契約
漆黒の外套を厳かに纏うムスタファと、深い森のような濃緑色のドレスに身を包むジャミーラ。
大広間の中央、シャンデリアの燭光を全身に受けて優雅に舞うふたりの姿はどこまでも幻想的で、アルテリスは壁際の暗がりに身を潜めながら、静かにその光景を見守っていた。
美男美女——誰の目にも、それこそ絵画から切り取ったかのように完璧な組み合わせだった。
普段は彼らを“悪魔の民族”と遠巻きに蔑む令息令嬢たちでさえ、今宵ばかりは毒気を抜かれたように言葉を失い、ただその美しい舞いに見惚れている。
——本来なら、これ以上なく喜ばしいはずの主君の晴れ舞台。
それなのに、アルテリスの胸の奥には、言葉に出来ない小さな棘のような違和感が静かに突き刺さっていた。まばゆい光の中心で、互いだけを見つめ合っているふたりの姿。そこからどうしても目が離せない。
アルテリスは表情を一切変えぬよう、いつものように感情に冷たい蓋をした。
「よぉ、アル。踊らないのか?壁の花にしておくには勿体ないくらい、そこのご令嬢たちがお前と踊りたそうにこっちを見ているぞ」
思考の底に沈みかけていたアルテリスの耳元に、聞き慣れた軽い声が降ってきた。見やれば、ライルが飲み物を二つ手に持って、ひょっこりと現れたところだった。
短く整えられた黒髪の奥、後ろ髪のひと房だけを細く結ったお下げが、彼の動くたびに肩口でかすかに揺れる。その深紅の瞳にはいつもと変わらない悪戯めいた光が宿っており、あろうことか口元には、先ほどつまみ食いしたであろう菓子の欠片をつけたまま、軽薄な笑みを浮かべていた。
——もっとも。普段ならだらしなく肩から半分落としているはずの外套が、今宵ばかりはきちんと両肩に掛けられ、襟元まで完璧に正されている。
その窮屈そうな、けれど見違えるほど気品に満ちた正装姿は、彼の普段の着崩した姿しか知らぬ者が見れば、まるで別人のように映るに違いない。
「私は殿下の側仕えに過ぎませんので、皆様と踊る立場にはございません」
「相変わらず堅いなぁ。お前だってこの学園の“生徒”なんだからさ、少しは楽しめよ。ほら」
押し付けられるように差し出された杯を、アルテリスは断りきれず受け取った。
ライル・イルハン。ランデュート王国の名門・イルハン侯爵家の長男。
同じ側近という立場ではあっても、由緒正き貴族の彼と、平民の庶子である自分とでは本来、天と地ほどの身分差がある。
それでも、一切の気負いなく対等に接してくれる彼の存在は、アルテリスにとって数少ない救いだった。
「……で、おふたりの様子はどうだ?」
ライルは手元の杯に口をつけながら、視線だけを舞踏の輪の中心へと向けた。
ムスタファの大きな手が、ジャミーラの細い腰をさりげなく支え、次の足運びへと滑らかに導いていく。その洗練された一挙手一投足が、どうしてこれほどまでに胸を締め付けるのか、アルテリスには分からなかった。
アルテリスは表情を一切変えぬよう、いつものように仮面を被る。
「とても、良い雰囲気だと思います」
「そっか」
ライルの声が重く響く。
アルテリスは、胸の奥がわずかに軋むのを気のせいだと切り捨てた。
自分は殿下の忠実な影であり、ただ主君の幸福と、その隣に立つに相応しい美しい婚約者の存在を祝福すればいい。
この胸に広がる、ひどく冷たくて重いものの正体に彼は気付かないふりをして、重く固い蓋をした。
⚜️⚜️⚜️
流れるようなワルツの曲が終わりを告げると、ムスタファはジャミーラの手を取ったまま、喧騒に満ちた大広間を離れて静まり返った夜の庭園へと彼女を導いた。
大きな噴水のそば——聞こえるのは心地よい水の音と、遠くの講堂から微かに漏れてくる音楽の残響だけ。
ひんやりとした夜気がジャミーラの露出した鎖骨を優しく撫で、月明かりの届かぬ生垣の影が、ふたりの足元で不穏に揺れている。
ムスタファは不意に足を止め、その燃えるような深紅の瞳で、まっすぐにジャミーラを見据えた。
そして、一呼吸の静寂を置いて、あまりにも淡々と告げたのだ。
「失礼を承知で申し上げます、シャマル様。
私は、あなたを愛することはできません」
「……え?」
あまりに突然の、剥き出しの拒絶だった。ジャミーラの思考は瞬時に凍りついた。
生まれる前から、国の都合で定められていた婚約。
いつか彼の妃となるために、血のにじむような努力を重ねて費やしてきた、これまでの時間。
侯爵令嬢としてのプライド、義務、そして覚悟——それらすべてが、目の前の男の冷徹な一言によって、一瞬にして音を立てて崩れ落ちていくような錯覚に囚われる。
しばらくの間、呼吸の仕方も忘れて立ち尽くしたあと、ジャミーラは震える声をどうにか絞り出した。
「……理由を、お伺いしてもよろしいでしょうか」
自分が“追っかけ令嬢”と周囲に揶揄されている噂のせいだろうか。それとも、彼が信頼するあのアルテリスから、何か自分の不手際でも聞いたのだろうか。思い当たる節を必死に手繰り寄せても、どれも決定的な理由には思えなかった。
問いかけに対し、ムスタファは表情ひとつ変えずに答えた。
「私には、心から想う人がおります」
「……そう、ですか」
皮肉なことに、どんな建前よりも納得がいってしまう答えだった。彼ほどの男が、これほど強固に自分を拒む理由。けれど、理解できたからといって傷つかないわけではない。ジャミーラの胸の奥が、ひどく冷たく凍りついていく。
