主従
「シャマル様はいかがでしたか」
深い夜の静寂に沈んだ、男子寮の豪奢な一室。
新入生歓迎会という張り詰めた公式行事を終え、中央の長椅子に深く身を横たえるムスタファに、アルテリスは静かに問いかけた。その細い腕には、先ほどまで主君が身に纏っていた黒い外套が、ひどく大切そうに預けられている。
漆黒の髪を無造作に散らし、窮屈な正装を着崩したムスタファは、外で見せる冷徹で凛とした姿とは違い、この部屋でだけはどこか気を許したような無防備さを帯びていた。
「いかがと言われてもな」
ムスタファは深紅の瞳を覆うように額へ片腕を乗せ、目を伏せたまま低く答えた。
ジャミーラが本国から留学してきてからの数日間、ムスタファはアルテリスから毎晩のように彼女の報告を受けていた。
普段、ムスタファ以外の人間に対しては石像のように感情を殺し、必要最低限の言葉しか発しないアルテリスが、ジャミーラの人柄や立ち居振る舞いを語るときだけは、驚くほど言葉を尽くしていたのだ。
紅玉の瞳に、漆黒の髪。
身分を問わず分け隔てなく接する慈悲深さ。
目の前の悪に立ち向かう勇気。
己の立場を理解し、それに相応しい振る舞いをする聡明さ。
淡々とした復命のなかに、確かに混ざる熱。それは、アルテリスが語るジャミーラが、御伽噺に描かれる理想の令嬢そのものであるかのようにムスタファの耳には響いていた。
アルテリスは、心底ジャミーラを気に入っているようだった。「殿下もきっと好きになりますよ」と、微かに声音を弾ませて毎度のように言っていたほどだ。
確かにムスタファも、先ほどの夜の庭園での会話を通して、ジャミーラという人間に強い感銘と好感を抱いた。
だがそれは、決して恋情などではない。己の目的のために手段を選ばぬ、“契約相手”として申し分がないという、極めて冷徹な評価に過ぎない。
「……どうかなさいましたか」
あまりに長い沈黙に沈む主を案じ、アルテリスがわずかに身を屈めて覗き込んできた。
金糸の髪がふわりと揺れ、主を案じる琥珀色の瞳が、室内の柔らかな灯りを宿してきらめく。
「いいや。お前の言う通りの方だったよ」
ムスタファは額に乗せていた腕を退け、ひどく穏やかに答えた。己の胸の内に巣食う昏い企みを、目の前の忠誠に決して悟らせぬように。
「素敵な方でしょう?」
滅多に見せない、年相応の無邪気な声音。
その微笑みに肯定も否定も返さず、ムスタファはただ小さく唇を綻ばせた。
「油断は禁物だぞ」
「心得ております。他者の心の内までは、容易に分かりませんので。けれど」
アルテリスはそこで一度言葉を区切ると、真っ直ぐな視線を主君へと向けた。
「良きご縁であれば、どうか決して、手放さないでいただきたいのです」
曇りひとつない願いが宿る、美しい琥珀色の瞳。
その純粋な光に射抜かれ、ムスタファは小さく喉を鳴らして目を伏せた。
(……アルは何も知らない)
自分が今宵、彼女とどのような“契約”を交わしたのか。これから先、どのような欺瞞の舞台にジャミーラを立たせるのか。誰を守るために、あの気高い令嬢を“盾”として利用することに決めたのか。
アルテリスは何も知らない。
だからこそ、心から「殿下とご婚約者が幸せになってほしい」と願っている。その無垢な忠誠心と祈りが、かえって今のムスタファの胸には、鋭い刃となって深く突き刺さっていた。
(俺は、お前を裏切っている)
わかっていた。それでも、もう引き返すつもりなど毛頭なかった。
「アル」
「はい」
「ここへ」
ムスタファが長椅子の隣のわずかな空白を指すと、アルテリスが一瞬だけ困ったように眉を寄せた。主従の距離感を弁えようとする躊躇い。それでも、抱えた上着を落とさないよう抱き直しながら、静かに、吸い寄せられるように腰を下ろした。
距離が縮まる。
至近距離で、深紅の瞳と琥珀の瞳がまっすぐに重なり合った。
「……歌を、歌ってくれないか」
アルテリスは、長く美しい睫毛を揺らして目を瞬いた。
「もう遅い時間です。早くお休みになる準備をしなければ」
「疲れたんだ。少しでいい。お前の歌を聴いたら、すぐに支度をすると約束する」
「……仕方のないお方ですね。約束ですよ」
観念したように、アルテリスが静かにその長い瞼を閉じる。
やがて、部屋の空気を優しく撫でるような、穏やかで美しい旋律が部屋を満たし始めた。
柔らかな歌声は、夜の静寂に溶けていく。
それはムスタファにとって、この狂おしい世界で唯一、心を凪に導き、眠りへと誘ってくれる“鎮魂歌”だった。
自分の胸の奥底に沈む、愛おしさと、酷い罪悪感さえも、すべて優しく包み隠してくれるかのように——




