近くて遠い
翌日。
いつものように早朝訓練へ向かったジャミーラを待っていたのは、底知れない不安だった。
アルテリスが姿を見せない。それどころか、ムスタファとライルも欠席だった。
「聖騎士団の会議があるから、本日の訓練は欠席されるそうですわ」
ルイーズの言葉は、ごくありふれた日常の報告だった。
けれど、ジャミーラの胸の奥には、黒い染みが滲むような不安がじわじわと広がっていく。
(会議……本当にそうなの?)
目を閉じれば、昨夜の光景が鮮明に蘇る。アルテリスが負っていた、あの凄惨な傷。そして生々しい血の匂い。
傷が化膿して倒れてしまったのではないか。ムスタファもライルも、彼に付きっきりでここへ来られないのではないか——
いくら打ち消そうとしても、最悪の想像ばかりが頭を巡り、授業中もまったく落ち着かなかった。
——そして、長く感じられた放課後。
生徒会室の扉の前で、ジャミーラは祈るように手を組み、小さく息を整えた。
どうか、彼がそこにいますように。
ゆっくりと息を吐き出し、扉を叩く。
「入れ」
短い声が返ってきた。
扉を開けると、そこにはいつもと変わらない日常の風景があった。
窓際の席にはムスタファ。漆黒の髪は隙なく整えられ、背に流れるひと房の編み下げが静かに揺れている。書類に落とされていた真紅の瞳が、わずかにジャミーラを捉えた。
そして中央の机には、制服を気だるげに着崩したライルが、椅子に半分腰をかけてノートをめくっている。
——そして、その奥。壁際の書棚の前に、アルテリスの姿があった。
夕暮れ前の柔らかい光を浴びた金色の髪が、ふわりと揺れる。静かに伏せられた琥珀の瞳は、書棚の整理に向けられていた。
三人とも、揃っている。
その事実に、ジャミーラは小さく息を吐き出した。
けれど、胸を撫で下ろせたのはほんの一瞬だけだった。心の表面をなぞるだけの薄い安堵は、すぐに別の感情に塗り替えられていく。
「ごきげんよう、殿下。イルハン様。そして、アルテリスさんも」
声をかけると、最初に反応したのはライルだった。
「ごきげんよう、シャマル様」
続いて、ムスタファが顔を上げ、「昨日は任務ご苦労だった」と短く労う。
「はい。ありがとうございます」
そう返事をしながらも、ジャミーラの視線は吸い寄せられるようにアルテリスへと向いていた。
視線に気づいたアルテリスは、何事もなかったかのように静かに一礼した。
「ごきげんよう、シャマル様」
いつもとまったく変わらない、穏やかで整った声音だった。
(……いつも通り、なのね……)
ジャミーラは目を疑った。昨夜、あれほど血に濡れていた人とは到底思えない。
痛みで顔を歪めることもなく、庇うような素振りすら一切見せない。まるで、あの凄惨な出来事など幻だったかのように振る舞っている。
胸の奥に、小さな棘が刺さったような違和感が残る。抜こうとすればするほど、わずかに痛みを増すような感覚。
(無理をしているに決まっているのに……!)
駆け寄って問い詰めたい衝動に駆られたが、事情を知らない殿下たちの手前、それを口にするわけにはいかなかった。
「皆さま、お揃いでいらっしゃるのですね」
ジャミーラがどうにか声を絞り出すと、ライルが肩をすくめた。
「定期試験が近いので、本日は皆自習です」
「この時期はしばらくの間、学外任務は休止になる。早朝訓練はあるが、今は学業に専念するようにとの聖騎士団側の配慮だ」
ムスタファが補足する。
「……そう、ですのね」
「シャマル様も、こちらへどうぞ」
ライルの手招きに応じ、ジャミーラは席に着くと、持ってきた教本を机に置いた。
生徒会室は静かだった。外の喧騒とは切り離された、穏やかな空間。
けれど、ジャミーラにとっては、その静けさがかえって苦しかった。静けさが深まるほどに、アルテリスの完璧な振る舞いの裏にあるはずの痛みが、生々しい違和感となって浮き彫りになっていく。
アルテリスは書棚から一冊の本を取り出し、ジャミーラの机の上にそっと置いた。
「こちら、次の試験範囲かと存じます。ご参考に、宜しければ」
「……ありがとう」
ジャミーラは、必死に平静を保って微笑んだ。
——任務は、ひとまず終わった。
代わりに始まるのは、机に向かう静かな日々。
けれど、ジャミーラの心はまだ、あの血塗られた夜に取り残されたままだった。
⚜️⚜️⚜️
