友達
「朝……」
新入生歓迎会の翌日。
カーテンの隙間からこぼれる光に瞼を押し上げられ、ジャミーラはゆっくりと身を起こした。
体は鉛のように重い。寝台に散った漆黒の髪と、眠りの残る深紅の瞳が、昨夜の激動を物語っていた。
薄く腫れた目元にそっと指を添えると、小さなため息がこぼれた。
「結局、ほとんど眠れなかったわね……」
ムスタファ王子から突きつけられた、あまりにも甘く残酷な“共犯者”としての提案。
彼が本命の愛人を守るための盾として利用され、あろうことか、自分の大切な夢すら交渉の切り札にされた屈辱。
そして何より——それを王子に密告し、交渉の舞台を裏でお膳立てしたであろう金髪の少年のことが、頭から離れない。
一夜にして降りかかった理不尽な出来事が、胸の内を泥水のように掻き乱し、安らかな眠りを奪っていた。
『シャマル様。あなたは——神聖術師に憧れておられるとか』
思い出して、ぎゅっと胸が痛む。あの裏庭で、アルテリスを信じて打ち明けた秘密。
(わたくしを監視し、懐に飛び込んで情報を得るのが、あなたの“役目”だったのね)
理屈では分かっている。結果的に、そのおかげで学園に残り、夢を追う切符を手に入れたのだと。けれど、心はそう簡単に割り切れない。
騙されていたという戸惑い、裏切られたという激しい憤り。なのに、本人に直接確かめたいと願う自分がいる。
主君であるムスタファのため。本当にただそれだけの理由で自分に近づき、夢を利用したのか。
避けては通れない。ならば、せめて早い方がいい——そう思い立つと、ジャミーラはようやく布団から抜け出した。
⚜️⚜️⚜️
「いないわ……」
放課後。
ジャミーラはいつものように図書館を訪れ、入口から奥へと視線を巡らせた。
しかし、毎日のようにそこにいたはずのふわりとした金色の髪は、どこにも見当たらない。
「まだ来ていないのかしら」
胸の奥で、不安とも諦めともつかない感情がそっと囁く。
目的を果たしたから、もうここへ来る必要がなくなったのだろうか。
西日の差し込む静かな閲覧室は、いつもよりずっと広く、そしてひび割れたように白々しく感じられた。彼がいつも座っていた木製の椅子を見つめるたび、胸の奥がちりちりと煤けるように痛む。
悪魔の民族の侯爵令嬢としての仮面を脱ぎ捨て、ただの等身大の少女として過ごせたあの穏やかな時間。あれは本当に全て、主命を果たすための精巧な演技だったのだろうか。もしそうだとしたら、自分はどれほど愚かで、滑稽だったことか。
騙されていたかもしれないという恐怖と、それでも彼を信じたいという未練が、ジャミーラの内側で激しくせめぎ合っていた。
「シャマル様」
背後からかけられた、いつもと変わらない静かな声に、ジャミーラは肩を跳ね上げて振り返った。
「アルテリスさん」
そこには、西日を受けて淡く輝く金色の髪を揺らし、澄んだ琥珀色の瞳でまっすぐ彼女を見つめる少年の姿があった。
一瞬、胸にかかっていた靄が晴れそうになり、ジャミーラは慌てて自らの心を冷たく律した。いま目の前にいるのは、心安らぐ友人ではない。昨夜、自分に都合のいい裏舞台を用意した主従の一人なのだと。
対するアルテリスは、いつになく真剣な面持ちのまま、その場で深々と頭を下げた。
「シャマル様。改めまして、ランデュート王国第二王子ムスタファ・ランデュエル殿下の側近を務めております、アルテリスと申します。この度はシャマル様に不快な思いをさせてしまいましたこと、深くお詫び申し上げます」
あまりにかしこまった、見えない壁を感じさせるような態度。
ジャミーラはしばらく黙ったまま、床に落ちる二人の影を見つめていた。訊ねるべき言葉は決まっている。「なぜ殿下に話したの」と、冷たくなじる準備はできていた。
