契約を知る者
ジャミーラは、生徒会室の重厚な扉を前にして、小さく息を整えた。
「ムスタファ殿下、アルテリスです」
隣に立つアルテリスが静かに扉を叩く。「入れ」という短い応答を受け、彼が扉を開いた。
ジャミーラはその少し後ろから、未知の空間へと足を踏み入れる。
部屋の中央には長机がひとつ置かれていた。
その最奥に座るのは、光を吸い込むような漆黒の髪を細い編み下げにしたムスタファだ。伏せられていた長い睫毛が上がり、深い赤の瞳が静かにジャミーラを射抜いた。
「あなたは……」
不意の来訪者に、王子が僅かに目を見開く。その視線の動きに気づき、ムスタファの斜め向かいに控えていた黒髪の青年もこちらを振り返った。
青年もまた、ムスタファと同じ赤い瞳を持っていた。しかし、制服の外套を気楽そうに着崩し、ひょろりとした体躯には柔らかな微笑を浮かべている。同じ色彩を宿しながらも、その褐色の肌と人懐こい空気は、どこか穏やかな温かみを感じさせた。
「シャマル様……?」
面識がないはずの青年が、驚いたようにジャミーラの名を呼ぶ。すかさず、隣のアルテリスが口を開いた。
「シャマル様は、殿下のご婚約者であらせられます。ご一緒いただくのが自然かと、お連れいたしました。——よろしいですね?」
「……ああ」
アルテリスの有無を言わせぬ強気な物言いに、ムスタファが小さく溜息をついて頷く。
主君に対して堂々と意見を通すその姿に、二人がどれほど厚い信頼で結ばれているのかが垣間見え、ジャミーラは内心でそっと感心した。それと同時に、この張り詰めた空間で自分を導いてくれるアルテリスの存在が、ひどく心強く感じられる。
「シャマル様、こちらへどうぞ」
アルテリスに促されるまま、ジャミーラはムスタファの隣の席へ丁寧に礼をして腰を下ろした。窓から差し込む夕陽が、彼女の褐色の肌を温かく染める。
漆黒の髪と深紅の瞳。
本国では珍しくない色合いだが、この部屋に集まった三人は、それぞれ全く異なる気配を纏っていた。
ムスタファが、目の前の青年を手のひらで示す。
「シャマル嬢、彼は私の側近のライル・イルハンです」
「ムスタファ殿下の側近、ライル・イルハンと申します」
青年が深く会釈する。イルハン侯爵家の長子。ジャミーラも耳にしたことのある名だった。
「ジャミーラ・シャマルです。よろしくお願い申し上げますわ」
「ここにいる者は皆、上級生です。何かあれば気兼ねなくお尋ねください」
「ありがとうございます」
丁寧に応じながらも、ジャミーラは知らず知らずのうちに緊張で指先を強張らせていた。そんな彼女の様子を察したのか、斜め前に座るアルテリスがふっと目を合わせ、優しく微笑む。
琥珀色の瞳が静かに細められ、陽光を思わせる金色の髪が柔らかく揺れた。
黒と赤に囲まれた息の詰まるような室内で、彼の姿だけが鮮やかに、そして温かくジャミーラの瞳に映る。張り詰めていた胸の奥が、すっと軽くなるのを感じた。
やがて、ペンが紙を擦る音だけが響く、静かな自習が始まった。
⚜️⚜️⚜️
「そろそろ休憩にいたしませんか」
どれくらい経った頃だろうか。ライルが大きく腕を伸ばしながら声をかけた。
「そうだな。……アル、お茶をお願いできるか」
「承知いたしました。
ライル様、お手伝いいただけますか」
アルテリスはいつもと変わらない、落ち着き払った丁寧な口調で告げた。
だが、指名された側のライルは「え、俺が?」と、なぜか酷く意外そうに目を丸くしている。
その様子に、ジャミーラが内心で小さく首を傾げたのも束の間。ライルはムスタファとジャミーラを交互に見比べ、すべてを察したように深く頷いた。
「……なるほど。はいはい、お供しますよ」
何かを含んだようなライルの態度に、ジャミーラはそこでようやく合点がいった。
(二人きりにするための口実なのね)
二人は一礼し、足早に部屋を出ていった。
室内に、ふっと静けさが訪れた。その中で、ムスタファが小さく溜息を漏らす。
「アルテリスさんが、気を利かせてくださったようですね」
「そうですね」
二人きりになったのを確認し、ジャミーラはすっと姿勢を正した。ここから先は、婚約者としてではなく、対等な契約者としての時間だ。
「折角の機会ですから、昨晩のお話について、改めて確認をさせていただいてもよろしいでしょうか」
「ええ」
ジャミーラは、努めて感情を交えずに淡々と事実だけを並べた。
「殿下のお望みは、対外的には婚約者として振る舞うこと。殿下からの愛情を求めないこと。そして、この契約を他言無用とすること。
……こちらの認識で間違いありませんか」
「はい」
「では、婚約者として具体的にはどこまで求められますか?社交や領地経営のお手伝いなどは……?」
「不要です。私はただ、新たな縁談を避けたいだけ。シャマル様は自由にお過ごしください」
なるほど、とジャミーラは胸の内で冷ややかに頷く。
(つまり、殿下が必要としているのは“婚約者という隠れ蓑”だけなのね)
「それと……この契約については、アルテリスさんもご存知ないのでしょうか?」
