友達
「朝……」
新入生歓迎会の翌日。
カーテンの隙間からこぼれる光に瞼を押し上げられ、ジャミーラはゆっくりと身を起こした。
体は鉛のように重い。
枕に散った漆黒の髪と、眠りの残る深紅の瞳が、昨夜の余韻を物語っていた。
薄く腫れた目元にそっと指を添えると、小さなため息がこぼれた。
「結局、ほとんど眠れなかったわね……」
ムスタファ王子のこと、神聖術師のこと、そしてアルテリスのこと。
一夜にして降りかかったあまりにも多くの出来事が、胸の内をざわりと掻き乱し、眠りを奪っていたのだ。
「……放課後、図書館へ行ってみようかしら」
思い浮かんだのは、陽光を受けてきらめく金の髪と、穏やかな琥珀色の瞳を持つ少年。
会いたい。
気まずさも戸惑いもあるのに、それでも会いたかった。
避けては通れない。
ならば、せめて早い方がいい——
そう思い立つと、ジャミーラはようやく布団から抜け出した。
⚜️⚜️⚜️
「いないわ……」
放課後。
ジャミーラはいつものように図書館を訪れ、入口から奥へと視線を巡らせた。
しかし、毎日のようにそこにいたはずの金色の髪は、どこにもいない。
「まだ来ていないのかしら」
胸の奥で不安がそっと囁く。
(目的を果たしたからもう来ない……
なんてこと、ないわよね)
思い起こせば、当初アルテリスは図書館にはいなかった。
見かけるようになったのは、入学式典の数日後からだ。
放課後ここにいることも、
自分と過ごす時間さえ、
ただ主命に従った“役目”だったのだとしたら——。
胸の奥が、ひやりと冷えた。
「シャマル様」
背後からかけられた声に、ジャミーラは振り返った。
「アルテリスさん」
そこには、雲のようにふわふわとした金色の髪を揺らし、澄んだ琥珀色の瞳でまっすぐ彼女を見つめる少年の姿があった。
気づけば声が弾んでいた。
胸にかかっていた靄が、ふっと晴れていく。
対するアルテリスは、真剣な面持ちで、深々と頭を下げた。
「シャマル様。
改めまして、ランデュート王国第二王子ムスタファ・ランデュエル殿下の側近を務めております、アルテリスと申します。
この度はシャマル様に不愉快な思いをさせてしまいましたこと、深くお詫び申し上げます」
あまりにかしこまった態度に、胸の奥がきゅっと締めつけられる。
それが欲しかったわけではない、と言いかけて、言葉が喉に絡んだ。
ジャミーラはしばらく黙ったまま、床に落ちる自分の影を見つめていた。
言葉にしてしまえば、もう後戻りはできない。
——それでも、逃げたくなかった。
「……わたくしね」
指先でスカートの端をそっと握る。
「貴方と過ごす時間が楽しかったの」
顔を上げることはできない。
「初めて、気を遣わずに話せる方ができたって嬉しかったのよ。
“友達”って、こういうことなのかしらって」
声がわずかに揺れる。
「だから……」
アルテリスの顔を見られずに、続ける。
「貴方が殿下の側近だと知ったとき、
あの時間も全部、任務だったのかもしれないって考えてしまって。
……すごく、傷ついたの」
指先に力がこもる。
「だから、もし本当に、申し訳ないと思ってくださるなら……
ひとつだけ、お願いを聞いてくださらない?」
「……何でございましょう」
ジャミーラは、そっと息を呑んでから言った。
「わたくしの……お友達になってくださらない?」
それは、侯爵令嬢としてではなく、一人の少女としての願いだった。
アルテリスの琥珀色の瞳が見開かれる。
「わたくし、貴方を友達だと思っているのよ。
……それだけなの」
アルテリスは一瞬だけ視線を落とし——
そして静かに顔を上げた。
「……いたしかねます」
その言葉は、薄い刃のように胸へ触れた。
思わず息が詰まる。
「私はあくまで殿下の側近であり、貴族ですらございません。
身分を越えて友誼を結ぶのは……シャマル様に対して、無礼となりましょう」
主君の婚約者と側近。
貴族と平民。
——越えられない線が、そこにはあった。
理解はできる。
けれど——胸が締め付けられるほど悲しかった。
「それは……そうかもしれないけれど……」
言葉は続かなかった。
「シャマル様」
アルテリスは穏やかな声で続けた。
「——もし宜しければ、
殿下の“ご友人”になって差し上げてくださいませんか」
「殿下の……?」
思わず眉が寄る。
「殿下には敵が多く、信じられる者も限られております。
かつては、信じた者に命を狙われたこともございました。
殿下が本心から心を許せる相手が、
どうか……ひとりでも増えますようにと、願っております」
その言葉は、アルテリスがどれほど主を大切に思っているかを、雄弁に物語っていた。
(……そう言われても)
ムスタファが口にした
『契約は他言無用で』
という言葉が脳裏をよぎる。
(契約のこと、彼は知らされていないのね……)
ジャミーラはそっと息を吸い、
「……わかったわ。
でも、その代わりに、わたくしの願いも聞いてほしいの」
「それは——」
遮るように首を振る。
「友達でなくてもいいわ。
でも……二人きりの時だけは、今まで通りに接してくださらない?」
アルテリスは迷うように瞳を伏せ——
やがて静かに頷いた。
「……かしこまりました。
可能な限り、シャマル様のお望みのようにいたします」
「ありがとう」
ジャミーラが微笑むと、アルテリスもまた、柔らかく微笑んだ。
「アルテリスさん、この後のご予定は?」
「殿下の護衛に戻るところでございます」
「そう……では、放課後にふたりで過ごすのは難しいわね」
少し寂しげに呟くジャミーラに、アルテリスはふと思い出したように言う。
「もしよろしければ、殿下とご一緒に自習をされませんか」
「殿下と?」
「ええ。
私も参りますし、殿下との親睦を深められるかと」
ムスタファとジャミーラの距離を縮めようとする彼の意図に、ジャミーラは思わず苦笑した。
「わかったわ。案内してくださる?」
「かしこまりました」
そうしてジャミーラは、アルテリスに導かれ、静かな図書館を後にした。