——それでも、口をついて出たのは、必死に隠していた本音だった。
「……わたくしね、あなたと過ごす時間が楽しかったの。初めて、身分も建前も気にせず話せる方ができたって……すごく嬉しかったのよ。“友達”って、こういうことなのかしらって。それなのに」
声がわずかに震える。アルテリスの顔を直視できず、床を見つめたまま続ける。
「あなたが殿下の側近だと知ったとき。いいえ、それ以上に……わたくしが話したことを全て、殿下に報告されていたと知って、深く傷ついたわ。裏庭で打ち明けたあの夢も、あなたを信じて話したのに……あなたは殿下のためだけに、わたくしを利用したのね」
アルテリスは何も言わなかった。
「……否定も、してくださらないのね」
「否定はいたしません」
アルテリスはゆっくりと顔を上げた。その琥珀色の瞳には、どこまでも実直で、一点の曇りもない光が宿っているように見えた。
「シャマル様の仰る通りでございます。殿下にお仕えする身として、信用の置けぬ方を殿下の傍に置くわけには参りませんでした。ですので
当初、私は殿下のためにシャマル様に近づきました。恐れ多くもシャマル様のお人柄を見極めるために」
予想していた通りの答えに、ジャミーラの胸がギリッと痛む。
「ですが、シャマル様は、私のような平民にも分け隔てなく接してくださいました。身に余るほどのお心遣いを、何度もいただいております。
差し出がましいことを申し上げますが、私は、シャマル様こそ殿下の御傍におられるべきお方だと思っております」
「……え?」
「シャマル様がお持ちの切なる願いを、殿下が否定なさることはございません。
ですから——どうか、おふたりが共に歩まれる未来が、幸せなものでありますように。私は、そのように願っております」
ジャミーラは息を呑んだ。
頭の芯が凍りつくような衝撃が、彼女の身体を駆け巡る。
言葉を紡ぐアルテリスの瞳は、どこまでも澄んでいた。
そこに悪意や計算、あるいは昨夜の“冷徹な契約”の気配など、ひとかけらも存在しない。
ただ純粋に、敬愛する主君と、尊敬する令嬢が手を取り合って幸せになる未来を、何の疑いもなく信じ切っている——そんな、痛いほどの純粋さだけがそこにあった。
(アルテリスさんは、何も知らないの……?)
ムスタファ王子に命を懸けてでも守りたい平民の女性がいることも。
ジャミーラをその身代わりに仕立て上げるために、大切な夢を切り札にして残酷な取引を迫ってきたことも。
アルテリスは、ただ純粋に、ジャミーラとムスタファの幸せを願って、良かれと思って二人の橋渡しをしただけだったのだ。
(殿下は、ご自身の側近にさえ、本当の心を隠していらっしゃる。すべては、あの残酷な契約を秘匿するため……)
もしここで、ジャミーラが昨夜のムスタファの冷酷さをなじるような真似をすれば、アルテリスは激しく困惑し、傷つくだろう。
彼が主君を問い詰めれば、せめてもの救いとして結んだ“夢への切符”さえ白紙になってしまう可能性もある。
そして何より——目の前で自分たちの幸せを心から願ってくれているこの少年の純粋な想いを、引き裂きたくはなかった。
「結果としてシャマル様を傷つけてしまいましたこと、誠に申し訳ございません」
再び深く頭を下げるアルテリスを見つめながら、ジャミーラはそっと痛む胸を抑え、細く息を吐き出した。そして、張り詰めていた表情を、柔らかい微笑みへと丁寧に塗り替えていく。
「……いいえ、いいのよ。頭を上げて、アルテリスさん。わたくしの早とちりだったわ。
あなたの深い忠義と、わたくしへの温かいお心遣いを知らずに、酷いことを言ってしまってごめんなさい」