夕暮れの回廊は、人影もまばらだった。
窓から差し込む橙色の光が、石床に二人の長い影を落とす。
並んで歩くいつも通りの帰り道。けれど、ジャミーラの胸の鼓動は落ち着かない。
生徒会室では他の目があった。でも、今は二人きりだ。
「……アルテリスさん」
恐る恐る、口を開いた。
「傷の具合は、どう?」
ずっと胸の奥でくすぶり続けていた不安を、ようやく言葉にする。
「もう大丈夫です。ご心配をおかけいたしました」
振り返った彼から向けられたのは、いつもの穏やかな微笑みだった。
あまりにも完璧なその表情が、かえってジャミーラの胸をきつく締め付ける。
「……わたくしの前では、無理をなさらないで」
ジャミーラの視線が、無意識にアルテリスの背中へと落ちた。
本来なら、ひどく深く傷を負っているはずの場所。だが、仕立ての良い外套の上からは、何も読み取れない。
「無理は、しておりません」
迷いのない、落ち着いた声音が返ってくる。
「嘘よ」
ジャミーラは思わず強い言葉を口にしていた。抑え込んでいた感情が、声に滲んで震える。
「あれ程の傷が、一晩で良くなるはずがないでしょう」
アルテリスは困ったように、ほんの少し肩を竦めた。その何気ない仕草にすら、痛みを庇う様子がないことが、かえって不自然だった。
「殿下や皆様に内密にしてくださり、ありがとうございます」
アルテリスは追及を躱すように、静かに頭を下げて話題を変えた。
「約束ですもの。……でも」
ジャミーラは、彼の琥珀の瞳を真っ直ぐに見つめ返す。逸らしてはいけないと思った。
「やはり、正直にお話した方がいいと思うわ。学業はともかく、訓練や任務は、しばらくお休みするべきよ」
「それはいたしかねます」
間を置かない、強い拒絶だった。
ジャミーラはたまらず眉間に皺を寄せる。
「殿下に、ご心配をおかけしたくないから?」
「はい」
アルテリスは静かに頷いた。
ジャミーラは長く、震える息を吐き出す。言葉を探すようにわずかに視線を落とし——
「アルテリスさんは、どうしてそんなに強情なの」
こぼれ落ちた声は、悲痛な響きを帯びていた。
「申し訳ございません」
アルテリスの声音は、心底申し訳なさそうだった。
(違うの。謝ってほしいわけじゃないのよ)
彼を責めたいわけでもない。ただ、彼を案じる気持ちを受け取って、少しだけでも頼ってほしいだけなのに。
ジャミーラは唇をきゅっと結ぶ。
「わたくしは、昨日あったことを知っているわ。いえ……たとえ知らなかったとしても、わたくしには、隠さないで欲しいの」
だって。ジャミーラは胸の前で両手を固く握り締め、ありったけの勇気を振り絞って告げた。
「わたくしは、あなたの“友達”なのよ」
「シャマル様……」
「たとえあなたが否定しても、わたくしはそう思っているわ」
その言葉に、アルテリスの足がわずかに止まった。
伏せられた琥珀の瞳が、かすかに揺れる。まるで、ジャミーラの必死な言葉に心を動かされ、今度こそ纏っている見えない鎧を脱いでくれそうな——そんな脆さが垣間見えた気がした。
(お願い、話して……)
けれど。次の瞬間、彼は再び見えない分厚い鎧を纏い、そっと感情を奥底へ押し込めてしまった。
「お気持ちは、大変嬉しく思っております」
選ばれた言葉は、ひどく優しく、柔らかかった。
だからこそ、ジャミーラにははっきりと分かってしまった。絶対に越えられない一線が、そこに引かれていることが。
『これ以上、踏み込まないでください』と、優しく、けれど決定的に拒絶されたのだ。
それ以上、ジャミーラは言葉を紡ぐことができなかった。
無言のまま歩き続け、やがて重い沈黙の先に、寮の温かな灯りが見えてくる。
「着きましたね」
別れ際、アルテリスはいつものように、完璧で優雅な一礼をした。
「おやすみなさいませ、シャマル様」
「……おやすみなさい」
背を向けて夜の闇へと歩き出す彼を見送りながら、ジャミーラは胸の奥で静かに噛み締めていた。
——隠しているということは、独りで抱えているということ。
誰にも頼らず、一人で痛みに耐えようとしている。その事実が、夜の冷たい空気よりも深く、重く、ジャミーラの胸に沈んでいく。
手を伸ばしても、決して触れることすら許されない距離。
彼が引いた境界線の手前で立ち尽くすしかない己の無力さを、ジャミーラはただ一人、痛いほどに思い知っていた。