「では……殿下のお話とは、わたくしとの婚約を破棄したい、ということですのね」
覚悟を決めて尋ねたジャミーラに対し、しかしムスタファは静かに首を横に振った。
「いいえ。婚約は破棄せず、あなたには——対外的には、これまで通り私の婚約者でいていただきたいのです」
「……は?」
あまりの理不尽さに、令嬢としての取り繕った言葉遣いが思わず崩れた。
「私への愛を演じる必要はありません。この提案を承諾していただけるのであれば、それ以外、あなたが何をしようと全て自由です。生活や財政の面で不自由をさせることも、決してないと約束しましょう」
「意味がわかりませんわ!」
ジャミーラはとうとう感情を抑えきれず、鋭い声を荒らげた。
「想い人がおられるのであれば、わたくしとの婚約など今すぐ破談にして、正式にその方を新しい婚約者として迎え入れればよろしいでしょう!」
「それは——できないのです」
苦渋をにじませたその一言で、ジャミーラはすべてを察してしまった。
「……その方は、貴族ではないのですね」
ムスタファからの返答はなかった。だが、沈黙こそが何よりの肯定だった。
身分違いの恋。本国ランデュートの耳に入れば、その平民の女性は命すら危うい。だからこそ、ジャミーラという隠れみのを盾にして、その裏で愛人を守り続けるつもりなのだ。
(なんて傲慢な方……!わたくしをその身代わりとして、都合よく利用するつもりなのね)
理屈は理解できても、あまりにも身勝手な提案に、胸がひどく怒りと屈辱で震えた。
「この提案は、あなたにとっても悪い話ではありません」
「……どういう意味ですの?」
不快感を隠そうともしないジャミーラに対し、ムスタファは静かに、けれど確信を突くように言葉を紡いだ。
「シャマル様。あなたは——神聖術師に憧れておられるとか」
ジャミーラは、全身の血が引いていくような感覚と共に息を呑んだ。
「……アルテリスさんに、伺ったのですね」
胸の奥が、嫌な音を立ててざわつき始める。
裏庭で、彼を信じて、誰にも言えなかった過去の傷と共に打ち明けた、あの秘密の夢。それが今、目の前の婚約者に筒抜けになり、あろうことか交渉の切り札として使われている。
——ふわりとした金色の髪の少年、アルテリスの顔が脳裏をよぎる。
(……情報を集めて殿下に報告するために、わたくしに近づいたの?友達になれたと、信じていたのに……!)
裏切られたのだという明確な痛みが、胸の奥をちくりと深く刺した。
しかし、ムスタファの言葉は続いた。
「もし今ここで婚約を破棄すれば、あなたはこの学園に留まる理由を失い、本国の侯爵家に連れ戻されてしまいます。
ですが、私の婚約者という立場であり続ける限り、あなたは誰の目を気にすることなく、このエリュシアで学び続けることができる。
お望みであれば、聖騎士団の見習い試験を受ける道も、私が裏から手配しましょう」
——甘い。提示された条件は、あまりにも魅惑的だった。
「殿下は……ランデュートの民であるわたくしが、神聖術を学ぶことを、本当に反対なさらないのですか」
「あなたの人生は、あなたのものです。あなたの思うまま、好きに生きればよい」
「……わたくしがそのような行動をすれば、世間は殿下をも批判するかもしれませんわ」
「私の悪評など、既に数え切れないほど市井に溢れています。これ以上増えたところで、今さら気にもいたしません」
淡々と言い放ったムスタファを、ジャミーラは息を詰めて見つめた。
悪魔の民と蔑まれるランデュート王国。その筆頭たる美男子でありながら、彼はただ一人の愛する者を守るため、自らの名誉も王族としての誇りすらも喜んで泥に投げ捨てる覚悟だ。
そして、自分を裏切ったアルテリスも、この無謀なまでに一途な主君のために、すべてを承知で泥をかぶる覚悟で動いていたのかもしれない。
(……なんて、莫迦げた主従かしら)
胸を刺していた裏切りの痛みは、いつしか消えていた。代わりに、彼らの持つ底知れない覚悟の重さに、ジャミーラの中に眠る頑なな矜持が激しく揺さぶられるのを感じていた。
「殿下のお話は、確かに魅力的ですわ」
ジャミーラはムスタファの赤い瞳をまっすぐに見つめ返した。
「ですが、これは王族としての殿下にとっても、非常に険しく泥をすするような道です。
それでも、お選びになるのですか」
ムスタファは、今度は完璧な王族の仮面ではなく、ひとりの男としての確かな覚悟を瞳に宿し、迷いなく頷いた。
「少しでも可能性がある限り、私は行動します。
行動しなければ、叶うものも叶わない」
その強い眼差しを見て、ジャミーラは悟った。
「……殿下は、本当に、心からその方を愛しておられるのですね」
ほんの少しだけ、その見知らぬ誰かが羨ましいと思ってしまった。
自分もいつか——こんなふうに、すべてを捨ててでも守りたいと、誰かに深く想われる日が来るのだろうか、と。
ジャミーラは静かに夜気を吸い込み、侯爵令嬢として、そしてこれからはムスタファの“共犯者”として、美しく背筋を伸ばした。
「……かしこまりました。その契約、謹んでお受けいたしますわ」
この選択が、自分たちの未来にとって吉と出るか、あるいは破滅への凶と出るかはわからない。
それでも彼女は、かつて一度は諦めかけた大切な夢をその手に取り戻すために——今、自らの意思で、新たな一歩を力強く踏み出した。