「アルは何も知りません」
「殿下とわたくし以外で、この契約を知る方はいらっしゃいますか」
「一人もおりません」
「お相手の女性も?」
「伝えておりません」
度を越した秘密主義に、ジャミーラは思わず目を丸くした。差し出がましいとは思いつつも、あまりの不器用さに呆れ、そしてほんの少しの危うさを感じて言葉が零れる。
「……それで、本当によろしいのですか?差し出がましいようですが……せめてお相手の方にだけは、真実をお伝えになった方がよろしいのではないでしょうか」
「……おっしゃる通りです」
返ってきた声は、どこか虚ろで力を欠いていた。その表情を見たジャミーラは、(……伝える気は、なさそうね)と胸の内でそっと息を吐く。
殿下の恋は前途多難だ。あるいは、その“愛する相手”すらも殿下の作り話という可能性まで頭をよぎったが——すぐに思考を打ち切った。
(事情がおありでしょうし……深入りはやめておきましょう。わたくしの役目ではないわ)
「この件に関して、これ以上は伺いませんわ。
最後に、わたくしから一つだけ、ご提案させていただいてもよろしいでしょうか?」
「何でしょう」
ジャミーラは、氷のような表情を崩さない王子へ、挑むように柔らかく視線を向けた。
「殿下……どうか、わたくしにはもう少し砕けた口調でお話しくださいませ。名前も、シャマル嬢ではなく——“ジャミーラ”と、お呼びください。いつまでもよそよそしくては、かえって不自然に見えてしまいますわ」
一瞬、ムスタファは沈黙した。
「……不自然、ですか」
「ええ。わたくしたちは“婚約者同士”という建前でございますでしょう?周囲の目をごまかすためにも、親しげに振る舞った方が良いかと存じますわ」
言葉の響きは穏やかだが、ほんの少し“いたずらめいた”鋭さを混ぜてみる。困惑する王子の顔を見るのは、思いのほか愉快だった。
ムスタファは一瞬だけ視線を落とし、観念したようにゆっくりと頷いた。
「……分かった」
「ありがとうございます、殿下。その一言だけでも、ずいぶんと印象が違いますわ」
ジャミーラが小さく笑うと、ムスタファは敗北を認めるように肩を落とした。
「……あなたは、思ったより遠慮がないな」
「契約の相手ですもの。遠慮ばかりでは務まりませんわ」
ジャミーラが誇らしげに控えめな微笑みを咲かせたとき、コンコン、と軽快な音を立てて扉が叩かれた。アルテリスとライルの戻りだ。
二人だけの冷徹な交渉は、奇妙な温度を残して幕を閉じた。
⚜️⚜️⚜️
勉強会は日没とともにお開きになり、アルテリスがジャミーラを女子寮まで送ることになった。
薄暗闇の空の下、等間隔に並んだ外灯に照らされながら、二人は並んで歩く。
昼間の緊張から解放され、ジャミーラの口から自然と柔らかな感謝が零れた。
「今日はありがとう」
「お勉強は捗りましたか」
「ええ。お陰様で」
微笑み返すアルテリスの横顔を見つめるうちに、ジャミーラの心も不思議と凪いでいく。
「私達は毎日、放課後はここにおります。
是非またいらしてください」
毎日——。
その言葉に、ジャミーラの歩みが一瞬だけ止まった。胸の奥に、昼間から抱いていた小さな違和感が頭をもたげる。
「……ねえ、アルテリスさん」
「はい」
「あなたが毎日図書館にいたのは、わたくしを探すためだったの?」
深紅の瞳で、真っ直ぐに彼の琥珀の瞳を見つめる。少しの間の後、アルテリスは嘘をつくことなく、静かに頷いた。
「やはり……わたくし、見事にあなた方の掌の上で踊らされていたのね」
ジャミーラは、わざとらしく唇を尖らせてみせた。彼女の微かな落胆を察したのか、アルテリスは少し困ったように俯き、痛ましげに声を絞り出した。
「申し訳ございません」
その声には、一切の打算も言い訳もなかった。ただただ、ジャミーラへの申し訳なさだけが詰まっている。
『殿下にお仕えする身として、信用の置けぬ方を殿下の傍に置くわけには参りませんでした』
昼間に言われた彼の言葉を思い返す。
彼が包み隠さず正直に明かしてくれたのは、今の自分を“信頼してくれている”証なのだろう。
そう気付いた瞬間、傷ついていたはずの胸が、じんわりと温かさに満たされていく。
ただ騙されていたわけじゃない。彼は今、ちゃんと自分と向き合ってくれている。
ジャミーラは意地悪な笑みを引っ込め、悪戯っぽく首を傾げた。
「いいわ。ではお詫びとして……またお茶会をしてくださらない?もちろん、殿下とイルハン様もご一緒に。どうかしら?」
「ご提案してみます」
「ふふ……楽しみにしているわ」
ジャミーラの声が、夜風に乗って軽やかに弾む。
胸に燻っていたわだかまりがふっと溶け、視界が一段明るくなったような心地よさの中で、二人は女子寮の前で足を止めた。
「では、また明日。おやすみなさい、アルテリスさん」
「おやすみなさいませ、シャマル様」
深く一礼するアルテリスに見送られながら、ジャミーラは静かな寮へと歩みを進める。その足取りは、行きよりもずっと軽やかだった。




