指先から伝わってくる、彼の不器用で真っ直ぐな優しさに。
ジャミーラは心を打たれ、ただポロポロと涙を零し続けた。