ジャミーラは、胸の奥で渦巻く動揺を隠し、努めて穏やかに言った。
「でも、もし本当に、わたくしに申し訳ないと思ってくださるなら……ひとつだけ、お願いを聞いてくださらない?」
「……何でございましょう」
「わたくしの……お友達になってくださらない?」
それは、侯爵令嬢としてではなく、一人の等身大の少女としての願いだった。
すべてを欺かなければならないこの学園で、せめてこの純粋な少年とだけは、心を通わせていたかった。
アルテリスの琥珀色の瞳が、驚きに見開かれる。
「わたくし、あなたを友達だと思っているの。身分も、立場も関係なく……ただのジャミーラとして、これからもこの図書館で、あなたとお話したいのよ」
アルテリスは一瞬だけ視線を落とし——そして静かに顔を上げた。
「……いたしかねます」
その拒絶の言葉は、薄い刃のようにジャミーラの胸へ触れた。思わず息が詰まる。
「私はあくまで殿下の側近であり、貴族ですらございません。身分を越えて友誼を結ぶのは……シャマル様に対して、無礼となりましょう」
主君の婚約者と、その側近。貴族と平民。——越えられない線が、そこにはあった。
頭では理解できる。けれど——胸が締め付けられるほど、ひどく悲しかった。
「それは……そうかもしれないけれど……」
言葉が続かないジャミーラに、アルテリスは穏やかな声で続けた。
「シャマル様——もしよろしければ、殿下の“ご友人”になってはいただけないでしょうか」
「殿下の……?」
思わず眉が寄る。
「殿下には敵が多く、信じられる者も限られております。かつては、信じた者に命を狙われたこともございました。殿下が本心から心を許せる相手が、どうか……ひとりでも増えますようにと、願っております」
その言葉は、アルテリスがどれほど主を大切に思っているかを、雄弁に物語っていた。
(……そう言われても、あの殿下がわたくしに心を開くはずがないのだけれど)
昨夜、氷のように冷たい瞳で自分を“盾”にすると宣告した王子の顔が脳裏をよぎる。殿下の心にはすでに別の誰かがおり、自分との関係はただの残酷な契約でしかない。その真実を、目の前の少年は微塵も疑わずに——ただ主君の孤独を憂い、心安らぐ相手ができることをひたむきに願っているのだ。
その痛いほどの真っ直ぐさが、眩しかった。
アルテリスの純粋な忠誠心が愛おしく、そして同時に、少しだけ切なかった。
ジャミーラはそっと息を吸い、
「……わかったわ。でも、その代わりに、わたくしの願いも聞いてほしいの」
「それは——」
遮るように首を振る。
「友達でなくてもいいわ。でも……二人きりの時だけは、今まで通りに接してくださらない?」
アルテリスは迷うように瞳を伏せ——やがて静かに頷いた。
「……かしこまりました。可能な限り、シャマル様のお望みのようにいたします」
「ありがとう」
ジャミーラが優しく微笑むと、アルテリスもまた、柔らかく微笑んだ。
「アルテリスさん、この後のご予定は?」
「殿下の護衛に戻るところでございます」
「そう……では、放課後にふたりで過ごすのは難しいわね」
少し寂しげに呟くジャミーラに、アルテリスはふと思い出したように言う。
「もしよろしければ、殿下とご一緒に自習をされませんか」
「殿下と?」
「ええ。私も参りますし、殿下との親睦を深められるかと」
ムスタファとジャミーラの距離を少しでも縮めようとする、彼の純粋な意図。その健気さに、ジャミーラは思わず苦笑をこぼした。
「わかったわ。案内してくださる?」
「かしこまりました」
そうしてジャミーラは、アルテリスに導かれ、静かな図書館を後にした。二人で歩くその背中に、傾きかけた西日が長く柔らかな影を落としていた。




